小豆洗い (2)
あれから、晴明から告げられた言葉を忘れずに毎日のように水辺の道を避けてはいるが、どうしても、あのしょきしょきという音が頭の中を反芻して離れなかった。
別れ道でいつも立ち止まって、しばらく耳を澄ます汐に煙々羅は呆れてため息を着く。
水辺には気をつけろと言われたのに水辺に惹かれてどうするのだ。
汐は、確かに物ノ怪を惹き付ける体質ではあるが、その実、汐自身も物ノ怪に惹かれているようで、なんとも言いようのないやるせない気分になる。
煙々羅には、汐のいう音が気にならない訳では無い。ついこの間までと比べると、こちらの水辺から何時もとは違った気配が漂い始めているのもまた事実である。
種族は違えど相手は同じ物ノ怪。類似の気配は敏感に感じ取るものの、煙々羅にはそれが害が否かの区別はつかなかった。なんとなく、嫌な感じがするだけだ。
そもそも煙々羅という物ノ怪自体、初めは汐を蝕む害ある物ノ怪だったのだ。
汐の無闇に祓わぬ無償の優しさに触れ、感動し、汐の傍に着くと決めたものの、その本質は物ノ怪。
相手が悪意を持つ物ノ怪であろうとも、汐に惹かれる気持ちはようく分かっていた。
だが、だからこそ。物ノ怪の恐ろしさは物ノ怪である煙々羅が深く理解している。
と、まあ長々と並べては見たものの、とどのつまり煙々羅は汐が心配なのだ。
川辺の道に進もうとする汐を「嬢ちゃん」の言葉と共に制し、汐が物ノ怪に惹かれぬよう引き止める。
「気になんのは分かるけどな、変に首突っ込んで危険な目にあうんは嬢ちゃん自身やで」
「うん⋯⋯でも」
──しょき、しょき、しょき
汐の耳には、少しずつはっきりとその音が聞こえてくるようになっていた。
なにか、小さな粒がぶつかって転がるような、一気に手を突っ込んだ時のような、子気味のいい音。
汐にはそれが、自分のことを誘っているようにも思えて、どうにも気になってしょうが無かった。
「榛の坊ちゃんに聞いたらいいんでィ、この音の正体」
「⋯⋯うん、そうする」
汐はまだ川辺の道を割り切れずに何度も振り返るが、煙々羅の「はよしな学校、遅れるで」との言葉に、慌ててもう片方の道を突き進んだ。
「変な音?」
学校からの帰り道、汐は煙々羅の言う通りに十左衛門に音の相談を持ちかけた。ついでに、晴明からの「水辺にはお気をつけて」の台詞も添えて。
「少しずつ、音が大きくなってると言うか、近付いてる気がして」
「……ふむ」
十左衛門は、汐の話を繋ぎ合わせ、答えを導こうと思考をめぐらせる。水辺、音、小さな粒がぶつかり転がる。小さな粒──。
「⋯⋯小豆洗いか?」
ヒントを繋ぎ合わせ、それが十左衛門がたどり着いた答えであった。
「小豆洗いっていや、ただ川で小豆あろてるだけのオッサンやろ?」
「いや、小豆洗いは人を攫い喰うとも言われている物ノ怪だ」
ええ、と驚きで固まる汐と煙々羅に、十左衛門は「安心しろ」と力強く告げる。
「そんなに気になるなら、行くか」
「行くって⋯⋯」
「その音の元へ」
驚いたのは汐だけではない。煙々羅は「何言うてんねや!」と声を荒らげた。
「坊ちゃん、あんな、あの晴明っちゅう男がやめとけ言うてんのや。ほだら弟子の坊ちゃんがみすみす危険に首突っ込んでええんでさ?」
よもや十左衛門がそんなことを言うとは思わず、汐も煙々羅の言葉に同意して頷く。
「気になりますけど、わざわざ見に行くって程でもないと言いますか」
「害ある物ノ怪を榛家のものとして放っておけん。それだけだ」
「でもでも、まだ悪い物ノ怪って決まったわけじゃ無いですよね?」
「師匠が気をつけろと言ったのだろう。ならば答えは決まっている」
決心の硬い十左衛門の瞳に、汐はそれ以上何も言えなかった。
煙々羅はまだ「阿呆眉毛」「くそ真面目きのこ野郎」などと毒づいていたが、十左衛門が懐から取り出した呪符を見てすぐさま黙り込んだ。
石造りの簡易な橋の下は、これまた軽微な川が流れていた。
