自分の手元に置いておきたいモノ

ハイブリッジ

自分の手元に置いておきたいモノ

 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。六時にセットした目覚ましのアラームが部屋中に鳴り響く。


「……ん」


 寝ぼけながら目覚ましを止め、嫌々体を起こす。…………眠い。

 今日は僕が嫌いな週の始まりである月曜日だ。カーテンから漏れている太陽の光が眩しい。外は晴天のようで、今の僕の気分とは真逆の天気だ。曇天みたいに心が晴れない。気分に影響してなのか体調もなんだか優れない。


「……学校行きたくないな」


 そう思うとまだ温もりがある布団の中に体が勝手に入っていく。

 僕の名前は高宮たかみや秋人あきひと、高校二年生。男子にしては体が細くて、身長が低い。女子の平均的な身長とあまり変わらないくらいだ。顔も子供っぽく他の男子と比べると、まだ幼さが残っていてちょっとだけコンプレックスだ。

 そんな僕にも付き合い始めて、もう一年の彼女がいる。

 名前は春瀬はるせ智恵理ちえり。僕と同じ高校二年生だ。智恵理はとても可愛らしい容姿をしている。首まで伸びている茶色がかった髪、パッチリとした目、女性らしさがはっきり出ている体、全てが智恵理に似合っている。性格も社交的で、誰とでも仲良くなれ、友達もたくさんいる。また男子からもとても人気があり、クラスどころか学校中のマドンナ的存在だ。

 そんな僕たちが付き合っていると噂が広がった時は周りから驚かれた。男らしくなくてあまり目立たない僕と、誰が見ても美少女でとても人気がある智恵理が付き合うのは不釣り合いだという人もいた。

 でも智恵理はそんな奴らなんて無視すればいい、私が好きだから付き合っているの、と僕に言ってくれた。

 そして徐々にだけど、みんなが僕たちを応援してくれるようになった。それが嬉しくて、絶対に智恵理を悲しませないようにしようと決めた。

 智恵理と一緒にいられるだけで幸せだった。ずっとこの時間が続いて欲しかった。

 でも……そんな幸せな時間は突然崩れ始める。

 ちょうどそれは、二日前のことだった。




 *




 僕はその日に発売の小説が欲しくて、家の近くにある本屋に向かっていた。その途中、僕の視界に見覚えがある後ろ姿が移った。あれって、もしかして……やっぱりそうだ。

 見間違えるはずがない、智恵理だ。智恵理はここから家が遠いから、ここら辺で会うなんて珍しい。何か用事があるのかな? 

 智恵理はまだ僕には気付いていない様子だ。

 よし。ちょっとびっくりさせてやろうと思い、後ろから智恵理に近づこうとした時だった。智恵理に一人の男が近づいて来た。


「智恵理、おまたせ」

「もう、遅いです先輩。十分遅刻ですよ」


 動こうとしていた足が自然と止まった。その人は、僕の知っている人物だった。

 鹿野しかの夏哉なつや。僕たちの高校の先輩だ。鹿野先輩は運動神経が抜群で、バスケ部のキャプテンをしている。顔も整っていて、爽やかな雰囲気が漂っている。性格もリーダーシップがあって、男らしい。学年問わず女子から人気がある。

 そんな鹿野先輩が智恵理と仲睦まじそうに会話している。まるで二人は付き合っているようだ。

 ……疑っちゃだめだ。彼女を疑うなんて彼氏として最低だ。

 僕は首を横に振る。唯の仲の良い友達なのかもしれない。自分にそう何度も言い聞かせた。再び二人を見ると、手を繋ぎ始めた。恋人つなぎだった。そして、そのまま二人は街中へと歩いて行った。

 ……浮気なのかな。いや、僕は智恵理を信じると付き合った時に決めたじゃないか。

 でも……気になる。自分の目で最後まで確かめたい。

 僕は本来の目的を忘れて、二人の後を見つからないように追うことにした。



 ◆



 周りの人から見たら、僕は怪しい人だったかもしれない。でもその時はまったく気にならなかった。二人の跡を追うことだけで頭がいっぱいだったから。

 二人は雑貨屋に入っていった。中に入るとさすがに見つかるかも知れないので、外で待機することにした。

 しばらくして二人が何かを買ったのか、紙袋を持って店から出てきた。そして二人は近くの橋に向かって歩き出したので、すかさず後を追った。



 ◆



 橋に到着すると、二人は川を見ながら楽しそうに会話をしていた。

 二人は会話に夢中で僕に気づいていない。僕はばれないように二人の声が聞こえる位置まで近づく。

 会話の途中、鹿野先輩が紙袋からさっきの店で買った、お揃そろいのアクセサリーを取り出して智恵理に渡した。智恵理はとても嬉しそうにアクセサリーを見つめていた。


「わ~、ありがとうございます先輩。私、大切にしますね」

「はは、気に入ってくれて嬉しいよ。……でも、いいのか? 智恵理ちゃん、彼氏いるんだろ? 確か……高宮だっけ?」


 鹿野先輩が僕のことを尋ねた。大丈夫……。智恵理は僕をちゃんと彼氏だって言ってくれる。

 少し考える素振りをして智恵理は答えた。


「あ~いいんです。だってあいつと一緒にいても……つまらないし。それに、先輩と一緒にいた方が百倍楽しいです♪」

「まあ、智恵理の話を聞く限り、高宮は面白くなさそうだもんな」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭は真っ白になった。気づいた時には、二人はどこかへ行ってしまっていた。ようやく頭が働くようになって、僕はとりあえず来た道を戻ることにした。

 …………あれ?

 頬を触ってみると、涙が伝っていた。帰宅した後、自分の部屋で涙が枯れるくらい泣いた。



 *



 そして二日後の今に至っている。

 本当は今日学校を休みたかったんだけど、お母さんが行け行けとうるさいから仕方なく行くことにした。こんなに憂鬱な登校は初めてだ。自然と目線が下を向いてしまう。

 足取り重く一人で学校に向かっていると、背中を誰かに叩かれた。


「いっ……」


 振り返ると、今一番会いたくない人物がいた。


「おはよう秋人、朝から背中が曲がってるぞ!」

「えっと……おはよう、智恵理」


 智恵理はいつものように僕に接してくる。

 智恵理の顔を見た途端、二日前のあの出来事が頭をよぎった。

 いっぱい泣いたはずなのに、また泣きそうになる。ここで泣いたらダメだ。泣きそうになったけどグッと堪えた。そんな僕の心情なんて知らないとばかりに智恵理は話を始める。


「ねえねえ、聞いてよ。昨日さ~お母さんがね――」


 智恵理の話の内容が全く頭に入ってこない。

 ほんの二日前までは、この時間がとても居心地が良くて幸せだったのに、今は最悪の居心地だ。一刻も早くこの場から離れたい……いや、智恵理の傍から離れたい。


「いたっ」


 智恵理が僕の脇腹に肘を当ててきた。智恵理の話に僕が反応しないことに少しイラついているようだった。


「ちょっと秋人、ちゃんと聞いてる?」

「……え? う、うん。ちゃんと聞いてるよ。えっと……ごめん、なんだったっけ?」

「もうっ! やっぱ聞いてないじゃん。あのね夜ご飯を食べ――」


 この後も僕は智恵理の話がまるで頭に入って来なかった。



 ◆



 智恵理と別れて教室に着くと、何か教室の雰囲気がいつもと違うことに気づいた。ソワソワしていて落ち着きがない感じがする。なんだろう?


