釣瓶落とし (2)
ここ三日ほど、十左衛門の姿が見えない。
不思議に思った汐は、梅谷にどうしたのか問うたが、返事は「風邪だよ」の一点張りだった。
何処か漠然とした、言い表せない嫌な予感がずっと胸の奥で燻る汐だが、本当に風邪ならば心配だ。
そうして、放課後にフルーツの詰め合わせを買い、お見舞いのために榛家に向かっていた。
風邪なら風邪で、三日も休むとは酷く拗らせているのだろう。お見舞いもはばかられたが、せめてフルーツだけでも渡そうと赴く。
榛家の大きな門に辿り着くその前に、何やら騒々しく騒ぐ人集り。
榛家は、榛京終町の住宅地からすこし外れた閑静な場所にある。普段から重々しい雰囲気だが、今日はさらにただならぬ空気を出していた。
人集りにそっと近付けば「何故一人なんだ」だの「状況は」だの慌ただしい声が飛び交っていた。
なんとなく木の影に隠れてしまった汐だが、次に耳に飛び込んできた言葉に、どさりとフルーツの袋を落とす。
──十左衛門様が、まだ釣瓶落としと⋯⋯。
汐は勢いで飛び出し、とにかく足を走らせて破ヶ原町に向かった。
どうしよう、破ヶ原町って、この前噂で聞いた。
汐はぐるぐると思考を回すが、とにかく何故か行かなければ行かない気がして、走った。
「⋯⋯おや」
木の影に無造作に置かれたフルーツの入った袋を晴明がひろいあげる。
それから、汐が走り去った方角を見据え、ふうとひとつ息をついた。
榛京終町から破ヶ原町まではそう遠くない。
が、走っていくには些か距離がある。
汐は次第に荒々しく息を吐き、歩をゆるめた。
「おいおい嬢ちゃん、本気で破ヶ原町まで行く気かいな? 嬢ちゃんが行っても何にもならんでィ」
煙々羅はたまらず汐に声をかけた。確かに、自分は何故必死に、自ら危険に向かって走っているのか。
煙々羅の言う通り、行ってなんの役にたつのか。それでも、
「行かなきゃだめな気がして」
汐の意思はかたい。煙々羅は制止を諦め、大人しく汐の服の中におさまった。
さすがに走ると身体がもたないと判断し、汐は早足で向かう。この雑木林を抜けたらその先が破ヶ原町になる、もうすぐそこだ。
ふいに、ぺたぺた、と汐の耳に足音がきこえた。もはや聞きなれたベトベトさんの足音で、汐は直ぐに意識をはずす。
ベトベトさんも着いてきたんだな、という軽い認識であったが、いつもと違ったのは足音が急に駆け出し、汐に勢いよく近づいてきたことだ。
ぺたぺたぺたぺたっと足音がすぐ後ろに迫り、瞬間、汐は襟首を捕まれぐいと後ろに引っ張られた。
――どしん、
尻もちをつき倒れた汐の目の前に飛び込んできたのは、それはそれは大きな顔。
ぎょろりと睨んでくる顔に、思わず短い悲鳴をあげる。
もし、後ろに倒れていなければそれに直撃していたであろうことは安易に想像がつき、汐は顔を青ざめさせた。
「ベトベトが嬢ちゃん引っ張って助けてくれたんやな」
「う、うん、そうみたい⋯⋯ありがとう」
「っと、嬢ちゃん呑気なこと言うとる暇ないでィ! 多分あれが鶴瓶落としやろ!」
鶴瓶落としは、ギイギイと声ともつかぬ鳴き声をあげ一度跳ね上がると、いまだ座り込む汐へ上から飛びかからんと、その大きな口をひろげた。
「
ほんの一瞬。
汐が瞬きをしたほんの僅かな隙に、汐と釣瓶落としの間に誰かが割って入り姿をあらわした。
一向に襲ってこない衝撃を不思議に思い上を見上げる。釣瓶落としは、空中で固まったように止まっていた。
汐の視界には、知らない誰かの後ろ姿。
腰まで伸びた、その一本一本が光った絹のように美しい長い髪が、釣瓶落としの
「おいたはいけませんよ」
その人物は、少し高めの、しかし男性と明瞭に分かる声でそう言うと、流れるように左手を上に突き上げ、勢いよく下に降ろした。
その動作と同じように、釣瓶落としはひとりでに地面に叩きつけられる。
まるでこの男に操られたかのようなその一連の流れに、煙々羅も、汐も、声を出せずにただ呆然と見つめていた。
釣瓶落としは顔半分がめり込んだ状態で動く気配がない。
男は歩いて釣瓶落としに近寄ると、その額に何処から取り出したか呪符を「えい」と可愛らしく口に出して貼り付けた。
この緊迫した雰囲気になんとも似つかわしく無い動作に、ぽかんと口が開く。
