第9話 あれ? そんなはずないのに


 階段に飛び込んだ弾みで頭を打ってしまったらしい。


 真暗な中で、目がちかちかする。


 すると、意識の奥に巨大な白い竜の像が見えた。


 ――なんだろう。


 そして、謝る俺の声。真暗な闇の中に落ちていくような感覚に、切れ切れに言葉が聞こえた。


『ごめん――遅くなるかもしれない』


 ――何を謝っているんだ?

 

「兄さん」


 耳のすぐ横から知っている声が呼びかけている。響いた声に、俺の意識は深く沈んでいた闇の中から引き戻された。うっすらと目を開ける。


 多分、気を失っていたのはほんの二、三秒だったのだろう。


 俺は、飛び込んだ勢いで、思い切り地面に押しつけたままになっている竜に気がついて、自分の腕の下に見つめた。


 そして、もう何の音もしない後ろの通路を見やり、竜をおさえていた腕を緩める。一息入れることもできないほどの間一髪たったが、あの骨の塊はどうにかかわせたようだ。


「大丈夫か? 怪我はないか?」


 まあ、あるとしたら間違いなく俺のせいだが。


 竜の姿なら数千の剣も跳ね返す鱗で覆われているが、さすがに人間の姿では少々強度が違うらしい。


「だいほほふ」


 鼻を押さえながら言っているせいで、はっきりしない。でも、どうやらたいしたことはないみたいだ。鼻を手で押さえて微笑んでいる様子は、俺が、ほんの少し意識が飛んでいたことにも気がついていないようだ。


「うん、だけど少し赤くなっているぞ? 痛くはないか」


「うん」


 赤い鼻をさすりながら答えると、竜はじっと俺の方を見つめてきた。そして、急ににこっと笑う。


「なんだよ、何か変なことを言ったか?」


「ううん。ただ迷宮に入ってからの兄さんの言葉が、初めてここに来た時とほとんど一緒だなあと思っただけ」


 ――俺の言葉が、こいつの兄と一緒?


 まさか――そんなのは偶然だと思うのに、なぜか立ち上がることを止めた体は違うことを訊いていた。


「竜。お前の兄が行方不明になったのはいつだ?」


「うーんと、もうすぐ十七年になるかなあ。だから十六年と十一カ月前かな」


 俺が十六になったばかり。


 母が父と一緒に逃げたのが確かそれぐらいだ。


 ――なんだ、この奇妙な符合。


 そんな筈はないのに。


 俺は産まれた時から人間で、母と父の子供な筈なのに。何か心にざらつくものを感じてしまう。


「それがどうかした?」


「いや――」


 けれど俺は、感じた違和感を心の奥に閉じ込めて、横に座る竜の方を振り返った。


「ここから出た後、探してやる手がかりになるかなと思っただけだ」


「ひどい! まだ僕の言うことを信じていないんだ!」


 ぷうっと子供のように頬を膨らませてしまう。だけどそんな筈はないと笑って心の奥にしまう。


「さっ、急ごう。そうでないとサリフォンに追いつかれる」


 膝についた砂と一緒に、今心に引っかかったことも笑って払いながら立ち上がった。そして、俺は脳裏に、後ろからやってくる現在の学年一位の嫌味な顔を思い出した。


 ――そういえば、サリフォンはこの罠をどうするんだろう。


 ここから見ても、あの壁の剣は竜の圧倒的な熱にやられて、まだ復活する様子がない。


 ――これなら、矢の雨ぐらいはすぐに突破されてしまう。


「急ごう!」


 時間の余裕はあまりないのかもしれない。だから俺は竜の手を握ると、そのまま山肌に作られた暗い廊下を一緒に駆け上った。


 急いで上った階段の上は、ほの暗かった一階よりも更に暗かった。


「竜! ここにある罠はどんなのだ?」


 こいつには先に訊いておかないといけない。そうでないと、また生死をかけたら思い出すかもと企まれてしまう。


 さすがに俺も学習したと、後ろにいる竜を振り返ったが、竜はあれと瞳を瞬かせている。


「んー知らない」


「は? お前この迷宮を何度も攻略したんじゃなかったのかよ!?」


「だって前に兄さんと攻略した時は、こんなに暗くなかったし。普通に下で炎が燃えているところを鉄の棒から落ちないようにして、迷路を攻略するだけだったし」


「ちょっと待て。お前、それをどうやって人間の俺に攻略させる気だった!?」


「んー飛ぶにはちょっと狭かったし、僕が抱っこしてあげようかなと思っていたんだけど」


「絶対に断る!」


 そんな竜の胸ですりすり攻撃される恐怖の図式しか思い浮かばない体験はしたくない。しかも予想だけでも、竜がこの上なく嬉しそうなのが嫌だ。


 すると急に俺の目の前で、竜の表情が固まった。


 赤い瞳をこれ以上ないほど大きく見開いて、俺の後ろに視線を定めると、そのまま体が固まってしまっている。


 動かない竜の様子を不審に思い、俺が左右に広がる暗闇を振り返ったときだった。


 先も見えないほどの闇の中から、鎧を身に纏った腐りかけの手が伸びてくると、不気味な呻き声が聞こえてくるではないか。


 それも一本や二本じゃない。


「ああああああー」


「うう――……」


 暗闇から地を這うような声が俺達に迫ってくる。それと同時に、腐った腕が俺達に伸ばされてくるのが見えた。


「ひいっ!」


 竜の方へと伸びた白骨を覗かせた腕を、瞬時に剣を抜いて叩き切る。


 あーとか、ううーと言葉にもならない苦痛に呻く声が俺達の周囲を包む。よく見れば、闇の中から眼窩の落ち窪んだゾンビの群れが、ぞろぞろと俺達に向かって這い出してくるではないか。


「へっ! これが二階の罠というわけか」


 ――面白いじゃないか。


 剣士試験。こうでないと。


 俺は手の中の剣を音をたてて構え、向かってくるゾンビの群れを見つめた。



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