「ねえ。今日何かあるの?」


 隣の席のクラスメイトに聞いてみる。


「ああ。なんか今日、転校生がこのクラスに来るらしいんだ。しかも女子らしいぜ」

「そうなんだ」


 なるほど納得した。転校生が来ることにソワソワしていたのか。どんな子が来るのだろう。話を聞いて僕も少しだけ興味が湧いた。

 そしてクラス中が待ち望んでいた時間がやって来た。


「お~い、席に着けよ」


 始業のチャイムが鳴り先生が教室に入って来ると、各々が自分の席に戻っていく。

 全員が着席したのを確認し終えると、先生は話し始める。


「え~、今日はこのクラスに転校生が来ることになりました」


 先生の一言で教室がざわつき始めた。


「じゃあ及川さん、入ってきて」


 彼女が入った途端、それまで騒がしかったクラスが一瞬にして静まり返る。クラス全員が彼女に見惚ていたからだ。僕も思わず目を奪われてしまった。

 それほど彼女は魅力的だった。スラっとした体型でまるでモデルのようだ。長い黒髪が雪のように白い肌をより映はえさせている。纏まとっている空気もどこか大人びて感じる。


及川おいかわ冬美ふゆみです。よろしくお願いします」


 及川さんが僕たちの方にお辞儀をすると、クラス中が盛大な拍手で及川さんを迎えた。特に男子は拍手の勢いが激しかった気がした。


「はいはい静かに! じゃあ及川さんが来たことですし、ちょうどいい機会なので席替えをしたいと思います。及川さんもそれでいい?」

「はい大丈夫です」


 先生はあらかじめ自分で作ったくじを取り出して、みんなに引かせる。

 全員くじを引き終わり、席が決まると移動をし始めた。僕も新しく決まった席へ移動する。

 他の人はというと、及川さんと近くじゃなかったと愚痴をこぼす人や、及川さんとちょっと近いと喜んでいる人もいた。クラスの大多数の人が今回の席替えで、及川さんと近くになりたいと思っていたらしい。

 全員の移動が終わると、周りの席の友達と話し始める。僕も隣の相手に挨拶をした。


「えっと、これからよろしく及川さん」

「ええ。えっと……名前を聞いてもいいかしら?」

「あ、ごめんね。高宮秋人です」

「高宮……秋人……。よろしくね、高宮君」


 今日から及川さんと隣の席になった。



 ◆



 授業が始まって早々、及川さんに声をかけられた。


「高宮君、教科書を見せてもらっていいかしら?」

「うん、いいよ」


 机を引っ付けて、及川さんに見えるように教科書を机の真ん中に置く。


「ありがとう。それと……大変図々しいのだけど、もう一つだけお願いがあるの……いいかしら?」

「え? まあ、内容によるけど」

「放課後に学校の案内をお願いできないかしら? 早くこの学校に馴染みたいの」


 積極的にこの学校に馴染もうとしている及川さんを僕は拒むことができない。もちろんオッケーを出す。


「うんいいよ、僕で良ければ」

「ありがとう、助かるわ。じゃあお願いね」


 この日は及川さんと席を引っ付けたまま全部の授業は受けた。



 ◆



 放課後になって帰る準備をしていると、隣のクラスの智恵理が教室のドアから顔を覗かせていた。


「秋人~、一緒に帰ろ~? おいしいクレープ屋見つけたから寄ってかない?」

「えっと……ごめん。今日はちょっと……」

「ん、どうしたの? なんか用事でもあるの?」

「あ~えっと……」


 正直に言って断るか、嘘を言って断ろうか。悩んでいると、後ろから帰る準備が終わった及川さんが話しかけてきた。


「ごめんなさい高宮君。少し遅くなってしまったわ」


 いきなり現れた及川さんに智恵理は困惑している様子だ。


「えっと……誰……ですか?」

「……はじめまして。今日転校してきた及川冬美です」

「あっ今日来た転校生か。はじめまして、春瀬智恵理よ」


 二人が挨拶をし終わったので僕は智恵理に正直に言うことにした。


「ごめん智恵理、先に帰っててくれないかな。今から及川さんに学校を案内するから」

「なら私も一緒に案内したいっ!」


 元気よく手を挙げると、智恵理は体が触れそうなくらい近づいてくる。


「い、いや……」


 できればあまり智恵理と一緒にいたくないなあ。一緒にいるとなんか胸が痛い……。そんなことを思っているのが顔に出ていたのか、及川さんが助け船を出してくれた。


「ごめんなさい春瀬さん。私たち先生のところにも用があるから、二人だけじゃないと駄目なの」


 それを聞いて智恵理は少し不服そうな顔をして僕の方を見てきたので、小さく頭を下げてごめんねと謝る。


「ふ~ん……そっか、それならしょうがないね。じゃあ秋人、今度何か埋め合わせしてよね」

「う、うん。絶対するよ」


 笑顔で手を振りながら智恵理は教室を去って行った。智恵理が先に帰ってくれて正直ホッとしている。


「ごめんね。じゃ、行こっか及川さん」

「ええ、お願いね」


 僕たちは生徒が少なくなった学校を回っていった。



 ◆



 及川さんへの学校の案内が終わったのは五時半ぐらいで外は少し肌寒い。


「ありがとう、とても助かったわ」

「い、いいよ。僕も及川さんの力になれて嬉しいし。……じゃあまた明日ね」


 正門せいもんの前まで到着し帰ろうとした時、及川さんが僕の鞄を掴んだ。


「え、えっと何かな?」

「よかったら近くでお茶でもどうかしら? お礼がしたいの」

「い、いや。今日は遠慮しようかな。…………なんて」

「……お礼がしたいの」

「あ、あはは」


 鞄を掴んだまま離さない及川さん。結構力が強い。これはもう選択肢が一つしかないんじゃないかな。


「……じゃあお言葉に甘えようかな」


 半なかば強引に及川さんと近くの喫茶店に連れて行かれることになった。



 ◆



 喫茶店で僕はアイスコーヒー、及川さんはアイスティーを頼んだ。


「「……」」


 喫茶店に来たのは良いんだけど、及川さんも積極的に話すタイプじゃないらしく会話がない。……気まずい。

 アイスコーヒーが来るとすぐに飲み干してしまった。及川さんはまだアイスティーに口をつけてない。及川さんがアイスティーを飲むのを待っていると、唐突に及川さんが変なことを聞いてきた。


「ねえ高宮君、あなた今何か悩み事でもあるの?」

「え? ど、どうしたの急に」


 及川さんは手慣れた手つきで、アイスティーにミルクを入れてストローで混ぜている。


「私ね、人を観察することには自信があるの。高宮君……今日ずっと落ち込んでいるように見えたから」


 図星を突かれ、思わず笑ってしまった。


「はは……すごいな、及川さんって。うん……そうだよ。今僕ね、悩んでることがあるんだ」


 及川さんは混ぜていた手を止めた。


「……もしよかったらで良いのだけれど、聞かせてくれないかしら? 良いアドバイスができるかはわからないけど」


 そう言って、及川さんは微笑んだ。その顔を見て僕は何故だか、及川さんになら話してもいいかなと思った。

 僕は抱えている悩みを大まかに及川さんに話した。

 智恵理と付き合っていること。

 智恵理との一緒にいる時間がどれだけ楽しかったか。

 智恵理が僕に内緒で鹿野先輩と浮気していたこと。

 智恵理が僕をどう思っていたのかを。

 話すのがあまり得意じゃないから、上手く伝えられたかわからないけれど、及川さんは僕が話が終わるまで静かに聞いてくれた。

 そして僕が全部話し終えると、及川さんは口を開いた。


「そう……辛かったわね。ありがとう、話してくれて」

「いや……僕の方こそありがとう。なんか及川さんに話したら、ちょっとスッキリしたよ」

「それなら良かったわ」


 話を及川さんに聞いてもらってなんか心と頭がスッキリした。いつまでもクヨクヨしてちゃいけない。

 よし……決めた。


「僕……明日、智恵理に別れようって言うよ」

「そう……」


 そのまま及川さんは黙ってしまった。そしてアイスティーを一口飲み、真っ直ぐな目で僕を見つめる。


「ねえ……高宮君」


 及川さんは少し間を置いた後、こう言った。



「春瀬さんに……仕返ししたいと思わない?」



 思いもしなかった及川さんの言葉に混乱する。


「し、仕返し? ど、どういうこと?」

「そのままの意味よ。春瀬さんを高宮君と同じ目に遭わしてやるの。悔しくないの? 春瀬さんは高宮君を何食わぬ顔で裏切っていたのよ」

「それは……」

「私は話を聞いていただけでも腹が立ったわ。それをただ別れるだけで終わらせるのは理不尽よ」

「仕返しって……例えば何をするの?」


 及川さんに尋ねると、優しく答えてくれた。


「高宮君も浮気をすればいいのよ。それで春瀬さんにもあなたと同じ目に遭わせてやるの。そして春瀬さんにとってあなたが、どれだけ大切な存在だったかをわからせてやるのよ」


 及川さんの提案に思わず心が揺れてしまう。確かに僕も内心とても悔しかった。仕返しもできればだけど、やってやりたいと思っている。


「はは……やってやりたいけど……無理だよ。だってまず相手がいな――」

「そこは問題ないわ。私がその役をやるから」

「へ……」

「私が高宮君の相手役をやるわ」


 おちょくられているのかと思ったけど、及川さんが冗談で言っているようには見えない。


「でも……及川さんはいいの?」

「あら。私じゃ不満かしら?」


 小首を傾げながらいたずらっぽく微笑む及川さん。


「い、いや。そういうわけじゃ」

「それなら決まりね」


 結局及川さんの押しの強さに負けてしまった。


「じゃ、じゃあ僕は……何をすればいいの?」

「簡単よ。高宮君は明日から春瀬さんに冷たく接してちょうだい」

「えっ? そ、それだけでいいの?」


 意外だ。もっと複雑なことをお願いされるもんだと思っていた。


「ええ。あとは私がタイミング良く、高宮君にイチャつきに行くから。それで仕返しは成功するはずよ」


 不思議だけど及川さんが言うとなんだか本当に成功するように思えてくる。


「……わかった。よろしく及川さん」

「こちらこそよろしくね高宮君」


 こうして及川さんの協力の下、智恵理に仕返しをすることなった。



 □



 やっと……やっと今日彼に会うことができた。本当に嬉しい。昔は可愛かったけど、今は可愛さに加えて少し凛々しさも加わっていて、一段と彼のことが好きになった。

 でも最悪なことに彼には害虫がくっ付いていた。まあ彼は可愛いからくっ付くのもわかるけど、邪魔でしょうがない。

 けれど害虫は馬鹿なことに彼を裏切ったらしい。彼はまだ未練があるみたいだけど。そんな害虫より私の方が絶対幸せにしてあげるのに……。

 そこで私は害虫を利用することに決めた。利用して彼に振り向いてもらうことにした。

 ふふ、待っててね高宮君。



 □



 及川さんが転校してきて次の日、昨日と違ってあまり気分も悪くなく、すぐに布団から出ることが出来た。

 昨日と同様一人で登校していると、まるで昨日の再現のように背中を誰かに叩かれた。


「いっ……」

 振り返ると犯人は案の定、智恵理だった。


「秋人おっはよーう!」

「あ……お、おはよう」

「むっ、リアクション薄いな~。よ~し……えいっ!」


 すると智恵理は勢いよく、僕の腕に抱き着いてくる。


「どう? 朝から美少女に抱き着かれるのは? 気分いいでしょ」

「……ごめん、離れて」


 僕の言葉を無視して智恵理は構わず腕に抱き着いている。


「や~だよ~♪ いいじゃん、私たち付き合ってるんだし」

「……離れて」


 さっきよりも機嫌悪そうに言ってみる。すると智恵理は慌てて僕の腕から離れた。


「ご、ごめんね。嫌だった?」

「別に……。ごめん、僕先行くね」

「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ」


 後ろから聞こえる智恵理の声には耳を向けず、逃げるように学校に向かった。



 ◆



 教室に入ると、及川さんが自分の席で読書をしていた。


「ハア……ハア……お、おはよう及川さん」

「おはよう高宮君。……なんでそんなに汗をかいているの?」


 額を手で拭うと、僕が思っていたより汗をかいていた。運動不足かな。


「ちょ、ちょっと走って来たから」

「そう。朝からごくろうさま」

「そういえばさっき、智恵理と会ったんだ」


 及川さんの先ほどまで進んでいたページをめくる手が止まる。


「……それで?」

「それでって……。まあ、冷たく接したよ」

「そう。じゃあたぶんだけど春瀬さん、昼休みにここに来るわね」


 何故か自信ありげに及川さんは予言する。


「なんでそう思うの?」

「勘よ。私の勘って結構当たるの」


 勘なのか……。てっきり何か確信があって言ったのかと思ったよ。

 でも及川さんが言うと、本当に来るような気がする。



 ◆



 なんと及川さんの勘は見事に的中した。昼休みになってすぐ智恵理が僕たちのクラスに弁当を持って訪ねて来たのだ。


「秋人、一緒にご飯食べよ?」


 智恵理が満面の笑顔で誘ってくる。


「あ、えっと……ごめん。今日は友達と食べる約束してて」


 及川さんの作戦通り誘いを断ると、智恵理から笑顔が消えた。


「ふ~ん……誰?」

「え、えっとー」

「高宮君、何をしているの?」


 タイミングを見計らったように及川さんは僕と智恵理の会話に割り込んできた。


「あら春瀬さんこんにちは。どうしたのかしら?」

「……秋人とご飯を食べに来たの」


 智恵理は不機嫌そうに答える。及川さんはチラッと智恵理の持っていた弁当を見る。


「そうなの。でもごめんなさい。高宮君は私と食べる約束をしているの」


 及川さんは自分の弁当を智恵理に見せる。


「へ~……二人って仲良いんだね」

「そうね。高宮君とはこの学校で一番仲が良いわ」


 二人の間に不穏な空気が漂っている。


「……わかった。じゃ明日は絶対私と二人っきりで食べてね、秋人」


 智恵理が自分のクラスに帰った後、及川さんは何事もなかったように僕に話しかけてきた。


「さてご飯にしましょ、高宮君」

「そ、そうだね」


 ちょっと辛いな……。

 この時、僕は朝からの智恵理に対する自分の行動に罪悪感を抱いてしまっていた。


「ねえ……及川さん」

「何かしら?」

「僕、智恵理に悪いことしちゃったかな。……やっぱりすぐに別れようって言ったほ――」

「それはダメよ」


 僕が言い切る前にはっきりとした声で及川さんが遮った。


「高宮君は優しすぎるわ。春瀬さんは浮気をしてもあなたのように罪悪感を抱かなかったのよ。そんな相手に同情をする必要なんてないわ」

「……そうなのかな」

「ええそうよ。さ、とりあえずお昼にしましょ」

「うん……そうだね」


 心の中がモヤモヤしながら及川さんと昼ご飯を食べた。



 ◆



 帰りのホームルームも終わりクラス全員帰る準備をしている。

 今日は本屋に寄って行こうかな。確か今日はあの本の発売日だし。寄り道をしようと決め、帰ろうとした時、及川さんに声をかけられた。


「高宮君。これからどっかに寄って行かない?」

「あ~……うん、いいよ」


 わずかだけ僕が躊躇ったのを及川さんは見逃さなかった。


「……何か予定でもあったかしら?」

「えっと大した用じゃないんだけど、ちょっと本屋にでも行こうかなって思ってただけだよ」

「そうだったのね。なら私も付いてこうかしら。私もちょうど欲しい本があったの」

「いいけど……行こうと思ってたところ、僕の家の近くの本屋だから、ここからちょっと遠いよ」

「構わないわ」


 何の迷いもなく即答をする及川さん。僕も及川さんと一緒に本屋に行けることは嬉しい。


「よし、なら行こっか」


 僕は足取り軽く及川さんと一緒に学校を後にした。



 ◆



 僕と及川さんは途切れ途切れながらも会話をしながら本屋に向かった。昨日の喫茶店の沈黙よりは百倍はマシだった。

 三十分くらいの道のりも話をしながらだとあっという間で目的の本屋が見えてきた。


「ほら、あそこだよ」

「ここがいつも高宮君の通っている本屋?」

「いつもってわけじゃないけど、まあ本を買う時は大体ここだよ」


 僕が答えると及川さんは立ち止まり、本屋をじっと見つめる。何十秒間か見つめると口を開く。


「……私もここに通おうかしら」

「ほ、本当に?」

「ふふ、冗談よ。さ、中に入りましょう」


 僕の驚いた表情を見て及川さんは満足そうに店内に入って行った。

 及川さんは表情があまり変わらないから、冗談なのか本当なのかわかりづらいんだよな……。あ、いけない僕も早く入ろう。一足遅れて僕も店内に入った。

 僕たちは無事にお互いが欲しい本を買うことができた。本屋を出た時にはもう辺りが暗くなり始めていた。


「及川さんの家ってどの辺にあるの? よかったら送っていくよ」


 わざわざ遠いのにここまで付いてきてくれたんだから、これくらいはしないと。


「それは悪いわ。ここから少し遠いから」

「気にしないで。女の子が一人で帰るのは物騒でしょ」

「……ならお言葉に甘えようかしら」

「うん、まかせてよ」



 ◆



 本屋から歩いて数分くらいして、会話が途切れてしまった。やっぱりまだ……ちょっと気まずい。何か話題ないかな。

 そういえば僕自身、及川さんのことについてあまり知らないことにふと気づいた。及川さんと話すと何故だか僕の話ばかりになるからなあ。

 よし、いい機会だから思い切って聞いてみよう。


「及川さんってこの町に来るのって初めてなの?」


 少し間を置いてから及川さんが口を開く。


「……小さい頃に何回か来たことはあるわ」

「へ~そうなんだ。どう学校は?」

「まだ少ししか通っていないけど楽しいわ。みんなや先生も親切にしてくれるし、それに……」

「それに?」

「高宮君もいるし、良い学校よ」


 自分でもわかるくらい顔が赤くなる。照れくさくて及川さんの顔を見ることができなくなり、及川さんのいる方とは逆の方に顔を向けた。そこに良く知る二人の姿が目に入ってきた。

