医師

「酸素不足だな」


 白髪の男がそう言った。アンジールがこの町に来て初めて見るほどの長身である。下界においても平均を頭半分は超えているだろうか。面長の深いしわが刻まれた顔。視力に不安がある者などまずいない今となっては、工芸品以上のものではない、角ばった黒縁の眼鏡をかけている。

 脂の無い痩せぎすの体躯に白衣をつっかけて、清潔感よりどこか燃え尽きた灰の気配を漂わせる。単なる医療技術者というより、ドクトルと呼ばれ、悪魔とも交信する神秘的知識層の趣であった。そのくせ台形の顎を支える首はがっしりと太く、鉄筋のごとき骨を透視できる。古代の、戦う市民も兼ねる哲学者のような老人。


 ジャクルは、自身の心臓が縮み上がる引きつりを覚えた。酸素不足。この場合空気圧の低下を意味する。夜の間は体力回復のため上げておく圧が、どこかに逃げてしまったことになる。


「そんな馬鹿な!?ちゃんと眠る前に確認したよ!450h㎩はあったはずだ」


 客人の安眠のための大盤振る舞いである。普段は寝る時でも400前後。タラクサカムの平均気圧は370h㎩程度である。酸素の節約と、ドームで囲った街全体の重量低減のために、そう高くまで上げられない。


「かなり低空域に居たようだからな。環境の変動は負荷をかける。それに生活のリズムだ。30分労働、15分休憩を守ったか?」


 痛い所を突かれて、ジャクルの切れあがった眉が歪む。飛翔士故の低酸素に対する高度な耐性から、たびたび定められた休憩をとらないことがあった。今まで気にも留めたことさえない。

白髪の大男、ゴーダは細く長く息を吐き、紐で綴じられたノートにケイ素製のペンを走らせる。漂白されていない粗い紙の表紙を倒すと、棚から透明な植木鉢を取り出す。


水に浮かんでいたのは、茎が短く葉の長い、多肉植物のようであった。色素は薄く、葉の裏側が蒼く映るほど。幅広の白い根が、気まぐれに揺れていた。


「これって」


「空気草だ。休息時間に吸っておけ。対処療法に過ぎんが、無いよりマシだ。容態がそのまま悪化するようならばまた来るように。ジャクル、お前は良い機会だ。小まめに運動時間を管理しろ」


それだけ言って、奥の扉に歩き去っていった。もう処方する物も言も無いようである。

ジャクルは先ほどの説教が余程効いてか、消然と項垂れていた。


「ごめん。君のことを考えていなかった」


若草もしおれそうな呟きに、むしろ罪悪感が湧いてしまう。どうも人の感情に慣れていないために、必要以上に反応してしまう。


「そんな、ずいぶん良くしてもらっているわ。とっても楽しかったもの。これから気をつければ、すぐに治るから大丈夫」


 血の気の引いた皮膚に、赤みを増そうと息をつめ力をこめる。滑稽にも見える努力が、弱った状態をより鮮明にしていた。

 しかし半病人にそうまでさせて、自分が落ち込んだままではいけない。ジャクルは一気に立ち上がると、細い指を挟んで引っぱる。


「それもそうだね!じゃあ酸素の多い所に連れていくよ。のんびり行こう」


 いつもより心なしかゆっくりと、その分跳ねるようにアンジールを先導する。二人の姿が二重ドアの中に隠れると、診療室に静寂が戻ってきた。



 



 書庫には本という本が散乱していた。もはや読める者も絶滅寸前の、人が地上にいたころの言語で書かれた専門書。ものによっては論文をコピーしたものをまとめただけのものもある。純粋に研究目的だけで揃えた、医師にとって医院そのものより遥かに重要なものであった。

 それらを揚げ菓子の包装のように放って置いたままにして、これも貴重品となった携帯端末の画面と、関係ある資料を血眼で見比べている。

 一心不乱に過去の資料をあさっていたために、声がかかるまで後ろの気配に気付かなかった。


「剛田」


 とっさに護身用のセラミック製単分子短刀で、声のしたあたり、喉元を撫で切ろうとする。直前で自分の名前が正しい発音で呼ばれたことを、そして呼び声の主が何者かを認識する。


