小豆洗い (1)
榛の屋敷に着くなり、それまで張り詰めていた気が抜けたのか、十左衛門は意識を手放した。
晴明は用意された布団に十左衛門を寝かせててから、汐の待つ部屋へと向かう。
静かに襖を開けて中に入れば、汐が緊張した面持ちで座布団に正座をし、部屋の中をきょろきょろと見渡していた。
「汐さん」
声をかければ、びくりと肩が跳ねて晴明を見上げる。
「お茶でも如何ですか?」
「あ、はいっ、ありがとうございます」
汐は驚いていた。まさかこの晴明という男が、十左衛門と知り合いだったことだけではなく師弟関係にあったとは。
あの時、晴明が迎えに来たというのは、十左衛門の事であったのか。
そして何故か、汐がどこに向かって、誰の元にかけていたのかも知っていたようで。不思議な人だ、と湯呑みを持ちながら、チラリと晴明を盗み見た。
ひとつひとつの所作が丁寧で美しく、喩えるなら蝶のような人だ。ぼうっと見とれていると、視線に気が付いたのか、晴明が顔を上げた。
色素の薄い、長いまつ毛に縁取られた
「あ、あの!」
見とれて紅く染まった頬を誤魔化すように、そして一番気になっていることを聞くために汐は声をあげた。
「榛さんは⋯⋯?」
「大丈夫、疲れて寝ているだけです。怪我も少なかったですし、きっと少し経てば目覚めると思いますよ」
晴明の返答を聞きほっと胸をなでおろす汐。静かに湯呑みを置くと今度は堂々と晴明を見つめた。
すっかり長居してしまったが、あまりここに居ても気を使わせてしまうだろう。十左衛門の無事――というには傷だらけであったが――もわかった事だし、お暇させて貰おうと頭を下げる。
「そろそろ帰ります。お茶、ありがとうございました」
「いえいえ」
立ち上がり、一礼して部屋を出ようと襖に手をかける。
「ああ、汐さん」
しかし、呼び止められてその足を止め、晴明を振り返った。
晴明は、汐をじっと見つめ、それから静かに言葉を発した。
「くれぐれも、水辺にはお気をつけて」
「⋯⋯? はい、わかりました」
汐はもう一度「ありがとうございました」とのべて、部屋をあとにした。
「ほぁー、晴明さん、綺麗だったなぁ」
頬に両手を当て、うっとりと呟きながら、汐は帰路に着く。
「っぷは──! やぁっと出れた」
汐の服からするりと姿をあらわした煙々羅は、それ迄黙っていた分を取り戻すかのように、怒涛の勢いで喋り出した。
「もうずぅ〜っと息潜めて嬢ちゃんの懐に隠れとったから、やっと解放されて気分爽快でィ! まあ多分、あの安倍晴明っちゅう男には絶対気付かれてると思うけど⋯⋯でもなァんも悪さしとらんし、祓われる謂れは無いけど、あの男、かなりの手練やろうしな。ほんっま、生きた心地しやせんでしたぜィ!」
「そういえば、ずっと大人しかったね、煙々羅さん」
煙々羅は両手を作り、汐の肩に肘を着く。なんとも疲れたようなしゃがれた声で「迂闊に姿見せて祓われてもうたら、たまったもんじゃねぇでさ」とため息をついた。
そういえば煙々羅は物ノ怪であったことを思い出す。すっかりこの定位置に収まるようになり、汐は煙々羅をペットのように感じていたので忘れていた。
確かに、安倍晴明のあの強さを見れば、煙々羅はつんと指一本でも触れれば祓われてしまうだろう。それほどあの男の強さが規格外ということ。
煙々羅は自身の身体を抱きしめ、ぶるりと震えた。
「ああ、嬢ちゃん」
「ん?」
「そっち、行かん方がええんとちゃう?」
「え、どうして?」
進む方角を止められ、汐は足を止める。此方の道は、いつも学校から帰っている道だ。