 智恵理と鹿野先輩だ。

 思わず僕は立ち止まってしまった。突然立ち止まったので、及川さんは不思議に思ったのか僕のところまで戻って来る。


「どうしたの高宮君。何かあっ……」


 僕の視線を追ったのか、及川さんも智恵理たちに気づいて口をつぐむ。

 智恵理と鹿野先輩は何か会話しているように見える。距離があるから何を話しているのかまではわからない。二人を目で追っていたら足が重くなって動かなくなってしまった。

 ああ……まただ。ここから離れたいのに……頭が働かない、体が言うことを聞かない。嫌だ……もう見たくないのに。

 その時、僕の右手を及川さんが掴んできた。途端に体がまたいつも通りに動き始める。


「へ……」

「……行きましょう。高宮君」

「あっ……うん」


 及川さんの手は白くて綺麗で僕の手よりも冷たくて気持ちよかった。その手に引かれながら僕は歩き出した。



 ◆



 あの場所から離れた後、僕たちの間には沈黙が続いた。及川さんはあの場所を離れてからはずっと不機嫌な様子なままだ。

 僕のせいだ。なんとかしないと……。


「あ、あのね――」

「大丈夫よ高宮君」

「え?」


 及川さんの言葉の意味が僕にはわからなかった。及川さんの声は冷たく、心に突き刺さるようだ。


「あの女は……必ず後悔するわ。あなたを裏切ったことを」

「ど、どうゆうこと?」

「……高宮君はこれからも春瀬さんに冷たく接するだけでいいわ。そして春瀬さんの心が折れかかってきたら、私が止めを刺すから」

「と、とどめを刺すって……何するの? まさか、本当に刺すってことはしないよね?」


 僕の質問に及川さんは少し微笑んで答える。


「そんなことはしないわ。安心して」

「うん……わかった」


 内心ホッとする。仕返しはしたいけれど、暴力とかは絶対にしたくない。話している内に一軒家がたくさん並んでいる道に着いた。


「私の家もうすぐそこだから、ここまででいいわ。わざわざありがとう」

「わかった。じゃあまた明日、学校で」

「ええ。また明日」


 及川さんを見送った後、僕は来た道より少し遠回りをして家に帰った。



 ◆



 智恵理に冷たく接するようになってから今日で三週間が過ぎた。

 朝は通学路でなるべく会わないように早めに家を出て、もし出会っても極力話さず、ご飯や登下校に誘われても適当に理由をつけて全て断った。

 そんなある日、ある出来事が起こった。

 先生に頼まれて化学実験室からプリントを届け終わり、教室に戻る途中に後ろから声をかけられた。


「ごめん、ちょっといい。高宮ってどこのクラスかわかるかい?」


 鹿野先輩だ。鹿野先輩は僕が探している高宮だっていうことに気づいてない様子だ。


「えっと……僕が高宮ですけど。何か用ですか?」


 返事をすると、鹿野先輩は僕の顔をまじまじと見てくる。あまり気分が良いものではない。


「……少し話したいことがあるから、時間いいかな?」

「わ、わかりました」


 相手が上級生ということと智恵理のこともあり、緊張しながら僕は鹿野先輩に連れてかれた。



 ◆



「……ここなら誰にも聞かれないかな」


 鹿野先輩に連れて来られた場所は普段滅多に人が来ない、三階の渡り廊下だった。


「着いて早々で悪いけど、高宮……君に頼みたいことがある」


 鹿野先輩は真剣な眼差しで僕を見る。


「えっと……何ですか」

「智恵理と別れてくれないか」

「え……」


 突然の鹿野先輩の頼みに思わず言葉を失う。


「最近……智恵理の元気がないんだ。俺が話しかけてもずっとボーっとしていて、まるで心がないみたいなんだ。なのに……彼氏である君は何もしてあげていないらしいな。それどころか君は最近、智恵理に対してどうしてかわからないが冷たく接しているらしいじゃないか?」


 鹿野先輩の話で智恵理が元気のないことを初めて知った。最近智恵理とまともに会話してないから気付かなかったけど、そんなに落ち込んでたんだ……。


「俺は……正直、君には智恵理は相応しくないと思ってたんだ。でも俺なら絶対に智恵理を笑顔にすることができる」


 鹿野先輩が言っていることは僕も前々から感じていたことだった。僕は智恵理と一緒にいるだけで幸せだった。

 だけど……智恵理はそうではなかった。だから、一緒にいてもつまらないって言われたんだと思う。

 僕は……智恵理に相応しくない。


「頼む高宮、智恵理と別れてくれ」


 鹿野先輩が頭を下げる。

 この人なら、こんなにも智恵理のことを考えてくれているこの人なら、僕よりも智恵理を幸せにできると思う。


「……わかり……ました」


 僕は鹿野先輩の頼みを受け入れた。


「ありがとう……高宮」


 鹿野先輩は顔を上げる。鹿野先輩の顔を見てみると、目に涙を溜めていた。ああ……この人は本気なんだ。本気で智恵理のことを大切に想っているんだ。

 その後、鹿野先輩は教室に戻って行った。僕も少し時間が経ってから教室へ戻った。



 ◆



 教室に戻って席に着くと、及川さんが読書を止めて話しかけてきた。


「鹿野先輩と何を話してたの?」


 どうやら鹿野先輩と一緒にいたところを見られていたらしい。別に及川さんに隠すこともないだろうと思い、僕は渡り廊下での出来事を簡潔に話す。


「えっと……智恵理と別れてくれって言われたよ」

「……理由は?」

「僕じゃ智恵理に相応しくないからだって……正論だよね」

「……何様のつもりなのかしら」


 理由を聞いて及川さんは腹を立てているようだった。でもそれも一瞬で、すぐにいつもの及川さんに戻る。


「それで、高宮君はどうするの?」

「……今日の放課後に智恵理に別れようって言おうと思う」

「そう……」


 そう一言放つと及川さんは黙り込んだ。僕と及川さんとの間に沈黙が生じる。

 僕の表情が暗いばっかりに場の空気まで悪くしてしまった。このままではいけないと思ったので話を変える。


「だ、だから及川さん、今日は先に帰ってていいよ」

「いいえ。正門の前で待ってるわ」


 何時までかかるかわからないから、及川さんには先に帰ってもらった方がいいかなと思って提案したのだが及川さんは迷うことなく断ってきた。


「で、でも遅くなるかもよ」

「構わないわ。たとえ何十分だろうが、何時間だろうが私は待つわ。それとも高宮君は私と帰るのが嫌なのかしら。だとしたら――」

「わ、わかったよ。じゃあ正門で待ってて」


 及川さんの有無も言わさぬ迫力に思わずたじろいでしまった。



 ◆



 午前の授業も終わり昼休みになったので、智恵理に今日会えるどうか確認するために電話をすることにした。

 プ、プ、プ……プルッガチャ。

 は、早い。一回目のコールが終わらないうちに智恵理が電話に出る。あまりの速さに少し驚いてしまった。


『もしもし、秋人! 何、どうしたの? 秋人から電話してくれるなんて珍しいね! 私嬉しいよ。それで、どうしたの? 私に何か用があるの? 何でも言って?』


 智恵理の声が大きくて携帯を耳から離してしまう。

 いけないいけない。少しびびってしまった。気を取り直して、もう一度携帯を耳に当てる。


「ちょっと今日の放課後、話したいことがあるから会え――」

『大丈夫だよ! どこで会う?』

「えっと……じゃあ三階の渡り廊下でいい?」

『うんっ! 絶対に行くからね! 何があっても絶っっっ対に行くから!』

「う、うん。じゃあよろしくね」

『うん! じゃあ放課後ね』


 なんか久しぶりに智恵理とまともに話をした気がする。鹿野先輩は元気がないとか言っていたけど、そうには思えないな。むしろ元気すぎる気がする……。

 とりあえず智恵理との約束をとることに成功した。あとは……智恵理に伝えるだけだ。なんて伝えよう。

 この時の僕は鹿野先輩が言っていた変化にはまったく気がつかなかった。



 ◆



 放課後になって僕が渡り廊下に着いた時には、すでに智恵理が先に待っていた。智恵理は僕が来たことに気が付くと笑顔で迎える。


「もう、遅いよ秋人。待ちくたびれたよ」


 僕もホームルームが終わってすぐに来たはずなのに智恵理はそれよりももっと早く来たんだけど。走って来たのかな?