女性と見間違うほど華奢な後ろ姿と着物から覗く腕。呪符を貼り付けられたその瞬間から音もなく塵となって消えゆく釣瓶落としを最後まで見届けると、男は汐を振り返った。
まさに「美人」とはこの人のためにあるのではないだろうか。
整った顔と、柔らかに細められた目元は真っ直ぐに汐に向けられていた。
男は汐に近付き「お嬢さん、ここは危険がいっぱいですよ」と右手を差し出して微笑んだ。
男は人を迎えに来たという。汐も似たような理由だと言えば、ここは危ないので護衛をしますと、成り行きで共に歩くことになった。
素直に甘えてお願いをすれば、男は花が開くように微笑んだ。
華奢な、とは思ったが、隣に並べばさらに儚げな空気を纏っており、女ではないかと見まごう美しさだ。
ついつい見とれてしまう汐の服の中で、煙々羅は息を潜めていた。
この男、
いや「えい」などと可愛こぶってはいたが、あれは詠唱のうちには入らない。
汐は陰陽師のことを詳しく知らないために気がついていないが、煙々羅は少しばかり長く生きてきた分知識もある。
呪符に書かれた呪文を、気を送りながら術者が詠唱することで、その力を発揮することができる。
あの十左衛門ですら、肉吸いの時に「
だがこの男は……。今まで何人かの術者をこの目にしてきた事があるが、こんなことは初めてだった。
かなりの手練と見込み、煙々羅は下手に動かぬよう汐の服に隠れているのである。
先程までがっつり姿を現していたので存在自体はバレてはいるだろうが、今のところ何も言われる気配がない。
このまま何もしなければ祓われる事もないし、きっと、この男と共に居れば煙々羅が出張らずとも、物ノ怪を追い払いながら十左衛門の元へたどり着けるだろう。そう踏んで、とにかくじっと息を殺した。
飛び跳ね、転がり、食いつかんばかりに大きな口をあけて飛びかかってくる釣瓶落としに、十左衛門は苦戦を強いられていた。
なかなかどうしてすばしっこく、十左衛門の呪符から逃げる釣瓶落としは、それだけで十左衛門の体力を奪っていく。
従者は確かに、榛家の使役としてよく頑張ってくれた。だが十左衛門と違い、かなり釣瓶落としの攻撃を受けて負傷をしていた。
このままでは食われると思い、引き付けて先に逃がしてやった。
もう三日と飲まず食わずでこう対峙していれば、十左衛門は流石に疲労の色が見えてくる。
しかしそれは釣瓶落としとて同じことで。段々とそのスピードと突進してくる威力は落ち、徐々に縛がかかるようになってきた。
とは言っても十左衛門の力も限界に近いので直ぐに縛を破られ逃げられてしまうが。
もはや、どちらが先に力尽きるかの我慢勝負となっていた。
釣瓶落としが大口をあけて十左衛門に飛び掛る。地を蹴り、そのまま片手で太い木の枝にぶら下がってから身体を一回転させ避ける。
避けられた釣瓶落としは標的を失い地面へと落ちたが、すぐにぐるんと大きな目で木の上に立つ十左衛門をとらえると、再び襲いかかった。
十左衛門は向かい来る釣瓶落としを視界の中心にとらえ、片手を構える。
「縛」
空中で固まり、動かなくなる釣瓶落とし。ぎい、と弱々しく鳴いて抵抗を見せるが、抗う力はもう残ってはいないらしい。
右手で呪符を投げつけると、今度は避けられることなく額に張り付く。
「
唱え終えた途端、釣瓶落としは塵となって空に消えていった。
ふ、と十左衛門の身体から力が抜け、立っていた木の枝から落下する。
しかしその身体は地面へと直撃することなく、暖かな両腕が十左衛門を抱えた。
ゆっくりと十左衛門が薄ら目を開く。視界に入ってきたのは、穏やかに微笑む安倍晴明だ。
「師匠……?」
晴明は十左衛門の身体を地面に降ろすと、肩を支えて立たせた。
「榛さん!」
聞こえてくる声にそちらを向けば、晴明の後ろから心配そうな顔で覗き込む汐がいた。
「八月一日!? 何故師匠と」
「さっき、偶然、会ったんですよ」
目を細め含み笑う晴明と「え? 師匠って?」と不思議そうに首を傾げ、十左衛門と晴明を交互に見やる汐。
「とにかく、屋敷に戻りましょうか。さ、汐さんも」
「え、私名前⋯⋯」
まだ教えてない。汐はそう言いかけたが、晴明が十左衛門を支えながらさっさと歩き出したので、慌てて後ろから着いて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます