太陽に温められた水が、ホースからこぼれ落ちる。湯気をあげて、湧き出る泡で自ら流れの糸をほぐし、陶器の湯のみに溜まっていく。底に緑の粉が一塊、山を作っている。湯に溶けると透明になり、たちまち涼し気な空気を発し始めた。


 青臭さの中をすうっと抜けるハーブの香ばしさ。初めて嗅ぐ匂いであったが、不快ではなかった。

 なぜそんな芳香が漂ってくるのか。研究所の中は、かすかな消毒剤と精神を安定させる人口香料に満ちているはずなのに。記憶に引っかかるものが在る。爪をたてて海馬の奥から釣り上げようとすると、するりと滑り抜けてしまった。


 確かに覚えていたことが完全に逃げてしまうもどかしさが、意識をベッドの上まで浮かばせた。

 薄い絹に似た布をまくる。羽衣のような薄さで十分な保温機能を持つのは、発達した航空技術の産物であろうか。まぶたが重い。小さくあくびをして酸素を取り込むが、いっこうに持ち上がらない。

 頭に血流を回そうと、うなりながら布団の上を転がる。誰かが入ってきたと気付くのが遅れた。


「お、起きたかい?」


 脳が疲労を教える信号を緊急に停止し、爆発的に広がった視界に赤い影が入る。記憶にある、ような気がするが、情操教育用のAIにこんな顔があっただろうか?


「驚いたよ。家についたらいきなり眠っちゃうんだもの。まあしょうがないか。ずいぶんな一日だったしね。お茶飲む?食べるものもあるけど」


 寝ぼけた神経に響かないように抑えられてはいるが、骨髄から泡立ってくる活発さの隠せない声音。流木に隠れた山椒魚のように閉じこもっていた、昨日の情景が這い出てくる。


 大樹の上の家に連れて来られたこと。タリアさんと街の人たちに受け入れられた事。無人航空機の襲撃と少年との出会い。襲撃。炎。


世界の果てであった銀色の壁があっけなく打ち抜かれ、自身の生を規定していた顔も知らない人たちが消えていくのが分かる。

初めて見た肉体を持った人に連れられて、旧式の軌道投射装置に詰め込まれ。生命維持装置の麻酔効果で意識が途切れた。


「うーん、まだ調子が悪いかな?」


「わっ!?」


 鼻先間一髪の距離で目が合う。背を反らそうとして腹筋に力が入らず、布団に倒れこむ。


「うん、寝ていたほうがいいよ。お茶はこっちに置いておくから、好きに飲んで。冷めてもおいしいから」


 そういって出ていこうとするジャクルを、押しとどめる言葉を発したのは何故なのか。


「まって」


 脚を振り上げたところでぴたりと静止し、かかとを支点に回れ右。


「どうかした?」


「もう起きるわ。寝たきりだともっと疲れるもの」


 稀有なことに、ジャクルの眉がひそめられた。金の瞳が十三夜の形。アンジールの顔色と天井を交互に見比べ、床に視線を移すとううむと喉を鳴らす。そして名案が浮かんだか、ぱっと顔が明るくなった。


「そうだね。僕のところにいてもしょうがない。先生に診てもらうついでに、街を案内するよ!」


「先生?」


「ゴーダ先生。お医者さんさ。だいたいの病気なら治してくれるよ。僕はフェニのお世話をしないといけないし、途中に医院があるから丁度いいや。お茶を飲んで、ご飯を食べたら行こう」


 椅子に座って待機する。アンジールとしては横に人を待たせたまま茶を喫する習慣はないのだが、残念ながら湯飲みは一つである。鼻を抜ける甘い香りの豊かさに目を細め、ゆっくりと口を付ける。


 甘い。鮮烈な香りにも関わらず、舌触りは優しく、無理なく喉を通る。息を吐き出すと、喉の中が蘭の咲き誇る温室になったようである。今までに感じた事のない味わいに、身の重さを忘れ陶然とする。