「ご、ごめんね」

「ふふ、いいよ。許してあげる」


 その笑顔は僕が知っているいつもの智恵理の笑顔だ。そんなやり取りも終わり、智恵理が本題に踏み込んでくる。


「で、何かな? 話って」

「……うん」


 心臓の鼓動が速くなっているのがわかる。

 僕はずっと言わなければいけなかった言葉を口にした。


「智恵理……僕と……別れてくれないかな?」

「…………え」


 智恵理の顔が一瞬曇ったが、すぐに笑顔を浮かべる。でもさっきまでの笑顔よりぎこちない。


「も、もう。おもしろくないよ、その冗談。いくら秋人でも怒るよ」

「冗談じゃないんだ」


 僕の言葉を聞くと智恵理から完全に笑顔が消える。


「な、なんで……。なんで、なんでなんでなんでなんでなんで、なんで! 納得できない! ど、どうして? り、理由は? 私、何か悪いことしたかな? も、もし何か悪いことだったら、それ教えて欲しいな? 私全部直すから、ね?」


 智恵理は明らかに取り乱していた。智恵理のこんな姿は今まで一度も見たことがない。どうしよう…………。いや、ここで動揺したらダメだ。僕はすぐに気持ちを立て直す。


「智恵理は何も悪くないよ。……ただ智恵理には僕よりも良い人がいると思うんだ」

「いないよそんな人! 秋人が一番だよ」


 大声で反論をしてくる智恵理。今までに聞いたことないくらいの大きさだ。


「それに僕じゃ……智恵理を笑顔にすることができないよ」

「そんなことないよ!」

「今まで本当にありがとう。……楽しかったよ」

「い、いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだっ! 絶対にいや!」


 智恵理の顔を見ると、目に涙を溜めていた。


「それじゃ……またね」


 渡り廊下から去るために僕が後ろを向くと智恵理はついに泣き始める。


「ま、待って! い、いやだ。秋人、お願いだから。い、行かないで。ねえ、ねえってば!」


 ここで振り向いたら決心が揺らいでしまうと思い、僕はそのまま渡り廊下を去って行った。



 ◆



 後ろめたさを感じながら、及川さんが待っている正門に到着する。及川さんは立ちながら本を読んでいた。


「ごめん……おまたせ」


 声をかけると、及川さんは顔を上げる。


「あら。意外と早かったのね」


 及川さんは読んでいた本に栞を挟みパタンと閉じると、鞄にしまう。


「そう……かな」

「ええ、もっと遅いかと思ったわ」

「はは……」

「じゃ、帰りましょうか」

「……うん……そうだね」


 僕は及川さんといつものように一緒に下校した。



 ◆



 いつもは会話が弾む及川さんとの下校も今日は何も話さないまましばらく歩いていた。

 今の僕は智恵理のことで頭がいっぱいだったから。

 本当にあの別れ方は正しかったのか。もう少し良い言い方があったんじゃないのか。せめて泣き止むまで付き添ってあげるべきじゃなかったのか。


「ねえ、高宮君」

「…………えっ、ごめん。な、何?」

「高宮君は……今でも春瀬さんのことが好きなの?」

「えっ……」

「どうなの?」


 僕はその場に立ち止まる。及川さんも僕に合わせて立ち止まってくれた。

 正直……まだわからない。

 智恵理の浮気を見て、鹿野先輩に言われて踏ん切りをつけたはずなのに、智恵理のあの姿を見たら決心が揺れ動いていてしまっている。

 けど、僕は……僕は……。


「…………ううん。もう、好きじゃないよ」


 うん。僕はもう……智恵理のことは好きじゃない。


「そう……。なら高宮君は今、フリーで誰とも付き合ってはいないのね?」

「……へ? あ、うん。そうだね」


 思いがけない質問に変な声を出してしまった。


「高宮君」

「は、はい」


 及川さんを見ると、とても真剣な顔をしていた。及川さんは大きく深呼吸を一つして、真っ直ぐ僕の顔を見つめる。


「私と……付き合ってちょうだい」


 及川さんの頬がほのかに赤くなっていた。肌が白い分赤くなると、とても目立つ。


「えっと……なんで僕……なの?」


 突然の告白に頭がまともに働かない。及川さんは一呼吸置くと、いつもの調子に戻る。


「近くにいる内に好きになってしまった……ではダメかしら?」

「ダ、ダメじゃないけど……」

「それとも私じゃ嫌?」


 及川さんは僕にグイッと顔を近づけてきた。シャンプーと香水の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「い、嫌じゃ……ない」

「じゃあ付き合ってくれる?」


 ち、近い。及川さんと僕は鼻がくっ付きそうなくらい近づいている。ちょっとでも動いたらキスしてしまいそうな距離だ。


「……う、うん。その……ぼ、僕で良ければ」

「ありがとう。すごく嬉しいわ」


 その後、及川さんと数秒見つめ合った。及川さんの目はずっと見ていたら吸い込まれるのではないかと思うほど綺麗だった。


「じゃあ今日から私たち恋人ね」


 僕の耳元で及川さんが囁く。耳に及川さんの息が当たってくすぐったいと感じると同時に、恥ずかしくて顔が沸騰したやかんみたいに熱くなっていくのがわかる。


「う、うん。えっと、改めてよろしく及川さん」


 お辞儀をして顔を上げると、及川さんは少しムスッとした表情をしていた。


「私たちもう恋人なのだから、及川さんは少し他人行儀だわ。例えばそうね……ふゆみん、なんかどうかしら?」


 ふ、ふゆみんって。いきなりぶっ飛びすぎだと思うな。


「そ、それはちょっと……。冬美さんじゃダメ?」

「……まあ今はそれでよしとするわ。君」


 こうして僕と及……ふ、冬美さんは付き合うことになった。



 ◆



 昨日は色々ありすぎてあまり寝られなかった。でも目覚めは今までより全然よかった。起きてから改めて実感する。

 冬美さんと僕……付き合い始めたんだ。僕はいてもたってもいられず布団から飛び出た。早く冬美さんに会いたくて、いつもより早く家を出た。

 学校に着くとまだ人の気配がない。さすがに一番だろうなと思いながら教室に入る。

 でも自信があった予想は外れて二番目だった。僕より先に教室にいたのは、僕のクラスメイトではなかった。


「待ってたよ……秋人」


 隣のクラスのはずである智恵理だった。


「えっと、なんでここにいるの? 智恵理のクラスは隣だよ?」

 一瞬教室を間違えたかと思い、教室を確認する。


「知ってるよ、そんなこと。私がここにいるのは秋人に聞きたいことがあったから」

「き、聞きたいこと?」


 な、なんだろう? こんな朝早くから待ってまで聞きたいことって?


