第132話 鍵なる聖杯と命の水

 そこは、何とも奇妙な部屋だった。

 部屋の広さはざっと見て四十メートル四方くらい。俺たちが入ってきた入口の真正面には扉があり、それは固く閉ざされている。部屋の四隅には、口を開いた魚の彫像のようなものが部屋の中心を向くように一体ずつ設置されていた。石でできたしゃちほこって感じの代物で、何だかシュールな彫像だ。

 部屋の中央には、台座がある。彫像と同じ青味がかった石でできた典型的な四角柱型の台座で、高さは俺の腰くらい……約一メートルといったところか。台座の上には巨大な聖杯みたいなくすんだ金の物体が置かれている。それは台座に固定されているようで、持ち上げたり動かすことはできなかった。

 宝物庫……というわけではなさそうだ。此処にある宝っぽいものっていったらあの聖杯みたいな物体くらいなのだが、御世辞にもそこまで価値のある品物って感じはしないし。

 聖杯に触りながらあれこれ調べていると、足下に目を向けていたフォルテがあっと声を上げた。

「見て、此処の床。模様かと思ったんだけど、何かの文字みたい。文章になってるわ」

 彼女が言う通りに足下に視線を落とすと、俺たちが何気なく踏んでいた床の一部が小さなタイル状になっていることに気が付いた。

 質感は周囲の床や壁を構成している煉瓦と同じものなので一見するとかなり分かりづらいが、その箇所だけが煉瓦とは異なる大きさと形になっている。

 中央には、文字が彫り込まれている。崩れた象形文字みたいな形をした今までに見たこともない文字だが、翻訳能力を持っている俺にはそれがれっきとした文字であることが分かる。

「……これは、ナザラン文字だな」

 文字に注目していたゼファルトがそんなことを呟く。

 アヴネラが目を瞬かせて彼に問いかけた。

「ナザランって……二万年前に世界を統治していたっていう、始祖の一族の?」

「そうだ。彼らが遺したものと推測されている道具などの一部に、これと同じ文字が刻印されていたという記録が残っている。私も現物を目にしたのは初めてだが……おそらくは、間違いない」

 ナザランの民。

 人間やエルフを初めとする全ての亜人種たちの祖先と言われている存在で、現代とは比較にならないほどに高度な文明社会を築いて世界全土を統治していたらしい。

 天変地異や疫病の蔓延が原因で、現代の種族たちが世に誕生して繁栄し始めた頃にはすっかり数を減らしてしまい、最終的には絶滅してしまったとされている。それがおよそ三千年ほど昔の話だという。

 このダンジョンは千年以上前から存在しているという話ではあったが、ひょっとしたら此処はそれよりも昔にナザランの民の手によって作られた人工のダンジョンなのかもしれない。現代よりも高度な文明や技術が存在していたのなら、もしかしたらダンジョンを作ることくらい造作もないことだったのかもしれないしな。

 此処にそのナザラン文字とやらが刻まれているのがその証だ。

「君は読めるの? 此処に何て書かれてるか」

「……いや」

 ゼファルトが気難しげに眉間に皺を寄せる。

「ナザラン文字の解読は専門家の間でも殆ど進んでいない。そもそも、私は専門学者ではないからな……これがナザラン文字だということは分かっても、解読できるほどの知識はないのだ」

「そう。まあ、無理もないとは思うけれど。ナザランのことなんて、記録も殆ど残ってないっていうしね」

「……『杯』」

 二人の会話に割って入るように呟いたのはシキ。

 彼は床に刻まれた文字を目で追いながら、ゆっくりと、言葉を続けた。


「『杯に命の水を捧げよ。杯が命の水で満たされた時、新たなる道が繋がる。』」


 ゼファルトはびっくりした様子で彼に目を向けた。

「……シキ殿は、ナザラン文字が読めるのか……!?」

「あー、うん、だってほら、俺は『異邦の勇者』だしなぁ。異世界の言葉が普通に分かるんだもの、文字だって読めても不思議じゃないでしょ? おっさんだって読めるでしょ、これ」

「……まあ、一応読むくらいならな……書くことはできんが」

 唐突に振られたので相槌を打つ俺。

 突然異世界に放り込まれても普通に言葉が理解できるってのは、それだけで十分にチートだと思う。

 この世界に存在する人の言語なら何でも無条件で訳せてしまうのなら、思い切って翻訳家として開業するのはありかもしれない。古代語異種族語何でも訳しますって看板立てて店を開いたら、儲かりそうだな。

「命の水……何かしら? 普通の水とは違うもの?」

 シキの言葉にフォルテが小首を傾げている。

 その一言で、他の全員も揃って腕を組み考え始めた。

 命の水……おそらく何かの比喩なのだろうが、水に関係するものなんてこのダンジョン内には腐るほどありそうだから、行ける範囲を探索してそれらしいものを見つけ出すというのは一筋縄ではいかなそうである。

 ふと、アルカディアがよくビールのことを『命の水』と言っていることを思い出した。

 そんな感じでとりあえず液体状の何かだってことくらいは想像付くのだが、果たしてそれが何なのかは……思い浮かばない。

 杯を水で満たす……

 水は命の源だとか、海は全ての生命の母だとか、そういう逸話もあるから、一応普通の水でも『命の水』という意味が当てはまらないことはないんだよな。

「……とりあえず、試しに魔法で水を入れてみるか。運が良けりゃそれで扉が開くかもしれんし、違ってたら別のものを探せばいいだけだしな」

 俺は水魔法を唱えて、杯の中に一杯の水を注ぎ入れた。

 扉の反応は、ない。

 室内に満ちる沈黙。

 と──それまで単なる置き物だと思っていた四体の魚の彫像が、全て同時に目を白く光らせた!


 じゃっ!


「おっさん、危ない!」

 四体の彫像の口から一斉に放たれた光線が、俺が立っていた位置を貫く!

 俺はというと、シキに突き飛ばされて転んだお陰で間一髪のところで光線を避けることができた。

 脇腹に肘が深く刺さったせいで結構痛い。だが肘打ちを食らわなければ今頃俺は光線に全身を貫かれて終わっていたのだ。それと比べたら、こんな痛さなど何ということはない。

「もー、危ないなぁ。ぼさっと突っ立ってたら駄目じゃんかー。俺が押さなかったら、今頃おっさんの全身ばらばらになってたよ?」

「……すまん。助かった」

「ふむ……謎解きを誤ると罠が作動するようになっているのか……厄介なものだな」

 ゼファルトはそう呟きながら、杯の中の水を掌で掻き出して床に捨てた。

「命の水……命に関係する、液体。か……」

「ひょっとして、ポーションかしら? 怪我を治す液体って意味では、それも『命の水』だと思うの」

 確かに怪我を治療する効能があるという意味では、命に関係するものと言える。フォルテの考えはあながち的外れではない。

 でも……このダンジョンって、千年以上も昔から存在してるんだよな。当然この仕掛けも当時からあるもので……そんな頃から、ポーションなどという便利なものが世間に流通していたのだろうかと考えると、微妙な気がする。

 きっと、鍵になるのは現代の世間一般で気軽に手に入るような品物ではないと思う。古代から当たり前のように存在を認知されていたものだと思うのだ。

 命……誰もが知っている命にまつわるもの。生命力……

 ………………

 その時。俺の脳裏に、一瞬閃いたものがあった。

「……ひょっとして」

「何か思い当たるものがあるのか」

 ゼファルトの一言をきっかけに、皆の視線が俺の方へと向く。

 俺は頷いた。

「確証があるわけじゃないが……試してみたいことがある。協力してくれ」


 数分後。俺の頼みを聞いて部屋の外に出ていたシキとゼファルトが、それを担いで戻ってきた。

「言われた通りに持ってきたよ、おっさん。本当にこんなのが謎解きの鍵になるの?」

「だから言っただろ、確証があるわけじゃないって。だが……多分これが当たりだと思う。だから近くにそいつがあったんだよ。そいつは侵入者の排除役だけじゃなくて、謎解きの鍵としての役割も持ってたんだ」