「おいしい……」


 長々しく語りはしない。尊いものを表現するには一言で良い。


「お気にめしてよかった。甘ハッカの若芽の一番いいやつだからね。分け前を貰った時押し売られたけど、買ってよかった」


「そんないいもの」


「飛翔士にはもったいないさ。どうせろくに飲めやしないんだもの。君が飲んだ方がいい」


 平然と言い放ち、ハーブの風味を楽しむアンジールと香りだけを共有する。実際不公平とも思っていないようだった。他に眺めるものもないからか、アンジールの朝食をにこにこ笑って見つめている。

 気恥ずかしいが、ジャクルには彼の予定があるのだから、急ぐのも当然ではある。もう一口お茶を含むと、食事の方に手をやった。


 椀には柔らかく煮たお粥。皿には干した魚らしきものと豆の煮物に、瓜が数切れある。消化に良さそうだとは認識できた。

 そのまま、ふつふつと煮え立つ料理を前に動かない。


「どうかした?アレルギーとかあるの?」


「いえ……。これ、どうやって食べるのかしら?」


 ジャクルが変な顔になる。


「スプーンとか使ったことないの?」


「チューブ食とドライフルーツが主だったの」


「ほえー。そんなところもあるのか。じゃあ教えるよ。そのスプーンの柄を取って、こう凹んでるとこですくうように……」


 無知を告げるのは恥ずかしくもあったが、置物のようであったジャクルが生き生きとしだしたことに、どこか安心感を覚える。

 昨日が初対面であったのだから当たり前だが、分からないことだらけの少年であった。


 子供らしい活発さを振りまいたかと思えば、人形のように無感情にも振る舞う。あるいは人間とは元よりこういうものなのだろうか。アンジールには判断がつかなかった。


 タラクサカムの街に来て初の食事は、実に満足いくものであった。最適な水分比率を求めるあまり、全て似たような食感しか感じなかったこれまでに比べ、その味わいの複雑怪奇さときたら。


 外に出ると街はすでに目覚めて、朝の支度を終えていた。

 刺激の無い生活で大人しくしていた好奇心が、我が世の春と首をもたげる。周りの何もかもが新鮮に見えたし、事実、生まれて初めて出会うものに溢れていた。


「ねえ、あのおじさまは何を吸っているの?」


「空気草だね。葉っぱで作った酸素を、巻いた根から吸っているんだ。夜は水に漬ける」


「じゃあ家の周りに付いている、大きい葉っぱみたいなものは?」


「あれは貯水タンク。水を温めるついでに宇宙線を防いでいるんだ。樹冠の間でも、光は厳しいときは厳しいからね」


「あそこで男の人と女の人が抱きしめ合っているけれど」


「仲良しの挨拶さ。朝から目立つところでやるものじゃないんだけど。酸素が足りないのかな?」


矢継ぎ早の質問に、腐ることも無く答える。昇降塔の近道は、体調の悪い状態で使うべきでないとして、徒歩で森を下っていた。アンジールにとっては未知の冒険であるが、ジャクルにしてみれば普段通らない近所の道以上のものではない。

 それでも少女の無垢な疑問に付き合えるのは、街への愛情のなせる業といっていいかもしれない。


 それにしても長い道のりであった。構造体そのものに空間上の制約はある。しかし三次元に配置された建築と、それを無理なくつなぐために曲がりくねった道。菌糸の如く広がった通路網は直線距離を数十倍に引き伸ばしていた。

 そんな迷宮を苦も無く下り、目的地まで一筆書きで歩んでいく。アンジールの質問が尽きたあたりで、円筒形のひときわ大きな建物に突き当たった。


 その門前、二重扉の前にいた栗色の髪の短いおさげ。空にいる者はおしなべて身長が低い。その真っ青なツナギの女子も例にもれず小柄であった。そこを補正すれば年齢は十代前半も終わりの頃であろう。

 くるりと青い目を二人に向け、ぱちりとした目つきが途端に猛禽のそれに変ずる。


「あー!ジャクル!昨日はよくもとぼけくさって!このおおお!」


 小柄な分だけ身が軽いのか、8段ある階段を踏み切りだけで飛び降りて、着地もそこそこに走り寄る。ジャクルのコートを鷲掴みにすると、バターにしそうな回転速で振り回した。