「私のどこがダメだったの?」


 智恵理はいつもの可愛らしい笑顔で小首を傾げる。智恵理の聞きたいこととは昨日のことについてだった。僕は智恵理を傷つけないように言葉を慎重に選んだ。


「……昨日も言ったけど、智恵理はどこもダメなんかじゃないよ。僕が智恵理を笑顔に――」

「違うっ!」


 智恵理の声が二人しかいない教室に響き渡る。


「あのね秋人? 私が聞きたいのは、私のどこがダメだったのかだよ? 秋人のダメなところなんて聞いてない」


 話している途中から智恵理の目の光が心なしかなくなっているように見える。


「智恵理はどこも悪くないよ」

「ならさ……おかしいよね? じゃあなんで秋人は私と別れたいと思ったの?」

「それは……」


 僕が言い淀んでいると智恵理が近づいて来た。


「理由がないならさ、もう一度やり直そ、ね? 私ね、秋人がして欲しいことぜ~んぶしてあげる。料理だって、デートだって、エッチなことだって……。だからね秋人、もう一度やり直そ?」


 小さく柔らかい手で僕の両手を強く握る智恵理。もし僕が一人だったら揺らいでいたかもしれない。でも今僕は一人じゃない。僕には冬美さんがいる。なので智恵理からどんなことを言われても僕の心は変わらない。


「それは……無理だよ」

「ん? ごめんね。良く聞こえなかったことにするからもう一回言って?」

「それは無理だと言ったのよ」


 教室の前のドアからよく知っている声が聞こえた。


「ふ、冬美さん」

「申し訳ないんだけどさ、邪魔しないでもらえるかな? 私たち大事な話をしてるから」


 冬美さんを見た途端、智恵理は明らかに不機嫌なり冬美さんを鋭く睨む。けれど冬美さんはまったく動じていない。


「あらごめんなさい。でもあまり私の彼氏を困らせないで」


 冬美さんの彼氏という言葉を聞いた瞬間、智恵理の表情が一変した。


「ふふ……ふふふ……あはははははははははははは……あー、面白い冗談だね及川さん。お笑いのセンスあるよ」


 智恵理は腹を抱えている。それでも冬美さんは表情を崩さない。


「本当のことよ」

「ほら、秋人もなんか言ってあげてよ」


 笑いながら僕の肩を叩く智恵理。智恵理の顔を見ることができず、俯きながら答える。


「……本当なんだ。僕と冬美さんは付き合ってる」

「ははは、もう秋人までそんなこと言うの? やめてよ面白くないよ」

「春瀬さんこれは冗談では――」

「うっさい! あんたは黙ってろ!」


 教室中に響くほど声を荒げる智恵理には目もくれず冬美さんは構わず続ける。


「いいえ黙らないわ。大体あなたは自分勝手すぎるわ。あなたのせいで秋人君がどれだけ傷ついたと思っているの」

「はあ? 私が秋人に何したっていうの?」

「あなた浮気してるでしょ? 鹿野先輩と」


 さっきまで声を荒げていた智恵理が急に黙り込んだ。


「……してない」


 近くにいても聞き取れるかわからないくらい智恵理の声は小さい。


「……鹿野先輩本人があなたと付き合っていると言っているのに? それにあなた、鹿野先輩とデート中に秋人君の悪口も言ったそうね。つまらないだとか」

「……言ってない」


 本当のことを言わない智恵理に冬美さんは呆れているようだった。


「はあ……そうやって嘘を言い続ければいいわ。そしてこれは個人的なお願いなのだけれど、できればこれからは私たちには関わらないで。不愉快だから」

「……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ! 先輩とは付き合ってないし、秋人の悪口も言ってない! ねえ信じて秋人!」


 泣きながら僕の両手を握る智恵理。智恵理の顔はもう一押ししたら崩れそうな表情だ。もしここで智恵理に手を差し伸べてしまったら、僕は何も前進していないことになると思う。

 ……それはダメだ。僕はもう決めたんだから。


「ごめん……僕はもう智恵理のこと信じられない」


 智恵理の手をそっと離すと、膝から崩れ落ちた。


「……………………」

「もうそろそろ自分のクラスに帰ったら?」


 冬美さんの言葉がとどめになったのか智恵理は何も言わず立ち上がり、おぼつかない足取りで自分のクラスに帰って行った。

 智恵理が帰った後も僕はすぐにはその場から動けなかった。でも冬美さんはまるで何事もなかったようにいつも通りの表情をしている。


「さ、席に着きましょ秋人君」

「……うん」


 自分の席に座って、全然眠くなかったけど机に突っ伏した。



 □



 あっという間に授業が終わり、みんなが教室からいなくなっても、私は席に座ったままだった。誰もいない教室で何故だかわからないけど、昔のことを少しだけ思い出していた。

 私は小さい頃から人形が好きだった。集めた人形は全部、自分の部屋に飾ってある。全部可愛らしくて大切な人形たちだ。そして私は高校に入学して出会ってしまった。

 とても可愛らしい人形に……。

 その人形は他の人形と違って動いたり、会話をしたりする。そして色々な表情をするのだ。どの表情も可愛らしいが、中でも一番笑顔が可愛らしい。あの笑顔を見るだけで体の内側が熱くなってくる。

 私は何としてもこの人形を手に入れたいと思った。

 でもこの人形はお金じゃ買えない。ちゃんと過程を踏まなきゃいけない。慌てず、ゆっくり、さりげなく距離を縮めていった。

 そして私は告白を機に、ようやく手に入れた。元々可愛かったけど、手に入れてからは一層可愛らしくなった。

 でも手に入れてから数か月が経つと、少し退屈になってしまった。手に入れるまでの過程が楽し過ぎたからだと思う。

 そんな時に現れたのが、鹿野先輩だった。先輩は私が知らなかった楽しさを色々と教えてくれた。私は人形より先輩と一緒にいる方を優先してしまった。人形には嘘をついて騙し続けた。人形は疑うこともなく全部信じてくれた。

 でもあの女、及川冬美が来てから人形が変わり始めた。

 いつも私を優先してくれていたのに、あの女を優先するようになっていった。さらに私には冷たく接するようになってきたのだ。私はそれが嫌で嫌でたまらなかった。気が付けば先輩のことなど眼中になくなり、人形のことだけで頭がいっぱいになっていた。

 昨日人形が私と別れたいと言ってきた。人形が手元から離れた時、私の心の中で何かが壊れる音が聞こえた気がした。

 考えて、考えて、考えて、ある一つの答えに辿り着いた。


「……そうだ。消せばいいんだ。そうじゃん、消せばいいんだよあの女を。それで秋人ともう一回……ううん。やっぱり秋人は私の家に飾ろう。それでぜ~んぶ、私がお世話をしてあげよ。食事もお風呂もトイレも……全部。あと私が家にいる時は着せ替えとかしたり……あ~可愛いんだろうな。……うん、そうしよう」


 こうしちゃいられない。早く準備しないと……。私は席を立ち、足早に教室を出た。


「待っててね……秋人」



 ◆



「話がしたいんだけど……いいかな?」


 急いで色々な準備がしたいのに早速出鼻をくじかれた。正門で足止めを食らったのだ。

 鹿野先輩だ。どうやらずっと正門で私のことを待っていたらしい。キモッ、ストーカーかよ。


「何ですか? 私急いでいるんですけど」

「すぐに終わるから、頼む」


 そう言って先輩は頭を下げた。


「…………わかりました」

「ありがとう。ここでは言いにくいから、あそこの公園に行ってもいいかい?」

「……はあ」


 めんどくさい。ここじゃダメなのかよ。

 そんな事を口に出して話がこじれるのも嫌なので大人しくついていくことにした。



 ◆



 学校の近くにはそこそこ大きい公園がある。色々な年代の人が使う場所だ。今はもう日も暮れて暗いので人が見当たらない。


「それで、話って何ですか?」


 内心イライラしていた。こんなところで時間を割いている場合じゃないのに。早く準備をしないといけないのに。


「……単刀直入に聞くけど、智恵理は俺のことどう思ってる?」

「先輩のことですか? そうですね……」


 先輩の顔を見ると緊張した面持ちで私の答えを待っている。


「大嫌いです」

「なっ……」


 私の言葉に先輩は驚いているようだ。


「……どこが……嫌いなんだ」


 顔を俯きながら先輩は必死に言葉を絞り出す。


「全部です。先輩のせいで……私、振られたんですよ。とても大切なモノが奪われた気持ちが、先輩にはわかりますか?」

「…………ごめん。悔しいけど俺にはその気持ちはわかることができない。だけど……俺がその智恵理の悲しい気持ちの何倍……いや、何十倍も幸せにしてやるから! だから……」


