第26話

昨夜泊まった葛城氏族の末裔らはもう、旅館を出発してしまっただろうか。もし出発してしまっていたならまずいことになる。これから二人して戦国末期にまでタイムスリップし、昨日の旅館のところで合流しなくてはならないから。観光バスで旅館を出発したあとは、次は物部氏族の末裔らとの合流も待っている。そのうえで斐伊川上流の踏鞴場へと足を運ぶはず。そこで毛皮の男の言ってた計画がうまくいけば、十拳剣の元となる玉鋼をつくることができる。


しかし問題はそこからだ。さらにさかのぼった神代の古代、多分、西暦300年から500年くらいの間だろう、靄がかかったそこの時代にまで玉鋼を携えて行かなければならない。出雲の大社建立のために、玉鋼の十拳剣を朝廷にさしださなければならない。


なのに今、俺はとてつもなく時間の隔たったところで、レンタカーを借りた。ニッサンシーマはどうする?どこの場所に置いて過去へ行けばいい?そしていつ戻って来れる?俺は迷った。迷った挙句に10日間の文字を借用期間の空欄に埋めた。長すぎるな。できればもっと早く帰った方がいい。会社をクビにはなりたくない。


車の鍵をもらい受け、店を出ようとしたところで、お客さん用の折り畳みパンフレットが束になって置いてあるのに気づいた。「しまねガイドマップ」と書いてある。役に立ちそうだ。「1枚もらっていきます」と言い捨て、ニッサンシーマの運転席ドアを開けた。


 出発してすでに1時間は経ってるだろう、インパネのナビは出雲の玉造温泉街を相変わらず行ったり来たりしている。いくつかの車とすれすれにすれ違ってはスピードを落とし、また進める。大勢の観光客らが、整然と建ち並ぶ温泉旅館や土産物屋を逍遙してた。縁台に腰を掛けて景色を眺めたりしてる者もいる。ちりん、ちりんと風鈴が鳴る。浴衣を着た若い女性たちが団扇を片手に会話を振りまきながら行き過ぎていく。さすがは日本最古の名湯。若い子に人気がある。1300年前の出雲國風土記にも大勢の人で賑わっていたようだし。ニッサンシーマの行き止まった先々でのちょっとした川の流れや路傍の堤にまでも、古式ゆかしい趣を感じてしまう。


しかし、すでに日は頭上をはるかに昇っている。

「やっぱり、でかけてしまったあとだったようだわ」

 アメノウズメさんは、大きくため息をついた。これ以上は仕方ない、ついに俺も諦めを呑み込むことにする。橋のたもとの大きな柳の下に車をとめる。レンタカー屋さんでもらったマップを運転席前に大きく広げた。


「えーと。まずは踏鞴遺跡だ。いやあ、これはたくさんあるな」

地図を一見しただけで、かつての奥出雲が鉄の踏鞴場で賑わっていたことがわかった。

「たしか、毛利家の侍には見つからないよう、玉鋼踏鞴の協力をしてくれるだろうというのが、物部氏族の末裔だったよな。ええと、毛皮のあのお方は、物部神社の界隈だと言ってたから・・」

 そう言って、俺は出雲市の西に隣接する大田市の物部神社の表示を見つけてペンで囲んだ。

「で、ええと、ここに近い踏鞴場遺跡はどこかな?」

アメノウズメさんも俺に顔を擦りつけるように近づけて、一緒に地図の上を探す。

「あったわ。ここなのかもよ」

指さしところが出雲市の最西端にある「田儀櫻井家たたら遺跡」というところだった。たしかにここだと、物部神社からそう遠くないな。俺はペンで囲んだ。すかさずマップを裏返す。いくつもある、踏鞴遺跡紹介一覧表を声を出して順に読み進めていった。


「田儀櫻井家たたら遺跡」・・・江戸初期に仁多の櫻井家が奥田儀村に来訪して、踏鞴製鉄を始めた場所。


「やったぞ!江戸初期だってよ。あなたの出雲阿国さんのいる時代とマッチしたぞ!」

思わず声を荒げらた。この櫻井家が物部氏族の末裔らと関係があったかどうかについては、どちらにしてもわかる由もないだろう。時の毛利家、あるいは徳川支配の手先にわからないよう、少なくとも当初は隠密でことを運ぶ事態だったのだから。しかし、地理的にも、時代的にも、この場所が符合するのだ。


ナビは車をどんどん深い山の谷あい沿いに連れて行く。やっと1台が通れるだけの狭い林道はひどくぬかるんでおり、せっかくの新車も泥だらけになってしまってるだろう。レンタカー屋さん、ごめんなさいと、運転しながらひとりごちる。鬱蒼とした樹林に囲まれた狭い谷。ナビが「目的地周辺です」と告げる。


車の外に立ち、ドアを閉じた。まるでかつての踏鞴場の魔界にきているよう。切り込んだ川。流れる音。崖を切り崩したような狭い平地に、お屋敷のような古い建物が1軒、扉をしめ切った状態で佇んでいた。かなり年月がたってるのだろう、縁側の格子戸がいまにも朽ち果てそうだ。看板に、田儀櫻井家の菩提寺と記されていた。見れば苔むした墓石もいくつか並んでいる。


砂鉄を原料にした踏鞴製鉄が江戸時代に盛んにおこなわれてたが、その後火事に見舞われてしまったと、その看板には書かいてあった。踏鞴場や鍛冶場の跡がどこにあったのかは、もはやわかる由もない。真っ赤に燃え盛る踏鞴場は、長い年月のなかで、泥の底へと埋まってしまったのだろうか。きっとあの葛城の人たちの声も地中深くに眠っている。毛皮の男も、昨日若返ったばかりのアジスキノタカヒコネも。山あいの、この圧し潰れそうな時間という名の空間だけがじっと静かに佇んでいる。


もう、過去にはもどれない?