「成程な……」

 どん、と足下に担いでいたそれを降ろすシキ。

 首から下を氷漬けにされたバブルヘッドは、身動きが取れずにキャアキャアとろくに開かない口で小さな奇声を発している。


 そう。俺が『命の水』なんじゃないかと予想を立てたのは──血なのだ。

 血は、生き物が生きる上では絶対に欠かせないもの。命を保つために必要な液体である。

 人間が魔法を使う際に生命力を捧げる対価として利用しているように、生命力を豊富に含んでいる存在なのだ。

 杯の大きさは、台座とほぼ同等の長さを持つ直径。決して小さいものではない。この中を一杯にするための血を用意しようと考えたら、自分の血を使うのは余りにも無謀すぎる。そのようなことをしたら、おそらく血を提供した人間は失血量が多すぎてそこで死んでしまうだろう。

 そのために、この部屋の近くにはバブルヘッドの大群が徘徊していたのだ。

 こいつらは、頭を傷付けられたらそれだけで頭が破裂して大量の血を撒き散らす特性がある。その尋常じゃない出血量は最初は嫌がらせのためなのかと思っていたのだが、此処の仕掛けを動かすのに必要な大量の血を確保するために用意されたものなのだと考えたら、納得できる。

 だから俺は、シキとゼファルトに頼んだのだ。一匹でいいから生け捕りにして此処に持って来てほしい、と。

 バブルヘッドは、股間の突起をありえないくらいに膨張させて今にも溶解液を噴射しそうな状態で氷漬けにされている。

 多分、この氷はフローズンシールの魔法だろうな。生半可な力技では絶対に破壊できない戒めだから、こいつが氷を破壊して暴れ出すといった心配はする必要はない。

 早速、作業に取り掛かろう。

 俺は自分に腕力強化の魔法を掛けてバブルヘッドを担ぎ上げると、そのままそいつの頭を杯の真上に来るように持って行った。

 ゼファルトに頼んでバブルヘッドを下の台座ごと風の障壁で包んでもらい、飛び散った血がなるべく床に零れないようにして、準備は完了。

「よし……いいぞ。シキ、こいつの頭を潰せ」

「りょーかいっ!」

 シキが刀でバブルヘッドの頭を一刀両断する。

 ぼびゅっ!

 バブルヘッドの頭が弾け、血が撒き散らされる。その殆どは風の障壁に阻まれて外までは飛ばずに、障壁の内側を伝いながら杯の中へと落ちていく。

 みるみるうちに、杯の中は血で満たされていく。

 そして、杯が一杯になった時。

 ごぅん……

 重たい音を立てて、閉ざされていた扉が開かれたのだった。

「よし……当たりだ。扉が開いたな」

「おー。凄いじゃんおっさん! さっすが、亀の甲より年の功ってね! いざって時に役に立つのは年寄りの知恵だねぇ」

「……だから、爺さん扱いするなって言っただろうが。終いには怒るぞ」

「あっはは、ごめんごめーん」

 頭を失って随分と軽くなったバブルヘッドの死骸を下ろして拳を振り上げる真似をする俺から、シキは笑いながら距離を置く。

「それじゃ、先に進もっかぁ。六時間なんてあっという間だし、時間は節約できるならするに越したことはないってね」

「……この様子だと、他にもこういう仕掛けが施された場所が幾つもあるはずだ。単純な移動に費やす時間は極力抑えるようにしていこう。仕掛けをひとつ動かすだけで、少なくない時間が必要になるだろうからな」

 ゼファルトの言葉に、それまで解けていた緊張が再び心に戻ってきた。

 古代人というものは……本当に、後世に厄介な置き土産を残していきたがる面倒臭い人種なんだな。何処の世界でも。

 ナザランの民とやらが面白がってこういう意地悪な謎てんこ盛りのダンジョンを作っていたのかと思うと、意識してもいないのに勝手に口から溜め息が漏れ出たのだった。

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