 言葉を発しながら私に近づいてくると、先輩は私の肩に両手を乗せてきた。


「触るなっ!」


 反射的に先輩の手を肩から払い退ける。


「ち、智恵理?」


 先輩は何が起こったのかわからないのか茫然としている。


「……気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ! いいか、私に触れていいのは秋人だけだ!」


 汚い汚い汚い。触れられた。肩にこいつの匂いが、菌が付いてしまった。早く帰って消毒しないと。秋人のための体がけがれてしまう。


「……智恵理」

「もういいですか? それじゃ私、急いでるので帰りますね。さよなら」


 その場から去ろうと先輩に背を向けて数歩歩いた時、先輩に呼び止められる。


「ま、待ってくれ。まだ言いたいことがあるんだ」


 私の方に先輩が近づいてくる足音が聞こえる。


「あ~そうそう。言い忘れていたんですけど、もし今度また秋人に余計なこと言ったら……」


 私は振り向いて笑顔で伝えてあげた。


のこと………………殺すから」


 あいつのせいで時間が……。私は急いで家に帰り明日のための準備をした。



 □



 次の日の朝、上履きを取り出そうと下駄箱を開けると、一通の広げられた手紙が入っていた。驚きながらも手紙に目を通す。


 〝今日の放課後、伝えたいことがありますので、三階の渡り廊下まで一人で来てください。〟


 差出人の名前は書いてなかったので誰からなのかわからない。でも無視するわけにもいかないので、放課後行くことに決めた。

 と、とりあえず手紙を鞄にしまって上履きに履き替えよう。



 ◆



 放課後になり案の定、冬美さんに一緒に下校しようと誘われた。


「ごめん冬美さん。今日は一緒に帰れないんだ」


 僕は顔の前で手を合わせる。冬美さんの顔をチラッと見てみると眉が少し動いていた。いけない、これは怒っている時の顔だ。


「どうしてかしら? 彼女との下校より大切な用事でもあるのかしら?」

「え~と……ちょっと先生に呼び出されて」

「……本当に?」

「ほ、本当だよ」


 冬美さんが僕の目をじっと見つめる。ここで目を逸らしたら嘘だとばれてしまう気がしたので僕も冬美さんの目を見続ける。数秒して冬美さんは小さなため息をついた。


「そう……わかったわ。でも明日は絶対一緒に帰るわよ。約束ね、秋人君?」

「も、もちろんだよ。約束する」


 正直、ずっと待ってるからとか言われると思っていた。よかった、すぐに納得してくれて。冬美さんが教室を出て行った後、僕は手紙に書かれていた三階の渡り廊下に向かった。



 ◆

 



 渡り廊下に到着すると、まだ誰もいなかった。


「……寒い」


 風が吹いていて、少し肌寒い。あんまり急ぐ必要はなかったと少し後悔をする。そう思っていると手紙の主がやって来た。


「ごめんね、待たせちゃって」


 やって来たのは、僕がよく知っている人物だった。


「そっか……この手紙、智恵理だったんだね」

「うんそうだよ。どうしても最後に言っておきたいことあったから」


 智恵理の目の下には隈が目立っている。昨日眠れなかったのかと思うと申し訳ない気持ちになる。


「なんで手紙で呼び出したの? 電話やメールでもよかったのに」

「……秋人が私だってわかったら、来てくれないと思ったから」


 俯きながら智恵理はぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で答える。


「そ、そんなことしないよ。絶対行くよ」

「ふふ。やっぱり秋人は優しいなあ」


 少し笑ったあと智恵理は顔を上げる。


「それで話って何?」

「あのね……一緒について来て欲しい場所があるの」

「えっと、それってどこかな?」

「それは……秘密。ね、お願い。これで最後だから」


 僕の両手を握って顔を見つめる智恵理。智恵理の手は微かに震えている。……しょうがない。これで最後なら。


「……わかった。でもこれで最後だよ」

「あ、ありがとう。本当にありがとう」


 相当嬉しかったのか、智恵理は僕の手を強く握る。


「それじゃ行こうか、案内してくれる?」

「うんっ!」


 可愛らしい笑顔で智恵理は返事をした。



 ◆



 学校を出てから二十分くらい経ったが智恵理とは何か話すわけでもなく、黙々と目的の場所まで向かっている。その道中、少し不思議に思うことがあった。

 今まで通ってきた道が人気ひとけの少ない場所ばかりなのだ。道が間違っているんじゃないかと思って何度か智恵理の方を見たけど、智恵理は平然としているから、ただ後をついて行くことしか出来ない。


「こっちだよ」


 智恵理が右に曲がって行ったので離れないように足早になる。また人気の少ない場所だ……。さすがにどこに行くのかが気になる。


「ねえ智恵理。もうそろそろどこに行くのか教えてくれない?」


 智恵理は歩いていた足を止めた。僕も少し距離を空けて足を止める。


「秋人の家だよ」

「え……」


 智恵理の言葉に困惑する。だって僕の家は今進んでいる反対の方向にあるからだ。


「えっと……僕の家は真逆だよ」


 僕は体が向いている方とは逆にある家の方角を指差す。


「あはは。も~違うよ、秋人の家は今日からこっち」


 智恵理が何を言っているのか僕にはまったくわからない。


「だって、こっちにあるのって確か……智恵理の家だよね?」

「そうだよ。今日から秋人も一緒に住むんだよ」

「な、なんで僕が智恵理の家に住むの?」

「ん? だって秋人は私のかわいいかわいい……お人形さんなんだから」


 恍惚とした表情で智恵理は答える。


「い、嫌だよそんなの。それに僕は人形なんかじゃない」

「へえ…………そんなこと言うんだ」


 おもむろに智恵理が鞄をあさり始め、何かを取り出した。それは折り畳み式のナイフだった。それを見た瞬間、背筋が凍った。


「私もなるべく秋人を傷つけたくないけど、言うこと聞いてくれないなら……仕方ないよね」

「ひっ……」

「ああ~もう。そんな顔しないでよ秋人。……ゾクゾクして手元が狂っちゃいそう」


 智恵理は僕にナイフの先を向けてゆっくり近づいて来る。早く逃げ出したかったが、足がまったくいうことを聞いてくれない。

 お願い……誰か……助けて。


「待ちなさい」


 その声を聞いて反射的に振り向く。そこにいたのは僕の彼女である、冬美さんだった。冬美さんは僕たちの方へ歩いてくる。


「あんた……どうしてここにいるの?」


 冬美さんが現れたことに智恵理は少し驚いている。


「あなたに教える必要はないわ。それより何をしているの? そんな物騒な物を持って」


 冬美さんは智恵理が持っているナイフを見る。智恵理はナイフの先を冬美さんの方へ向ける。


「あんたには関係ないわ。さっさと家にでも帰ったら」

「それはできないわ。だって、私の大切な彼氏が脅されているんですもの」


 冬美さんの言葉からは怒りが窺える。智恵理は冬美さんの言ったことが気に入らなかったらしく声を荒げた。


「違う! 秋人は私のモノなの、あんたには渡さない!」

「……秋人君はモノではないわ」


 二人の間には重い空気が張りつめる。そんな中、冬美さんは何故か腕時計をチラッと見た。


「……そろそろかしら」

「はあ? 何言って――」


 智恵理が言い終わる前に冬美さんは智恵理に向かって走り出した。智恵理は冬美さんの行動に虚を突かれたらしく、動作が遅れてしまった。冬美さんが智恵理の両腕を掴んだ。智恵理は振り払おうと必死に抵抗している。


「くっ、離せ!」

「秋人君、離れて!」

「…………あっ」


 慌てて僕は二人から離れようと、さっきまで動かなかった足をもつれさせながら必死に動かした。

 冬美さんは智恵理の手首を掴んで、ナイフを使わせないようにしている。冬美さんはとても辛そうな表情をしている。対して智恵理は武器を持っている分、表情に余裕がある。

 でもここから形勢が逆転する。

 近くからパトカーの音が聞こえてきたのだ。パトカーの音を聞き、智恵理が少し動揺する。そこを冬美さんは見逃さなかった。冬美さんは何故か智恵理のナイフで自分から左腕を切られにいった。そして切られた後、すぐさま走って智恵理から距離を取る。


「おい! 君たち何をしている」


 パトカーから降りてきた警察が僕たちに声をかけてきた。すると警察は智恵理が血の付いたナイフを持っていることに気が付いたように見えた。


「き、君! なんだそのナイフは!?」

「…………ちっ」


 警察を見ると智恵理は顔を歪ませ、ナイフを捨てて逃げ出した。


「あの人が私たちを襲ってきたんです! 捕まえてください!」


 冬美さんが左腕を抑えながら、大声で警察に伝える。


「わかった! 君たちはそこで待ってて! すぐに他の警察が来るから! おい、追うぞ!」

「はい!」


 二人の警察は逃げた智恵理を追って行った。

 数分後、連絡を受けた警察がやって来て冬美さんは病院へ、僕は事情徴収を受けた。




 □




 やっと害虫が消えてくれた。思ったよりしぶとかったので苦労した。まあでもいい働きをしてくれたから、ほんの少しだけ感謝することにする。

 ようやくだよ、秋人君。

 今日からずっと……一緒だよ。




 □




 今日は日曜日で町も平日より多くの人で賑わっている。

 あの出来事からもう二週間が経とうとしている。幸いにも冬美さんの怪我は大したことはなく、日常生活にも何ら支障はなかった。僕に至っては怪我もなく、事情徴収を受けただけで終わった。

