第31話
現代に戻った俺はポケットから車のキーを出しておそるおそるスターターボタンを押したのだった。インパネがうっすらと浮かび上がり、日付が表示された。レンタカーで借りてから4日しかたってないことがわかる。エンジン音が微かに聞こえる。よかった。失踪事件にならないですんだ。行先ナビを出雲空港にあわせた。発進しようとしたところで、アクセルの踏むのをやめた。気になる、現代に残る古事記の記述内容が。スマホのバッテリー表示、赤ランプが点滅してる。祈る気持ちでネット画面を出す。すかさず「古事記の稲佐の浜」とだけ文字を書き込んで、検索を指先でポンと押す。やった、ヒットしたぞ。早くしないと消えてしまう。俺は息を殺して素早く読んだ。
「・・・稲佐の浜において大国主神(オオクニヌシノカミ)は、お子神の阿遅鋤高日子根神(アジスキノタカヒコネノカミ)にむかって、これから大和の地へ鉄の鋤(すき)を千丁持っていき、これまでわたしの造り治めてきた葦原の中つ国を瑞穂の国にするようにと命じました。ただし、八雲立つ出雲のこの国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る布都御魂剣(フツミタマノツルギ)を置いて、わたしが永劫に守ろうと言われました。・・・」
これが国譲りの真相だった。というより、出雲の国を譲るという話自体がそもそもなかったのだ。だから当然、稲佐の浜で決闘シーンなど出てくるはずもない。そしてこれまで古事記ではオオクニヌシの子供とされてたタケミナカタもコトシロヌシも姿を現さず、いわんや、タケミカズチなどという縁もゆかりもないものはかけらも出てこない。
ほぼ、出雲國風土記の記述通りに古事記の国譲り神話が根底から更新し直され、さらにはアジスキノタカヒコが一気にクローズアップされることとなった。これで日本の記紀神話の内容はその隅々までも大きく様変わりをしてしまっただろう。架空のタケミカズチなるものと稲佐の浜で決闘こそできなかったが、むしろそれでよかったではないか。アジスキノタカヒコよ、これでおまえは1500年もの暗闇から脱出し、大和葛城の大王(おおきみ)として有史以来の古事記に、燦然とその名を残すことになった!
運転席での長かったこれまでの追想を切り上げ、俺は出雲大社の広い駐車場に車をとめた。全国各地からの車のナンバーでいっぱいだった。社殿までの長い参道は一直線に伸びている。大きな鳥居をくぐった神門通りは出雲そばやら、ぜんざいなどの看板が目立つ。お店の中はどこも参拝客でいっぱいだ。松林の続く参道の一本道にさしかかったところで思わず足が止まった。ここだ!ここから長い階段が始まった!
あの、標高96メートルの空中に忽然と浮かんだ檜社(ひのきやしろ)にたどり着くまで、200メートル以上もの気の遠くなるような長い階段が柔らかな勾配でつながっていた。ちょうどこの地面の下り坂辺りからそれは檜社に向かって上り始め、どんどん空中の高みへと俗世を払っていったのを思い出す。周りを白砂青松が包む美しい浜辺に、出し抜けに天への階段が夥しい大木の支えの列でもって屹立していた。日本海の波が遠く、近く、静かに打ち寄せる。見上げると、たたなずく青垣を背景にして、空の彼方に霞む本殿は、あまりに高く、美しい・・・。
・・・古代の空中。こんなに濃い空を俺は生まれて初めて見る。天空のど真ん中を陣取るとは、こういうことをいうのか。はるか下の浜につながる階段の、その夥しい板の配列が目を眩ませる。下りの勾配がゆっくりと延び、浜砂と干拓農地の狭間あたりにあわさっていく。階段の縁取した欄干の朱色が、日本海の群青に映えて美しい。絵にもかけない美しさ・・思わず小学校1年の竜宮城の場面を口の中で歌ってみる。
古代の晴天は清々しい。先日の落成式典の日は空に霞がかかって、国引き神話の佐比売山(三瓶山さんぺいざん)を見ることができなかった。しかし今日はここからよく見える。火山なのだろうか、頂上から微かに煙がのぼってるように見える。その石見(いわみ)の海岸からとてつもなく長い弓なりの海岸線が、群青の海に沿って、澄んだ輪郭を引いている。その美しい線はリアス式海岸の日御碕までつながっている。まさに出雲国風土記の冒頭、国引き神話の風景が眼下に広がり、全身の肌に沁み込む。
目の前で執り行われている祝詞(のりと)奏上も、もうじき終わろうしている。玉鋼(たまはがね)の剣(つるぎ)は、奏上詞といっしょに祭壇に捧げられたあと、物部氏らの手で木箱に入れられて蓋(ふた)がされた。
完成して間もない立派な玉鋼の十拳剣が、今まさに陽の目を見ることなく、ここに封印された。
まさかこの剣が出雲の祖、布都怒志(フツヌシ)のご神体、布都御魂剣(フツミタマノツルギ)として祭られることになるんだなんて、大普請出雲大社の建立中は誰ひとりとして予想もしていなかったことだった。見れば、アジスキノタカヒコだけが、やはりどこか浮かぬ顔をしてる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます