見慣れた表札

宮下愚弟

或いは救いの物語

 寝ぼけた体を起こすと、床へ無造作に投げられた千円札が目に入った。

 枕元のスマホを見ると午前十時すぎ。頼りないお札をスウェットの尻ポケットにねじ込みながら酒か煙草かと考えたところでキュウと腹がなり、昨日の朝からなにも食べていなかったことを思い出した。冷蔵庫は空っぽ。いつものことだ。


 恋人からもらった金でなにを食うかと考えたところで、食欲よりも一丁前の罪悪感と自尊心が仕事をする。そのために食べることをためらい、しかしそのちっぽけな感情すらも折れて腹を満たすのが常だったが、昨日はどうにもそんな気分にもならなかった。

 酒と煙草は心が痛まないくせに、食うことはためらわれるなど我ながらどうにかしている。

 そうは言えど、どうせ今日もなにかを食わずにはいられないのだろうと思い、スウェットのまま部屋を出ることにした。


 賀上映太かがみえいた、無職の二十九歳。将来の夢はラノベ作家。

 表札には恋人の苗字が掲げられている。


 お札というものは考えてみればおかしなもので、過去の偉人をその身に印刷された貨幣なのである。もし自分が印刷された紙幣が流通しているのを見かけてしまったら、おぞましくて使う気も起きないだろう。自分の肖像画入りの紙きれで、人が泣いたり笑ったりするのだからたまったものではない。

 しかし千円札の表を飾るのが野口英世というのはなんとも皮肉な話だ。借金まみれでパトロンを泣かせ、渡米前にその資金を溶かしきってしまった人間が、貨幣に描かれることを皮肉と言わずしてなんと呼ぼうか。

 それでも支えてくれる人物がいるだけ、自分よりは才能やら人脈に恵まれている。


 そんなことを定食屋の娘に話したところ、「キモい」とだけ返ってきた。


「お前な、俺は客だぞ。小学生のころから口が悪いのは直らねえな」

「あたしは店員よ、客を選ぶ権利がある。あと口が悪いのは相手のレベルに合わせてるから」


 侮辱の言葉にカチンときたが、以前抗議をして追い出されたことを思い出したので口を閉ざした。

 厨房から娘の親父さんの「喧嘩するなよぉ」という覇気のない声が飛んできた。喧嘩はしていない。ひとり相撲を取っているだけだ。


「さっさと食って出てきな」


 娘は可否のつけがたいいつもの定食を卓へ乱雑に置くと、部屋の隅のテレビをぼうっと眺め始めた。小さくいただきますと呟いて白米を口に詰め込む。


「つーか才能ないってわかってんなら辞めりゃいいのに」


 頬杖を突いてそんなことを言われては言い返さずにはいられない。確かに日ごろこの店に来てはこの女とは創作論まがいのことをぶつけ合っているが、ただの暴言には怒らざるを得ない。が、咀嚼を終えて反論しようとする間にも言葉のつぶては飛んできた。


「ヒモやって生きてるくせに大して努力もしないでルサンチマンだけためてそれっぽいこと言ってるの、マジでキモいよ。死んだほうがましだと思う」

「努力はしてるわ。つーか就職しないで実家の店で働いてるお前に言われたくねえよ。潰れちまえこんな店」


 口早に言い切ると、それな、とだけ返ってきた。そうなれば本望なのだ。

 この女はイラストレーターとして仕事をしているらしく、そこそこ人気が出てきているらしい。「死んでもあんたに絵は見せない。絵が汚れる」とのことなので、真偽のほどは定かではないが、この女が嘘をつくとも思えないのでおそらく本当のことなのだろう。