結局、ひとりですたすたと進む十左衛門を追いかける形で、汐と煙々羅は着いてきた。
橋の上から小魚すら居そうにもない浅い川を、汐と十左衛門は覗き込む。煙々羅も汐の肩越しに下を見た。
「⋯⋯なんにもいないですね」
「音はどうだ、聞こえるか」
汐は目を瞑り周囲に意識を向けるが、特に気になることもなく、首を左右に振った。
十左衛門も、汐も、物ノ怪の気配は確かに感じるが、姿が見えない為にどうしようも無い。
今日は引き上げるか、と引き返そうとしたその時、しょき、しょき、しょき、と、確かに音が、汐達の後ろで鳴った。
すぐさま振り向いてその姿を確認する。
視界に飛び込んだのは、ボサボサの髪と両手に抱えた大きめの桶。薄汚いよれた着物から覗く酷くやせ細った両足が、一歩、また一歩と、いやにゆっくりとした足取りで汐に近づいた。
そいつが良からぬ物ノ怪だと理解した十左衛門は、汐を背中で庇うようにして立ち、睨みつける。
「貴様、小豆洗いか」
問に答える代わりに桶に入った小豆をぐるりと掻き回せば、しょき、と音が鳴った。肯定と捉え、続けて問いかける。
「何故、八月一日を狙う」
小豆洗いは乱れた髪の間からぎょろりと出っ張った目玉を動かすと、目じりを垂れ下げ「おまえを、きょう、喰うつもりだったのに」と汐の目を見て、小さく呟いた。
喰うつもりだった。汐はその言葉に肩をびくりと跳ねさせ、一歩後退する。
それに合わせて、小豆洗いが細い足を一本踏み出した。
警戒した十左衛門が「下がっておけ」と汐へと声かける。
汐は頷き、少し離れた所へ走って逃げる。
小豆洗いはそれを視線で追い、ぶつぶつとぼやきながら、ゆっくりと十左衛門を睨みつけた。
「喰う! つもりだったのに!」
叫びながら桶の小豆を鷲掴み、十左衛門に向かって投げつけられる。
すかさず避けて足元を見れば、小豆は地面にめり込んでいた。
なるほど、ただの小豆では無いらしい。
当たれば痛いだけですまないと踏み、遠くに下がった汐を確認する。
煙々羅は汐の身体に巻き付いて、なんとか小豆が汐に当たらないようにと抵抗していた。
煙々羅に汐を任せ、小豆洗いに向かって走った。
「嬢ちゃん、木の影にでも隠れてな、あの小豆に当たったら身体貫通する勢いやでっ」
「う、うん」
煙々羅に従い、汐は走って傍の木の影から十左衛門達を覗き見た。
小豆洗いは、まるで発砲しているかの如く小豆を投げる。その度に避けてはいるが、少しずつ、少しずつ、その命中率があがっていた。
「邪魔をっ⋯⋯するな!」
小豆洗いは小豆を掴むと、思い切り十左衛門に向かって投げる。これまでよりも数の多い小豆は、広範囲に広がって飛んできた。
全部避けきることが出来ず、ついには十左衛門の右腕に小豆がひと粒命中する。
「坊ちゃん!!」
ぼたぼたと血が流れる様に、汐は悲鳴をあげた。そんな、どうしよう。榛さんが。
「っ大丈夫だ」
安心させる為に放ったであろうその言葉だが、汐の耳には届かなかったらしい。俯いてしゃがみこみ、少しずつ呼吸が荒くなる汐を心配して、煙々羅が顔を覗き込む。
「喰うっ、あいつ、喰うっ!」
桶を足元に置き、唸って小豆を両手で鷲掴んだかと思えば、汐に気を取られる十左衛門ではなく、蹲る汐に向かって小豆を投げ撃った。
気づいた煙々羅がさらに汐にまとわりつくが、それよりも早く、咄嗟に十左衛門が手を伸ばして汐の前に立ち、庇う。
小豆が、十左衛門の左腕に、何粒も突き刺さる様を、汐は目を見開いて見つめることしか出来なかった。
汐の前に立ち、だらりと垂れ下がった両手と、痛みに耐えながらも汗が滲む顔。
────私を庇って、榛さんが、怪我をした。私のせいで、怪我を、させてしまった。私、私の、私のせいで。
「あ、あぁ、あああ」
ふ、と、汐の脳裏によぎる、向けられる醜悪に染った無数の視線と、責め立て突き刺さる言葉の数々。
─────お前のせいで
「イヤァアア!」