確かに街灯も少なく、既に日が落ちたこの時間帯は些か不気味ではあるが、通り慣れた道であるし、なにより物怪くらいなら煙々羅もついているから安心だ。
わざわざもうひとつの道を選ばずとも、いつも通り帰ればいい。
しかし煙々羅は真剣な声で続ける。
「そっち、橋渡って帰る道でぃ。晴明が水辺には気ぃつけろって、言うてたやろ」
「あ、そっか」
改めて煙々羅に言われて気がつく。こちらの道は、途中で川にかかる短い橋を渡るのだ。
橋、といえど、石造りの本当に簡易なものだ。
だが、晴明に言われたことが気になって、念の為もうひとつの道を選び帰ることにした。
────しょき、しょき、しょき
「⋯⋯?」
何かが聞こえた気がして足を止める。
「嬢ちゃん? どした?」
「ううん、なんでも」
聞き間違いかと首を振り、汐は歩を早めた。
あれからすっかり十左衛門も体調を回復させ、学校にも復帰する運びとなった。
十左衛門にはこってりと「危険な真似はするな」と、破ヶ原町まで掛けてしまったことを怒られてしまったが。
仄かに朱と灰色を混ぜ込めた色の夕空が、めいっぱい広がっている。
普段ならば既に家に着いている時間であるが、放課後、先生に呼ばれて少しばかり遅くなってしまった。
汐は小走りで帰り道を急ぐ。
今日は、どうしても観たいテレビ番組があるのだ。いつの間にやら煙々羅も一緒に楽しみにしているその番組が始まるまであと十分程。
こんな日に限って録画をし忘れたので、汐は煙々羅に急かされながら歩を早めた。
「あーもうっ、もっとはよう走れへんのかぃ、嬢ちゃん!」
「これでも急いでるよっ」
「前々から思ってたけど、嬢ちゃんって足遅いでな」
「うるさい!」
やいやい言い合いながらも走っていれば、二手に分かれる道にたどり着いた。
片方は、遠回りではあるが街灯も多く、補正された安全な道。
もう片方は、川辺に近い橋のある道。こちらは街灯も少なく、民家もない為に静かであるが、よく近道として使っている。
「⋯⋯晴明さんに、水には気をつけろって言われたけど」
汐は独りごちて、近道へと足を踏み入れた。
「お、おい嬢ちゃん」
煙々羅が静止をかけるも、テレビ番組が観れなくなるのは自分としても惜しい。
「⋯⋯⋯⋯ま、物怪が出たらオイラが払えばええか」
そう呟いて、汐の肩で腕を組んだ。
やはりこの時間帯にこの道を通るには些かほの暗く、じわじわと嫌な気分が染み渡って来るが、早く通り過ぎてしまえ、とさらに足を速く動かす。
────しょき、しょき、しょき
「っ、」
ばっ、と後ろを振り返る。煙々羅は驚いて両手を振り上げたが、汐は煙々羅ではなくもっと後ろを睨みつけた。
「な、なんや、どした?」
「⋯⋯いまの音、きこえた?」
「音ぉ?」
煙々羅は訝しげに黙り込み、傍らの音に耳を澄ます。が、特に気になるような部分もなく、煙々羅はますます不思議そうな顔を深めた。
「どんな音でィ?」
「⋯⋯なんか、水が流れる音みたいな」
「ああ、そりゃ川近いし、水の音でも聞こえたんでィ、きっと。ほら」
煙々羅が指をさすと、もう既に橋が目の前に見えていた。
「あれっ、もうこんな所まで出たの?」
「そりゃ走ってらその分早く着くで」
早く、と煙々羅に促され、汐は橋を渡る。ここを通ればもう我が家まですぐそこだ。
──しょき、
やはり遠くから音が聞こえた気がしたが、川の音だと自分に思い込ませ、走って渡りきった。
果たして本当に、川の流れる音なのか。
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