「タリアか。入る時は声をかけろ」


「かけたに決まってるだろう。この有様じゃあ聞こえなくとも仕方ないだろうがね」


 そう言われて書庫の無残な状態をようやく見て取る。しかし片付けようという気力も勿体ないのか、後ろでまとめた髪をまとめた乱暴に撫でつけると、また情報の沼に潜ろうと机に座る。

 仮にも街の代表を一顧だにしない無礼だが、タリアもまた意に介さず、背中を向けたままのゴーダに話しかける。


「あのお嬢ちゃんが来ただろう。どうだった?」


「本物だ。間違いない。骨格軽量化、骨髄置換、代謝最適化。いずれの措置も受けていない。遺伝情報もオリジナルのゲノムとほぼ一致している」


「こっちじゃまず生きられない身体って訳かい」


「ああ。補助臓器と素体の優秀さでもってはいるが、本来ならまともに動くこともできないはずだ」


 タリアが黒瞳を細める。その底知れない洞から放射される鬼気に、端末をいじるゴーダの手が止まった。


「とっくのとうに滅びたと思っていたんだがね。少なくとも中央の言い分は、もう地上では生きられないと。そう言ったはずだろう」


「生きられなかったんだろう。余分な人間がくっついていたら、な」


「一杯食わされた訳かい!100年間抜けを晒してお空でのんびりしていたってわけだ!!」


 タリアの髪が波打ち、さっと赤い輝きが走る。眼球は血走り、噛みしめられた歯の隙間から血色の泡が吹く。そのいたいけな風貌からは想像もつかない、般若のごとき変貌。

 鬼でも神でも、寄らんものをことごとく食い殺しそうな狂態に脂汗をにじませながら、ゴーダは鬼女をいさめた。


「タリア、お前の言いたいことは分かる。だが長い時間が経った。もう地上のことを覚えているのは、この街では俺とお前だけだ。この100年が無駄だったと、そのようなことをお前が言ってどうする。お前は」


「この街の長ってか。剛田。お前がそんな泣き言言うようになるはね。昔のあんたなら、真っ先に中央のクソ共の中身を純炭素と入れ替えていただろうに。歳をくったね」


 嘲弄するタリアの瞳を覗き込む。昏い穴蔵のような目を。ゴーダは力なく目を伏せた。


「そうだ。俺は老いた。見る影もなく衰えたよ。だが、老いるのは悪いことばかりではない。お前を見ると、そうも思う。」

「タリア、お前は変わらない。昔のままだ。昔のままくすぶり続けている。それは幸福と言えるのか?」


 秋の日が知らず落ちるように、タリアの童顔に無が降りる。深い吸気のざわめきだけが、激情の名残を伝伝えていた。


「幸せ?誰がそんなことを望んだ。誰がそんなことを望まれた。私は誰だ?この世で一等に速い、それだけの命じゃないかい?」


「ジャクルはそろそろ追い付くだろう。奴の親父は、恐らくお前より速かった」


 タリアが鼻で笑う。


「ふん。あいつは飛翔士じゃなかったさ。速さに囚われて、重力まで引きちぎるるようじゃね。元から空にはいられない男だったんだろう」


 言い捨てると、興味を失ったかのように身をひるがえして歩き去る。書斎を出たところで思いついたか、首だけを戻して問うた。


「そういやあ素体が良いもんだと言ったね。ひょっとして実験体かい?」


「可能性はある。だがどういう操作を施されているかは分からん。脊椎周りに補助神経が多数通っているようだったが、それ以外の臓器系には最低限の処置の跡しか無かった」


「ふん。厄介事かもしれないね。空聴官に警戒を呼び掛けとくとするか」


「置いておくのか?お前の言う通り厄介事かもしれん」


 タリアは、威嚇するような、歯をむき出しにした笑みを浮かべた。


「それこそ望む所さ。そうだろう?」


 書斎の戸が閉まる。軽い材質ゆえしばらく残った振動が収まると、ゴーダはしばし目を閉じて鼻筋を揉んだ。それも終わると机に向き直る。端末のたてる小さな唸りと、紙をめくる音がやむことは無かった。

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絶空のカーバンクル @aiba_todome

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