何かの糸が切れたように、大きく悲鳴をあげ叫ぶ汐に、煙々羅が「おい、どうしてんっ、おい!」と呼びかけるが、最早、汐にはその声すらも聞こえなかった。
十左衛門は、両手の痛みと汐のただならぬ様子に気を取られている。今だとばかりに小豆洗いが汐に向かって突進し、手を伸ばしたその瞬間。
ばちっと、静電気のような痺れが小豆洗いの手に走り抜き、弾かれる。
「ァあ?」
汐のからだが、淡く発光している。有り得ないその状況に、十左衛門も、煙々羅も、小豆洗いも、動くことが出来ずに立ち尽くした。
「嬢ちゃん⋯⋯?」
振り絞ってでた声は、汐に届く前に、小豆洗いの叫び声でかき消される。
あきらめ悪く再び汐に向かって追進してきた小豆洗いだがしかし、急速にその身体を縮ませ、汐に触れる前に、小豆程の大きさまでに成り果ててしまった。
何が起こったのか理解が追いつかないが、冷静に状況を判断し、十左衛門は辛うじて動く右腕で呪符を小豆洗いに被せて詠唱する。
さあと霧散する小豆洗いを見届け、うずくまる汐の元へ近付いた。
その身体は、すでにもう発光をやめていた。
「おい坊ちゃんっ、こりゃ一体どないしたんや!」
「⋯⋯分からん。だが」
小豆洗いが徐々に小さくなるあの光景は、まるで汐が引き起こしたようで。
そっと屈み、汐の肩に触れる。小豆洗いのように静電気が来ることもなく、巻き付いている煙々羅にも特に影響は無いようだ。
「八月一日」
声をかけるが、反応は返ってこない。
「嬢ちゃん? ⋯⋯ああ、あかん、気絶してもうとるでこれ」
煙々羅が汐にまきつけた煙を解く。十左衛門が片手で汐を抱え持ち上げると、榛の屋敷へと向かって歩いた。
屋敷に着くなり、門前で晴明が待ち構えていた。十左衛門の腕の中で眠る汐を見やると、悲しそうな顔を見せる。
「師匠っ、実は」
「それよりも先ずは、あなたの傷の手当です」
聞きたいことは山ほどある。だが、晴明に遮られ、十左衛門は大人しく従うことにした。汐を傍にいた従者に預け、そのまま晴明の後に着いていく。
榛家の専属医である老夫から手当を受けている間に続く沈黙。小豆が何粒も腕にめり込んでいたが、貫通までは行かなかったようだ。一粒ずつ丁寧に取り除き、包帯が巻かれていく。
仕事を終え、老夫は今日はなるべく動かさないようにと指示をしてから部屋を出て行った。
晴明は、既に血が滲み始めた部位にそっと手を翳して「何がありましたか」と問いかける。
十左衛門は、先程の出来事を、なるべく詳細に話した。小豆洗いのこと、汐の突然の異変、身体の発光。それから、身体が縮んだ小豆洗いのその場面。
晴明は話終えるまで静かに黙り込んでいた。
「あれは、一体何だったのか⋯⋯師匠は、何か知っていますか」
鋭い眼光でじっと晴明を見つめ応えを待つ。しかし晴明は何も答えず立ち上がると「汐さんの様子、見に行きましょう」と十左衛門を促した。
「え、しかし⋯⋯」
「もう目覚めている頃でしょうから」
確信した様子でそう告げ、汐が寝かされた部屋へと進む。わざと質問を躱されたことに苛立ったが、汐の事も心配であるので、十左衛門は黙って着いて行った。
部屋に入れば、確かに汐は目を覚まし、身体を起こしていた。
開いた襖から晴明と十左衛門が現れたのを見つけると、ばっと立ち上がり近寄った。
「榛さん! 手、大丈夫ですか!? ごめんなさい、私のせいで、本当に、ごめんなさい⋯⋯」
悲しげな顔で包帯の巻かれた十左衛門の腕を見て謝る汐。十左衛門は腕を振り上げて動かし「大丈夫だ」と告げた。
仏頂面を引っ提げてはいるが、その声には優しさが含んでいる。
汐は少しだけ顔を晴らすが、申し訳なさそうな声でもう一度謝った。
その二人の様子をじっと見つめ、それから晴明は汐に声をかけた。
「汐さん」
「あ、はいっ」
「少し、お話しませんか?」
柔らかく微笑み、晴明は自身の頬に手を添えた。
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