第19話

玉造(たまつくり)温泉の広い脱衣場においてあった木箱から、なにやら豆をすり潰したような粉末を一握りつかんで、たくさん並んだ蛇口のひとつに、桶を伏せて俺はすわった。石鹸はない。もちろんタオルなんていう洒落たものも、この時代には見当たらない。どの人も当たり前のことだが素っ裸だ。大きな露天風呂と洗面台とを行ったり来たりしている。

その洗面台では、めいめいが粉末を頭髪や髭にゴシゴシこすりつけて、その泡?をシャワーで洗い流していた。おいしいお酒をいただく前に、髪を洗って禊をしてる?声をたてずに真剣に洗ってる様がそう思わせて、どこかユーモラスにも見えた。

鏡はなかったが、シャワーがついていた。あるはずのない来世の器具が、目の前でシャーシャー音をたてて活躍しているのは、見ていても気持ちの良いものだった。観光バスという文明の移動車が、多少なりとも行きついた先での環境を部分的に変容させてくれてるのだろう。

俺も皆にならって、掴んでいた粉末をシャワーで濡らした髪にこすりつけた。普段使い慣れてるシャンプーとは全く違う、ざらざらとした手触りと頭髪に擦れるゴツゴツ感。なるほど、この香りは小豆(あずき)だ。名古屋名物の大納言小豆のカステラと同じ匂い。紫色の皮はまさにまさにアンチエイジングのポリフェノールの泡だともいえる。


歳はとった。しかし、小豆まめのことはまだ覚えているぞ。夏休み、石鹸の小さい空箱に小さな穴を4つ開け、そこに竹ひごを2本通して、それぞれの先端に牛乳瓶の丸くて厚い紙蓋を4つ刺す。そう、おもちゃの車の輪っぱだ。一番下の子の初めての夏休みの工作。それを一生懸命作ってる親。じっと見てる3人の子供。ランニングの胸を汗の線が流れる。蝉がないている。4粒の小豆まめを鍋で煮込んでやわらかくし、厚紙の輪っぱが外れてしまわないよう、竹ひごの先端にその柔らかな小豆まめを1個ずつ突き刺した。時間が経てばその豆は固くなって、輪っぱの牛乳栓は、石鹸箱の車から外れなくなるのだ。


「あんた、シャワーの水がこっちにかかる!」

隣の男が怒ったように、唐突に俺に向かって注意してきた。

「すみません」

 何のことだかわからなかったが、とにかくとっさに言葉を出して謝った。なんだったのだろうかと訝しく思う。が、すぐさま、隣の人も、俺も、元のように頭髪洗いに戻る。そうか、俺のシャワーの向きが、もろに横向きだったのだろう。だからその放水が隣のこの男に強く当たってしまっていたのだ。しかし、それにしてもそんなに怒らなくてもいいのに。気が短い人だな。俺だったら、これくらいのことは我慢してやり過ごすだろうに・・・。


 ああ!だけども・・。なんかこの感じ。同じことが、かつてあった気がする。

デジャブ?いったいどこだった?

ビー玉とビー玉が、「カッチン!」と見事、命中したときの音だったか?

いや、床に叩きつけた俺の鉄人28号のケンパンが、相手の月光仮面のケンパンをふうわりと裏返させた瞬間だったか。そんなに昔のことだったかしらん?


 俺は桶にすわったまま、顔を天井に仰向けさせてみた。考え事でもするかのようにじっと見上げてみる。天井の隅は湯気の帯が積み重なっては籠っている。遠くで、サルタヒコがじっと俺のことを見下ろしている。いつかの宿。そしてこの湯気。ああこの湯気だ。


玉造温泉。まさにここの、この場所だった。


 出雲大社の巨大な御心柱が、地底深くから現れて、「ざまを見ろ!」とテレビに向かって言われたあの年の寒い夜に、俺は子供たちとこの玉造温泉に入った。座り続けていたバスの長旅からやっと解放されたかのように、まだ幼かった二番目の子と三番目の子が、シャワーでお互いにかけあっこしてるようだ。俺は無言で、石鹸をぬりたくったタオルで裸の隅々をごしごしとこすっている。

「こらっ!」

 浴槽から突然、男の言葉が飛んだ。言葉が向けられてるのは我が子たち。怒られてびっくりした子供2人は、身体を洗ってた親の俺を見る。俺は子供を見てから男の方を見る。それらの状況を把握して、怒った男は親にも聞こえよがしに、急に遠慮がちになって言葉を添える。

「ねえ、あんまり水をとばしちゃあいかんよ、ねえ」

「すみませんでした」

 親の私は、そう言って軽く謝った。


風呂の天井で、「すみません」の、今日とあの時の、ふたつの言葉がそれぞれ、ゆらゆらと揺蕩うっているのが見える。それをサルタヒコが目を光らせてみている。

自分の声帯から出て、現れた俺の声。そして俺の言葉。深い意味を持つわけでもないただの「すみません」が、この世に放出されたという事実。たったそれだけのことで、こんなにも鮮明に記憶がよみがえってくるとは。あれは哀しい家族とのお別れ間近の旅だったのだけど、「すみません」の言葉があったことで、子供たちとの楽しかった出来事が、ちゃんとした形となって思い出された。

なにかが、ひらめいていく。今日おこったできごとのひとつ、ひとつがよみがえる。


 風呂場の湯気の中で葛城の誰かが「ようたぞ、ようたぞ」と言っている。そして仲間と今日あったことを談笑してる。


「ようたぞ、ようたぞ」


そうか・・・


「ややこは、なんにもいりません」

「ややこ、ややこ」

  ・・・

「かわ、」

「き、」

「くさ、」

「やま、」


アジスキノタカヒコネ、おまえ・・・。

 

俺は今日あった斐伊川での、ひとつずつの掛け声を喉の奥で繰り返してみる。言葉の出なかったあの男。バスから降りたところで「わたしといっしょに炎上しませんか」と俺にいってきやがった。しかしそれは、声が言葉になっていかない無念さ。炎上は、胸の内の怒りがかたちとして表せなかったゆえの選択。


わたしは「声」だけでなく、「言葉」が欲しいのです。

わたしは「言葉」でありたいのです。

わたしは、わたしでありたいのです!


やつの、これまで成しえることのできなかった心からの切望が、反響しながらまだ聞えてくる。そしてあの天井の湯気の向こうからは、サルタヒコが吠えている。おまえ自身は、いったいどうなんだと、サルタヒコが吠えている。



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