第66話 命はモノじゃない
チョーク──風魔法の一種で、任意の場所に真空の領域を作り出す効果がある。
アヴネラは、その魔法を魔法使いの体内で発動させたのだ。
肺の中が真空状態になるということは、それは窒息しているのと同じこと。魔法が解かれない限り、奴は呼吸ができずに苦しむことになる。
通常であれば魔法が生み出した真空領域から抜け出してしまえば済む話なのだが、それができないように、アヴネラはわざと奴の体内に領域を作り出したのだろう。
これでは、アヴネラが魔法を解かない限り奴は助かることはない。
しかし、彼女にはそのつもりは全くない。
彼女は、宣言通りにこいつを殺すつもりなのだ。
──しかし、此処でこいつを殺すわけにはいかない。
同情しているわけではない。奴にはまだ、攫った人間の居場所を吐いてもらうという役割が残っているのだ。それを果たさせずに死なせるわけにはいかないのである。
「……おい、幾ら何でもやり過ぎだ。こいつにはまだ訊きたいことがあるんだ、それを──」
「やり過ぎ? やり過ぎなもんか。こいつは神樹の魔弓を壊したんだ、命を取ったって採算が合わない。百回殺したって、千回殺したって代わりになるもんか」
「こいつには攫った人間の居場所を喋ってもらわないとならないんだ。そっちを放っておくわけにはいかないだろ」
「あの弓は人間の命なんかよりもよっぽど価値のあるボクたちの宝なんだ! とっくに死霊に成り果てた屑共のことなんか今更どうだっていいよ!」
「……!」
アヴネラの怒りの言葉に、俺は言おうとしていた言葉の続きを飲み込んでしまった。
彼女はこちらに振り向いてきた。その目には──涙の粒が、浮かんでいた。
「どうして、君たちは自分たちに与えられたものだけで満足しないでボクたちのものまで奪おうとするんだ! 魔帝なんてモノまで生み出して、自分たちが世界の覇者にでもなったつもりなのかい!? ボクたちからしたら人間なんて全部同じなんだよ! この世から消えてしまえ、この俗物共!」
怒りに全身を震わせた彼女の白い髪が揺れて、その間から何かが姿を覗かせる。
それは──明らかに人間のものとは違う、すらっと尖った耳だった。
俺は、何故彼女が他人と関わることを嫌っているのか、その理由を今になって知ったのだった。
彼女は、エルフだったのだ。
それもおそらく、エルフ領から来たであろう、人間を忌み嫌っている立場にある森の住人。
人間は、現在進行形で彼女たちエルフが暮らしている森を知らず知らずのうちに侵蝕し、その領地を奪い取っている。
エルフたちからしてみれば、それは立派な侵略だ。アヴネラが俺たち人間に対して敵意を持っていることも仕方のないことだと思う。
でも。
今の発言は流石に聞き流せない。
ただ日々を懸命に生きていただけの人のことを蔑んで、屑呼ばわりするのは──
「……アンチ・マジック」
俺はアンチ・マジックフィールドを窒息寸前で床に這い蹲っていた魔法使いの体を包み込むように展開させた。
アンチ・マジックの領域は触れた魔法を無力化する。体全体を飲み込む形で領域を発生させれば、それは体に掛けられた全ての魔法効果を強制的に解除する力を発揮する。
普段は相手からの魔法攻撃を迎撃するための障壁として展開している力だが、それを今回は魔法使いに掛けられたチョークの効果を消去するために使ったのだ。
魔法効果から解き放たれて呼吸ができるようになった魔法使いが激しく咳き込んでいる。
魔法を強制的に解かれたアヴネラが、驚愕の声を上げた。
「……そ、そんな、ボクの魔法が、消されて……? そんな魔法があるなんて、聞いたこと……」
憤怒と憎悪が混じり合った黒い表情を見せながら、彼女は俺へと詰め寄ってくる。
「そう……君も人間だから、そいつのことを庇うのか。やっぱり、人間は……!」
ばしっ!