ぬかるみの小さな橋を渡ろうとしたところで、古びた木の札が立てられているのが目に入った。「モリアオガエル生息地」と墨で書かれた文字が、辛うじて読める。

初めて登山を試みた鳳来寺山の中腹でも、同じような看板を見たことを思い出す。モリアオガエルの卵の泡が古池の上の、木の枝についているのに俺は出くわしたものだった。古池のまえでたたずんでいた俺の姿。アメノウズメさんはその姿に偶然出会った、らしい。


「あなたのおうえんをしようときめたのです」

「応援?」

「いずもで、そせいのかみさま、かみむすびに、あなたを、あわせたいです」

「・・・・・」



「ねえ、みて!」

アメノウズメさんの声。えっ?なに?指さす方を見る。藪のような隙間を、今にも崩れ落ちそうにして、細い石段が急こう配に上っている。苔むした長い、長い石段のようだ。あまりにも急こう配のため、工事などでよく使われる頑丈なロープが、まるで登山で岩場をよじ登るときのザイルのようにして、石段のまん中を垂れ下がってる。


「おもしろいわ。こんなの、しんじられない」

そう言って、いかにも楽しそうにアメノウズメさんがロープを掴んで石段を上っていく。俺もそのあとに続く。小さな石の鳥居をくぐると、さらに上にその石段は続いていた。やっと見えてきた小さなお社。金屋子神社と彫ってあった。


転げ落ちないよう、ロープをしっかり掴んで、今度は苔むす石段を下りる。夥しいまんだらに描かれた樹林のカーテンパネルを指先で破った。小さな破れ目を押し広げる。案の定、いろんな人々の働く姿が見えた。忙しく走り回っている。踏鞴製鉄の力仕事。集落の子供たちが石垣の向こうで見てる。


破れ目を閉じる。踏鞴(たたら)集落の家跡のようなものがいくつか見える。家を囲んでた石垣の跡だとかが。しかしその後、植林されたらしい大木が、朽ち落ちた床の下から何本もそそり立つ。まるで過去の遺物を一蹴するかのように。鬱蒼とシダが生え、気持ち悪い。400年以上も前の踏鞴(たたら)鍛冶職人たちがシダの隙間に隠れている。木々の裏側には幾人もの亡くなった鍛冶職人の身体が張り付いている。薄気味わるい。すべては過ぎ去った営みだ。早くここから立ち去ろう。


車の方へと俺は足を進める。菩提寺と墓石の隙間、一本の樹木の下に一筋の粘土の溝、そこをかすかにチロチロと水の流れるのが見えた。

「あれっ?なにかしら」

アメノウズメさんが近寄っていく。背中をこちらに、しゃがみ込む。

「どうした?」

「ねえ、きこえない?」

「え?なにが?」

俺もいっしょになってしゃがむ。


ぐわ、ぐえ、ぐわ、ぐえ、


奇妙な音?声?

耳を澄ます。水滴の音の向こう。たしかに何かが聞こえる。目の下の、かすかな水たまりの片隅に、黒くて跳ねるものが映る。

「あっ、かえるの子だ!」

見れば、あちらにもこちらにも、今、かえったばかりなんだろう、小さなかえるのあかちゃんがぴょんぴょんはねている。まだおたまじゃくしのしっぽをつけたままのものまでいる。


俺はしゃがんだまま、上を見上げた。伸びた木の枝のところに、モリアオガエルの卵の白い泡のかたまりの跡がこびりついていた。

すうっと、水滴がひとつその時、髪の毛をかすめて、水たまりに落ちていく。水たまりの中でアメノウズメさんが揺れ、小さなオタマジャクシが見える。生まれたばかりの手と足が動き、波紋がひろがっていく・・・。



顔を上げた。人々の姿。男たちが上半身を裸にして働いている。土塁のような建物がある。煙がシャワーのように勢いよく空の方へ立ちのぼっている。火の燃える木炭が鼻をつく。


これが踏鞴の風景なのか。若そうな男がひとり、こちらに向かって走ってくる。ひと汗かいたあとの爽快な顔。曇り気のない笑顔。

「出雲の阿国さん!サルタヒコさん!」

「アジスキタカヒコネさんですか?」

俺は尋ねる。水たまりからアメノウズメさんが立ち上がると、涼しい風が谷の中を駆け抜けていった。梢が一斉になびいて、立ち込めた煙を一掃する。


「間に合ってよかったです。ずいぶん長い旅に出られていたんですね」

アジスキノタカヒコネがそう言うとアメノウズメさんは尋ね返す。

「わたしたちは、なんにち、たびをしていたことになるんでしょうか」

「はつかと、みっかです」

「そうでしたか。じかんのながれは、つかみにくいものです」

「でもその間、我々は踏鞴踏みの番子(ばんこ)と、木炭運びと、砂鉄を取り出すための鉄穴(かんな)流しの役をもらってました」

「はがねは、どこまで、できてますか」

「明日が踏鞴の火消しなので、今日がふいご踏鞴踏みの、一番難しい仕上げの日だそうです。物部氏族の技師長は、純度の高い鋼にするのには、出雲の阿国さんでしかできないと言われてましたよ」

「たたらぶみ、ですか」

「そうです」




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