 実家であるこの定食屋兼居酒屋が未だに潰れないせいで、今でも日中は絵が描けないらしい。だからさっさと潰れちまえと思っているらしいのだが。

 なんなら親父さんは店を継がせたいと思っているようなので、仁義なき戦いはこれからも続くことだろう。南無三。


「あんたよく彼女に捨てられないね」

「いい彼氏だからな」

「あたしと再会したときすぐ誘ってきたサルが?」


 ずいぶんと刺々しく刺されるが、俺としては頼れるツテを増やそうとしただけの話だ。とはいえ、藪をつついて大蛇を出すのは本意ではないので話題を変えることに。


「最近部屋にゼクシィが置かれてるんだが、あいつは誰と結婚するんだろうな」

「現実逃避はやめときな。あんたみたいなクズでももらってくれるいい娘なんでしょ」

「俺も金くらい稼いでる」

「ちっこいシロウト向けの文学賞でたまーに賞金狙うくらいでしょ」


 その通り過ぎてなにも言い返せず、もくもくと定食を減らすことにした。

 俺はラノベ作家志望だが、少しでも賞金がある文学賞なら地方のものでも全て狙いにいっている。稼ぐ方法を他に知らないからだ。

 ちなみにラノベはいつも最終選考手前ではじかれる。一度だけ最終選考に残ったこともあるが、その時の感動はもう欠片も残っていなかった。


「ま、あんたがどうなろうがどーでもいいけどね。店がけがれるからさっさと出てってくれる?」


 いつもならばハイハイと引き下がって帰るのだが、今日はそうもいかない理由があるのだった。俺は上あごに張り付いた味噌汁のワカメを舌ではがすと、居住まいをただした。


「なあ、お願いがあるんだが」

「絶対に嫌だ」


 先制攻撃にひるみそうになる。が、グッと耐えて続ける。


「金を貸してくれ」

「あんたヒトの話聞いてた?」

「頼む、今日はプロの作家たちと呑めるまたとない機会なんだ」

「知るか」

「今日だけは引くわけにいかないんでね。貸してくれるまで俺は動かねえよ」



 ──と威勢よく吠えたものの、あの女が警察を呼ぼうとしたので、仕方なく退散せざるをえなくなったあたりが現実とフィクションの違いだろう。着慣れないジャケットの袖をくいっとつかむ。借りた金で買った安物で、首元がチクチクした。思わずため息交じりにつぶやく。


「頼れるのは消費者金融だけ、と」


 その金も今日のこの呑み会で泡と消えるのだが。


「がはは、消費者金融? ダメじゃん、ヤガミくん」と作家A。賀上ですけど。

「いやいや、サガミくんは若いんだから売れればいくらでもいけるでしょ」と作家B。さっき不況とか言ってたのアンタだろ。あと賀上だよ。

「んんん、サガワくんはねェ、読んでないのよ、本を。読めばいいの書けるから!」と作家C。ハァ、そっすか。本読んでも人の名前は覚えられねーんすね。


 とまぁ、酔っぱらった作家サマたちは好き勝手に俺を評した。いちおう、持っていった短編は読んでもらったものの、原稿は部屋の隅で寂しく黙りこんでいる。

 クソか。

 俺の作品が選ばれねえの、どう考えてもアンタらみたいな老害のせいだろ。

 事前に調べていた通り、全員が全員、読者にこびただけのくだらねー作家だった。

 作家Aは流行に乗ったラノベばっか。なんか知らんがよく異世界に行く。

 作家Bは吐き気がするようなラブコメばっか。なんか知らんがよくハーレムになる。

 作家Cは中学生が書くような異能もののラノベばっか。なんか知らんが売れっ子らしい。

 こんなクソを煮詰めたようなラインナップだというのに、全員が一度はアニメ化経験があるというのだから地獄だ。仲介してくれたのはネットで知り合ったアマチュア作家。プロ作家サマと交流があるというから食いついてみたらこのザマだ。やっぱりネットは信用ならねえ。

 俺がラノベ作家を目指すのはかつて憧れた作品があったからだ。萌えだの俺TUEEEだとかいうまがい物の中にあってひときわ輝いていたファンタジー戦記物。

 あの作品だけは、嘘っぽくて薄いライトノベルの中にあって本物だった。麦畑の香りがしていたし、土埃が舞っていたし、龍の咆哮が聴こえた。

 そしてこんな作品が書きたい思うようになった。それから十余年。あと少しのところをずっと飛んでいるつもりだ。あと一歩。その一歩が何かを知りたくてこうして名のある作家とあったというのに。


「それで、どうですかね。俺の……ぼくの小説は」


 必死に愛想笑いを浮かべ、幾度目となる質問を繰り返す。すると作家Aはなんだ、そんな話? とばかりに陽気に訊き返した。


「ヤガミくん、プロになりたいってことでいいんだよね?」

「ええ、はい、もちろん」


 なにを今さら。そうじゃなければこんなところに来たりはしない。


「じゃあこれ、誰に読ませたいの?」と作家A


 なにを言い出すんだこの酔いどれは。ンなもん読者に決まってんじゃねーか。そう思って口を開こうにもあまりに当たり前すぎる問いを前に口が空回りした。


「読者、じゃあ広いよ。具体的に誰に読ませたいの」と作家B。

「全く分からないよ、これ。なにを与えてるの、読者に」と作家C。


 なにも言ってないのに、狙ったかのように刃物が飛んでくる。


「あ、いや、なんていうか、世界観とストーリーで読ませたいっていうか、そんな感じで書いてて……いちおう賞ではいいとこまで行ったりしてるんですけど、っていうか、やっぱり最近のラノベにはないものを書きたいと思ってて」