アヴネラが頬を押さえてその場に尻餅をつく。
「……あんたたちエルフが俺たち人間のことをどう思っているのかは知ってる。その理由も理解できる。だから人間を憎むなとは言わない。……でもな」
俺は振り抜いた手をゆっくりと下ろして、奥歯を噛み締めながら、言った。
「命を屑扱いするな。命はモノじゃない。例えそれが、どんなに憎い相手であったとしてもだ。今のあんたは、俺からしたら魔帝と何ひとつ変わらない……自分の思い通りにならないとヒステリーを起こすだけの、馬鹿野郎だ」
「…………」
ぐっ、と息を飲んで彼女は俯く。
……俺は、他人に命についてどうこう説教できるほど偉い人間ではない。
でも、これだけは言わなければならないと思ったのだ。命はどんな生き物にもたったひとつだけ与えられた掛け替えのないもので、替えが利かない天からの贈り物であるということを。
「……もちろん、あんたにも言ってるんだぞ。命を冒涜したマッドサイエンティストめ」
展開しているアンチ・マジックフィールドを解いて、未だへたり込んだままの魔法使いの首根っこを引っ掴んで持ち上げる。
窒息死寸前だったこともあって体力を使い果たしてしまったのか、魔法使いは抵抗ひとつすることもなく俺の手にぶら下がっているばかりだった。
「あんたが死霊を作ってたのは魔帝と戦うためだったっていうあんたの言葉を信じて、この場であんたを殺すのだけは勘弁してやる。……でも二度と同じ研究ができないように、此処の研究所は潰させてもらう。フォルテと村から攫った連中も返してもらうからな」
「……おっさん。多分、そいつは無理だぜ。此処には、村から攫ったって連中は一人も残っちゃいねぇよ」
いつの間にか机の向こう側に移動して棚を物色していたリュウガが、肩を竦めながら言った。
「さっき、オレたちが残らず始末しちまったからな。燃え残った炭の欠片でも構わねぇんなら拾って持ってってやるけどよ」
魔法使いは、さっきこう言っていた。アヴネラの弓から抽出した魔力で作った核の大半を俺たちが駄目にしてしまったと。
もしもその核が既に誘拐してきた人間に使われていて、その結果誕生したアンデッドが此処にいたのだとしたら──
俺は小さく呻いた。
「……俺は、人殺しをしたのか」
「そりゃ違うぜ、おっさん。あれはもう人間とは言えねぇ、アンデッドだ。存在してちゃいけねぇ代物だ。あの時オレたちが潰してなかったら、あいつらはいずれ外に出て冒険者と出くわしてひと悶着起こすことになってただろうよ」
棚に置かれていた小さな木箱を手に取って、蓋を開けるリュウガ。
中には魔法陣が刻まれた赤色の水晶が何個か入っていた。
それを箱を無造作にひっくり返して床にぶちまけた後、彼は手にしていたアインソフセイバーを振るった。
アルテマの力を宿したアインソフセイバーの刃は、水晶たちを粉々に砕いた。
「だから後悔なんざする必要はねぇ。さっさとその女を助けて、此処からおさらばする。それでこの事件は終いだ。後は村に残った連中にでも後始末を任せりゃいいさ」
床に散らばった赤い輝きを踏み潰し、彼はひらひらと手を振りながら部屋の外へと出て行った。
リュウガにとって、この魔法使いのことはどうでも良いことなのだろう。此処で俺がこいつを殺そうが生かそうが知ったことではないということか。
俺は魔法使いの首根っこから手を離した。
べしゃ、と打ち捨てられた死体のように床に突っ伏す魔法使い。本当に死んでしまったのではないかと思えるくらいに動く気配がない。
遂に、こいつの顔も名前も分からなかったな。まあどうでも良いことではあるが。
早いところフォルテを助けて、こんな場所からは出よう。
俺は机の上にフォルテを拘束している四肢の枷を、威力を抑えた爆発魔法でひとつずつ破壊して外していった。
猿轡を取って軽く頬を叩いてやるが、薬か何かを嗅がされているのか、フォルテが目覚める気配は一向にない。しかし生きていることは確かなようで、胸が小さく上下している様子が確認できた。
仕方ない……このまま連れ出して、自然に目が覚めるのを待とう。無理矢理眠らされているのだとしても、その睡眠効果が永遠に続くことはないはずだ。
俺は全開になっているフォルテの服の胸元を引っ張って閉じようとした。しかしこのローブ、どういうわけか胸元のサイズが若干小さいらしくホックがなかなか引っ掛からない。
破く勢いで引っ張ったら何とかひとつだけホックが引っ掛かって隠さなくてはいけない部分はとりあえず隠れたので、この場ではそれで良しということにしておいた。無理矢理やって本当に服を破ったら冗談抜きで変態扱いされてしまうからな。そんなのは流石に御免だ。
何だか今にも外れそうになっているホックの陰から、胸の谷間がちらちらと見えている。
それを極力見ないようにしながら、俺は机の上からフォルテの体をお姫様抱っこの要領で抱き上げた。
「行くぞ、ヴァイス。アヴネラ。もう此処に用はないからな」
「……ボクが君たちと一緒に行く義務はもうないでしょ。勝手に行きなよ。ボクは此処にいる」
床に座り込んだまま、こちらに振り向こうともせずにアヴネラは言う。
確かに……彼女は自分の弓を取り返すために俺たちと手を組んで此処に来た。取り返すべき弓がなくなり、それを持ち逃げした犯人を潰した今となっては、彼女が俺たちに同行する理由はなくなったと言ってもいい。
それに、彼女は人間を嫌悪しているようだし……そんな奴に俺たちと一緒にいろと言うのも酷というものだ。
「そうか、分かった」
俺はあっさりと頷いて、彼女が握り締めたままのトゲバットに視線を向けた。
実体化を解いたトゲバットは、彼女の手の中で光の欠片と化して消えていった。
「元気でな」
一言だけ挨拶を手向けて、そのまま俺はヴァイスを従えて洞穴の外に出た。
靴の裏が土の大地を踏み締めた時──洞穴の中から、何かを薙ぎ倒すような派手な音が岩壁に反響しながら聞こえてきた。
その音はすぐに消えてなくなり、日が暮れて藍色に染まった静寂の世界が、その場を去り行く俺たちを労わるように包み込むのだった。
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