 智恵理は今、病院にいる。結局あの後、智恵理は逃げ切ることができず警察に捕まった。その後検査してみると、精神に異常をきたしていたらしく入院して治療することになった。

 智恵理が退院したら、僕は謝りに行こうと思っている。そのことを冬美さんに伝えたら、渋い顔をされたけど好きにすればいいと言われた。

 それから何日か経った今日、冬美さんとデートの約束をしている。冬美さんがどうしても行きたい場所があるらしい。

 待ち合わせの場所に二十分前に着くと、すでに冬美さんが待っていて、いつも通り本を読んでいた。時間を間違えたのかと思い慌てて走る。


「ご、ごめんね。待たせちゃった?」


 冬美さんは僕に気づいて本をパタンと閉じると微笑んだ。


「大丈夫よ。だってまだ約束の時間でもないし」

「よかった。えっと、それで今日ってどこに行くの?」

「今日は私の家に来て欲しいの」

「ふ、冬美さんの家に?」


 思いがけない言葉に声が上擦ってしまった。


「ええそうよ。嫌とは言わせないわよ」


 全然嫌じゃない。むしろ行ってみたい。


「ぜ、全然嫌じゃないよ。嬉しいよ」

「ふふ、じゃあ行きましょうか」


 冬美さんが僕の前に手を出したので僕はその手を握り、僕たちは歩き出した。



 ◆



 僕たちは他愛もない会話で盛り上がった。冬美さんの家は歩いて二十分くらいだったが、好きな人との時間はあっという間に過ぎる。この時間は本当に幸せで心が満たされる。

 冬美さんの家に到着すると、家の大きさに驚いてしまった。一軒家の二階建てで一般的な家よりはるかに大きい。


「さあ、入って」

「お、お邪魔します」

「こっちよ秋人君」


 冬美さんの案内で二階の階段を上り、数ある部屋の中で一つの部屋の前で立ち止まる。


「ここが私の部屋よ」

「し、失礼します」


 部屋の中はとてもさっぱりしていた。勉強机、タンス、ベッド、本棚、部屋の中央に白くて小さな丸い机がある。


「中で自由にくつろいでて。飲み物を持ってくるから」

「あ、僕も手伝うよ」

「ありがとう、でも大丈夫よ。一人でできるわ。それに秋人君はお客さんだもの。ゆっくりしていいのよ」

「わかったよ。じゃあお願いします」


 冬美さんがいなくなった後、どうしたらいいのかわからなかったので、とりあえず座って待つことにした。

 ソワソワして待っていると、冬美さんが紅茶とクッキーを持って帰ってきた。紅茶とクッキーの甘い香りが部屋を包む。


「おまたせ。紅茶は飲めたかしら?」

「うん。大丈夫だよ」

「よかったわ。この紅茶、とても良い茶葉を使っている紅茶なの。飲んでみて」

「それじゃ、いただきます」


 まだ湯気が少し出ている紅茶を飲む。

 ……やっぱりいい茶葉だからなのかな? 僕が飲んだことがある紅茶とは味が違う。


「……どうかしら?」

「うん、おいしいよ。クッキーももらっていい?」

「ええ。このクッキー私が焼いたのよ。味には自信があるわ」

 店に並んでいてもおかしくないほど焼き色と形が綺麗なクッキーがお皿にたくさん並べられていた。

「そうなの。じゃあいただきます」


 一口クッキーを口に入れる。サクサクと心地よい音とほのかにバニラの香りが口いっぱいに広がる。


「とてもおいしいよ冬美さん」

「嬉しい。秋人君にそう言ってもらえただけで頑張って作った甲斐があったわ。遠慮せずに食べて」

「これならいくらでも食べれちゃうよ」

「紅茶もたくさんあるから、なくなったら言ってちょうだい」

「うん。ありがとう」


 この後、紅茶を三杯とクッキーをお腹いっぱい食べてしまった。



 ◆



 冬美さんの部屋でおしゃべりをしてもう二時間が経っていた。好きな人といるとあっという間に時間が進んでいく。


「冬美さんのご両親は何をしているの? 今日は家にいないみたいだけど」


 何気ない会話の流れから冬美さんの両親の話になった。


「……父も母も海外で仕事をしているわ」

「何の仕事をしているの?」

「さあ。あまりあの人たちとは話さないから。二人とも仕事が大好きだから、滅多に日本のこの家には帰ってこないし」

「そうなんだ……じゃあ冬美さんはなんで日本に?」

「海外あっちは退屈だったから。……それに約束したから」

「……約束?」

「ええそうよ。……大丈夫、秋人君? すごく眠そうよ?」

「う、うん大丈夫だよ。ごめんね続けて」


 僕は目を手で擦する。なんでかわからないけど少し前から、瞼が重くなってきて頭も回らなくなってきた。

 ……おかしいな。昨日はよく寝たはずなのに……。冬美さんが話を続ける。


「それはね、私が小さかった頃にある男の子と約束したの。必ずまた会おう、そしてずっと一緒にいようって……」

「……そう……なんだ」


 眠たくて冬美さんの話がまったく頭に入って来ない。瞼も上がらなくなってきた。


「秋人君、少し横になる?」

「……ごめんね……そうさせて……もら……」


 僕の意識はここでなくなった。


「おやすみなさい、秋人君。これからはずっと一緒よ。絶対に離さないから」



 ◆



 私には忘れられない思い出がある。

 私が六歳の時、家で勉強をしていたのだが退屈だったので親に黙って公園へ遊びに行っていた。そんなある日、いつものように公園に行くと一人の女の子が何人かの男の子に囲まれ、いじめられていた。ああいう屑が大嫌いだった私はいじめっ子を少しだけ懲らしめてやると大泣きして逃げて行った。

 いじめっ子を追い返した後、うずくまって泣いている女の子に声をかけた。


「大丈夫?」


 私の声に反応して女の子は顔を上げた。泣いていて目が赤くなっていたが、その顔はとても可愛らしい。


「ぐすっ……あ、ありがとう」

「ひどいわね。女の子を寄って集たかっていじめるなんて」

「え? え、えっと……僕、男だよ」


 赤くなった目を擦りながらその子は答えた。性別を聞いてもいまだに信じられない。でも、本人が嘘を言っているように見えない。


「そうなの。……ごめんなさい。その、あまりにも可愛らしいから間違えてしまったわ」

「……はは。ううん、大丈夫。よく間違えられるから」


 私の間違いを彼は笑って許してくれた。その笑顔は今まで見てきたモノの中で一番可愛かった。

 これが私と彼との初めての出会いだった。

 それから私と彼はよく遊ぶようになった。彼と一緒にいる時間はとても楽しく、あっという間に過ぎていった。

 でも突然、別れの日がやってきた。私の両親が海外に行くことになったのだ。もちろん、私も一緒に。この時は両親を心の底から恨んだ。というよりまだ恨んでいる。

 翌日、海外に行くことを彼に伝えると、彼の目から大粒の涙が零れた。


「ぐすっ……も、もう……あ、会え、ないの?」


 その言葉を聞いて私は決心し、ぎゅっと彼の小さな両手を握った。


「…………いいえ。必ずまた会えるわ。だから泣かないで」

「ほ、ほんとに?」

「ええ。……だから約束して。何年かかっても、誰に邪魔されようとも私は必ず貴方のために日本に帰って来るから、その時は私とずっと一緒にいてくれるって」

「う、うん。約束するよ」


 十年後、私は彼との約束を果たすために日本へ帰ってきた。

 私が一人で日本に行くのを両親は何か言っていた気がするが、仕事しか取り柄のない人たちのことなんてどうでもいい。

 私には彼さえいればそれでいい。この日のために、ちゃんと彼のいる高校も調べた。

 早く彼に会いたい。彼と色々なことがしたい。一緒に買い物に行ったり、一緒に勉強したり、一緒に遊園地に行ったり、それから……。

 ふふ、やっと……ずっと一緒にいられる。

 もうすぐだから……待っててね。




 終

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自分の手元に置いておきたいモノ ハイブリッジ @highbridge

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