第21話 竜の記憶

 そうだ。あれは、確か父さんと母さんの竜、どちらもが出かけていた秋の日のことだった。


「兄さん、また出かけるの?」


 いつも暮らしている高い山の洞窟の中から、外を見ていた俺は、やっと考えを纏めると立ち上がった。側にあった俺の体温がなくなったことに気がついたアーシャルが、丸めるように体にいれていた長い首を持ち上げる。


「ああ、ちょっとだけ出かけてくる」


「僕も行くよ」


 長い首を持ち上げて、洞窟に敷かれていた山のようなクッションの中から体を起こそうとしている。だけどふらつく足に俺は、長い首を伸ばして優しく止めた。


「大丈夫。ちょっと水浴びをしてくるだけだ。体が汚れていたら、母さんにまた熱い温泉に連れて行かれるからな」


 ――どうにも、あれは煮られているようで好きになれない。


「兄さん、水竜のくせに温泉が苦手っておかしくない?」


「俺は、冷たい水が好きなの! 煮魚は食べても、自分がなるのは好みじゃない!」


「いやあ、竜なのに煮魚の気分を味わえるのは、貴重だと思うけれど……」


 だが俺に苦笑するアーシャルの前足はまだ少し腫れている。


 昨日、一緒に遊びに行った森で、突然茂みから現われた人間に矢を射かけられたのだ。竜の鱗のお蔭で、矢そのものは弾いたが、驚いた拍子にころんで挫いてしまった。


 人間も、何気なく歩いてきた茂みの向こうにいた竜に驚いたのだろう。茶色の瞳は大きく開き、殺意というよりも身を守るために必死に矢を射たという感じだった。


 ――だけど、それでもう少しで大怪我をするところだった。


 飛んできた矢に驚いて大岩につまずいたのは仕方がない。竜の鱗は、やじりぐらいは跳ね返すが、万が一にでも当たり所が悪く、アーシャルのよく見えていない目に刺さったら大変なことになっていた。


 ――今は、光や朧な輪郭ぐらいはわかるみたいなのに……


  顔が触れるぐらい近づいたら、どうにか俺の姿も見えているらしい。だけど、眼球が瞑れてしまっては、完全に闇の世界に一匹で取り残されてしまう。


 ――二度とこんなことがないように、なんとか、アーシャルの目を治す方法はないだろうか……


 見えていたら、俺が気がついたときに、アーシャルも人間の存在に気づいて、違う対処ができていただろうに。アーシャルの目のことは、父さんも母さんも昔から方々の知り合いに相談しているようだが、今のところどこからも芳しい話は返ってこない。


 ぐっと拳を握り締めた。


 ――やっぱり、あのマームのところをもう一度訪ねるしかないか……


 変態だから、できたら頼み事はしたくないが。


 しかし変なこだわりももっていられない。俺は、昨日俺の恫喝で逃げ出した男の姿を思い出しながら、自分の心に決着をつけた。そして、アーシャルの側から立ち上がる。


「じゃあ、行ってくる」


「すぐに帰ってきてよ?」


「ああ――」


 笑いながら、尻尾の先端でアーシャルの鼻を撫でた。いつも出かける前にする俺の仕草だ。それにアーシャルが安心したように、俺の尻尾に顔をこすりつけてくる。


 いつ見ても、こっちまで幸せになるような笑顔だ。


「お前も、手がまだ腫れているんだ。勝手に出歩かないようにな? もうすぐ母さん達も帰ってくるだろうし」


「兄さん、どうしても温泉には連れて行かれたくないんだね?」


「あれに入れられるぐらいなら、流氷の寒中水泳の方がましだ!」


 アーシャルの苦笑に叫ぶと、ばっと青い翼を広げて、秋の空へと飛び上がる。


 上空に流れる風は少し冷たいが、それでも水竜の俺にとっては、熱い水や日差しに比べたら何倍も気持ちがよいものだ。


 ――さてと。


 何とか、アーシャルに気づかれずに出かけることができた。


 マームのところなら、迷宮破壊の遊びをさせてやるのに連れて行ってもいいのだが、さすがに今日それをやると絶対に教えてくれないだろうし。


 ――まったく。趣味が悪いくせに、物知りなんて厄介な。


 だけど、知り合いの魔女に訊いても、治療薬やその関係者について一番詳しいのは、やはりあのマームだと言っていた。


 ――でも、彼女の薬は、アーシャルには効かなかったしな……


 本当に、治すことなんてできるのだろうか。


 ――でも、このままじゃあアーシャルは大人になっても目が見えない。


 俺が尻尾を掴ませて、一緒に飛んでやれる間はなんとかなるだろう。


 だけど、そんなことがいつまでできるのか――


 成竜になって、いつかは恋もするだろう。自分で行きたい所だって、できるのに違いない。


 何よりも竜ならば――己の翼で自由に世界を飛び回ってみたいはずだ。


 ――だから。


 俺は藁にも縋るような気持ちで翼を広げると、たった一つの可能性であるマームのところへと向かった。




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