 腹の底では読者に媚びたクソ作家どもがなにを言ってやがると吠えつつ、容赦のない言葉に困惑していた。

 なにがわかんだよ。萌えだのご都合主義だのに傾倒したお前らになにがわかんだよ。

 そう思わずにいられなかったのに、一方で完全な否定が俺の心を抉った。

 うんうん、いいじゃんと言いながらも作家Aは続けた。


「でもこれ読んでも読者にはなにも響かないと思うよ。作者が書きたいこと書いてるだけ。オナニーと一緒よ、オナニーと。勝手にサカって勝手に達してるのを見せられてるわけ」


 それ、読んでて楽しい? と作家Aはにこやかに尋ねてきた。キュッと息が詰まる。酒など一滴も飲んでいないのに頭がゆだったみたいに熱くなる。


「キャラ、とか、親しめるようにしたんですけど」

「キャラね、キャラ。よくできた着ぐるみみたいだよね。まあガワはいいんだけど中身がないっていうかさ」と作家B。よりにもよってお前に言われるのか。薄っぺらいラブコメ書きのお前に。

「読者が求めるかはまた別の問題だよね、好きな設定を盛ったのかもしれないけどさ」と作家C。お前だってイタイ設定の異能バトルとか書いてんじゃねえか。

 そこまで。記憶があるのはそこまでだった。



 気がついたら俺はいつもの定食屋にいて、拳がヒリヒリと痛んでいた。財布は落としたのか失くしたのか忘れたのか。


「は? なにしてんのアンタ」


 返す言葉は出てこなかった。


「おおかた気に食わなくて相手のこと殴りでもしたんだろうけど、勝手にしめっぽいのここでやらないで。帰って彼女の胸で泣いてなよ」


 相も変わらずこの女の言葉は辛辣だった。


「あいつはダメだ、創作のことなんかわかってない」

「偉そうに。あんたにはわかんの?」

「少なくとも今日の連中がダメってことはわかるさ。稼いでる作家ってのはみんなああなのか? 胸糞悪い」

「あたしその場にいなかったし、知らないから。勝手に盛り上がんないで」

「いつもは聞いてんだろ! いいから聞けよ!」


 俺は机を叩いて勢いよく立ち上がった。椅子が倒れ、騒がしい店内で激しい音を立てる。だが多くの客は見向きもせず、酔いを回していた。興味もねえってのがまたムカつく。

 あのさ、と女は呆れた顔で言う。


「なに勘違いしてんのか知らないけど、だれがアンタの話なんか聞くんだよ」


 えっ、と声がもれそうになった。いや、もれていたのかもしれない。いつも口悪くも議論していたはずではなかったか。


「他人の話すら聴けないガキが。自分のハナシは聞いてほしいです、でも相手の言葉は聞きませんって、いっつもそうだったよね。どうせ今日もそうだったんでしょ。商業を目の敵にしてたもんね。あんたいつも客じゃなくて自分のことしか考えてないじゃん。そんなの同人でやれよって思ってたよ。けどあんたなんかどうでもいいからなんも言わなかったんだよ。友達なら言ってるわ。わかる? どうでもいいの」


「いつも、は、だって、話したりして、よ」


「ちゃんと聞いてると思ったの? ハイハイ仕方ないなあってまんざらでもない顔してると思ったの? あたしがツンデレだとでも? 気持ち悪い。あんた、自分が好きなようにしか世界を見れないの? あたしは本気で嫌がってて、あんたは本気で自意識の豚だと思ってるの、わかる? わかれよ! この時間が無駄なの!」


 気づけば力なく後退っていた。すうっと体が冷えて、指先がこわばる。


「財布ないんでしょ、さっさと帰って。んで、もう二度とこないで」


 あんた、野口英世にはなれないよ、と女は言った。

 俺はなにも言い返せないまま、おぼつかない足取りで店を出た。言い返す気力も、反論できるだけのなにかもなかった。

 野口英世にはなれないとあいつは言った。

 今日あの作家たちと話すまで、うまくいけば作家になれるかもしれないと思っていた。プロならば俺の本物の小説がわかるかもしれないと、そう思っていた。

 だが、それも叶わなかった。俺が悪いのか、世界が悪いのか、それすらもわからない。


 ただひとつわかるのは、また恋人が枕元に置いていった金を頼りに這う人生を過ごすということだけ。明日はなにを食えばいいのか。



 自分の苗字ではないあの表札をめざして歩きながら、ただそれだけを思った。

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見慣れた表札 宮下愚弟 @gutei_miyashita

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