「プミラ、偏る片寄る。内臓が背中に寄っちゃうよ」


「うるさい!お前がそんな奴だとは思わなかったぞ!ろくに収穫は無かったって言ったくせに!鉄製品なんて十年に一度の大収穫じゃないか!私によこせ!もしくは商品を買え!」


「ごおかいだようおうおえ」


 風に弄ばれる案山子のように首が上下する。危険を感じたアンジールが間に割って入った。


「あの、どなたか知りませんが、誤解なんです。そんなに価値があるとは知らなくて、タリアのおばあ様から聞いて分かったことですから。伝えられないのも無理もありません」


「ん、そうなの?そういうあなたは何者。いやいや聞くまでも無いか。今街で噂の謎の美少女と見た!どう合ってる?」


「大正解だよ。名前はアンジール。仲良くしてくれ。ところでそろそろ離してくれないと首の座りが危ういんだけど」


「うちの電解液買う?」


「買うよ。一番いいやつ。どうせ他に使うあてもないし」


「良し!偉いぞお大尽」


手を離すと体ごとアンジールに向きなおる。圧迫感すらある瞳の輝きに押され、たじろぐ銀の少女。

プミラの薄い胸は資本の夢に満ち満ちていた。


「ねえそこのあなた。飛翔体に興味ないかな?」


「えっと、あの真っ赤な、羽根の付いた杭のような機械のこと?」


「そうそれ!まあ色はそれこそ色々あるんだけど、空のどこにでも行けるスウパアメシインだ!買わない!?買おう!!」


 匂うようなバイタリティに一歩引いてしまうが、どこにでも行ける、という宣伝文句には興味がわいた。ドーム越しに眺めても胸を打たれた無辺の大空。どこまでも飛んでゆけるならどれほどに心躍るだろうか。

 

「いや値段も維持費も高いから止めといた方がいいよ。乗るには専門の訓練もいるし」


「余計なこと言うんじゃない!」


「あべしっ」


 横に振り抜かれた貫手がみぞおちに突き刺さる。絶妙な脱力による鞭のごとき一閃であった。


「あんなやつの言う事なんて聞かなくていいよ。なにもかも完璧にやろうとしたらそりゃ大変だけどさ。のんびりやればいいんだよ。のんびり。どうしてここに来たか知らないけど、やりたいことは見つかるはずだからね」


「やりたいこと」


 空虚にその言葉を繰り返す。目的があって生きていたことはなかった。いや、生きてさえいなかった。常に生かされてきたのだ。理由さえ与えられぬまま。

 やりたいこと。その意味は油紙のような脳に弾かれ、心に染み入ることはない。気の抜けた顔に何を見て取ったか、プミラは少し気まずそうな顔を作り、道を下り出す。

 

「あれ、もう行くのかい?」


「先生に栄養錠剤貰いにきただけだからね。親方また腰が痛みだして」


「そりゃ大変だ。整備の方は?」


「そっちはばっちり。用事が済んだら受け取りにきな」


「うん。親方にお大事にって伝えておいて」


「あいよ。そんじゃアンジールちゃんも、また飛翔体に興味があれば寄っといで!」


 そういうと四足獣のような軽やかさで走り出す。栗色のおさげが上下しながら小さくなり、坂の稜線に消えた。


「やれやれ、整備士は荒っぽくていけない。頚骨ずれてやしないかな」


アンジールは、愚痴りながら首をもむジャクルをなんとはなしに見つめる。


「ジャクルは、やりたいことってあるの?」


「えっ?」


少年は金の両眼を満月に開き、彼女の意を理解するとすぐ答えた。


「うーん。考えたことも無いなあ。僕は飛ぶのが仕事だからね。やりたいことなら飛ぶことかな?」


それもまた、どこかに食い違いがあるのでは。と、そう思うが、その思考を口で紡ぐことができなかった。

彼女もまた、自らを省みる経験を持たず、要するに子供であったのだ。


ジャクルが二重扉の手前側を開ける。その後ろで、銀の少女は壁の無い迷路を迷い続けていた。


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