穢多は難しいだろうが非人はもう少し差別的扱いから開放させたいもんだ

 さて、弾左衛門と俺で裁判で吉原、音楽堂での芝居を行うことについての争いは俺が勝訴した。


「まだ根本的には問題は解決してないんだけどな」


 穢多非人と呼ばれる中の穢多は、死んだ牛馬の解体やそれに伴う武具や太鼓、三味線などの革製品の加工・製造や灯心などの製造販売など特定の製造販売が主な役割だが、非人は何かを育てたり作ったりしない芸能や物乞いなどを行って生計を立てるものが多い。


 非人は寺によって管理される宗門人別改帳から名前を外された者たちのことで、本来は天神・鬼・阿修羅・夜叉・土蜘蛛など、人にあらざるものが人の姿形をかりて現れたものを表す仏教用語だったが、それが祀ろわぬもの、すなわち大和朝廷に服従しない人々をしめすようになった。


 やがて、大和朝廷に対しての明確な非服従集団が関東より西ではほぼ消滅すると、かわって病気で働けない者がそこに含まれるようになり、さらに何らかの理由(目が見えない、動けるが皮膚病に感染した、子を産めない石女、足をけがして働けない農民など)が村から排除され、そういった人々は人の多い寺社の門前や川原などに集まって物乞いや芸を行って生活の糧を稼いだが、江戸時代には飢饉による逃亡農民や流浪芸人などを表すようになった。


 ただし、江戸の非人には、組織に属する抱非人とそうではない野非人がいて、野非人は「無宿」で現代で言うところの住所不定無職みたいなもの。


 抱非人は、俺みたいに親が非人身分だったり、女衒に売られてきた禿や飯盛り女たちだったり、犯罪の刑罰として非人に落とされたりした場合で、私娼が捕まった後で吉原へ送られる場合もこれに含まれる。


 野非人は非人の組織に属さない者で家を勘当された武士、追放刑に処せられた者や飢饉などによって村から逃げ出した百姓など。


 捕まった野非人は百姓などは、労働力確保のために元の居所に返される事が多く、勘当されたものや犯罪者などは抱非人に編入されることが多かった。


 非人は寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める勧進かんじん、家の門口に立ち芸を行い謝礼として金品を受け取る門付かどずけ、市中で大道芸をおこない金銭を乞うた乞胸ごうむね、芸の出来ないものや子供などが憐憫の情を誘い、人から物品や金銭の施しを受ける辻勧進つじかんじんなどの総称であるが、もともと罪を犯したものが検非違使の下で逮捕や拷問などの実務にあたった放免ほうめんは江戸時代には目明かしになって与力・同心の下で働き、死刑となったものを葬る墓守、野非人を捕える、夜回りをおこなう、牢獄・刑場などの雑用をおこなう番太(非人番)なども非人に当たる。


 そして、声聞師しょうもじから傀儡子、白拍子、平曲師や浄瑠璃師、猿楽師、講釈師などもうまれ、芸を見せることを生活の糧にしているものも非人と扱われてる。


 非人の多くは農業、林業、漁業、製造業等の生産性のある職業から離れた職業を示すわけだ。


 商人も商人自体には生産には関係しないが、目に見え、手元に残る物品を扱うには確かだからな。


 後の花魁や歌舞伎役者に対しての扱いに見られるように、芸能者に対してはある種の羨望はあったが、金銭を得んがために人の気を引くため演じる芸能は賤しく、彼らが結局は何も生み出さない、すなわち芸という目に見えないもので、金などをもらうというのは何もしない病人乞食と同じというのがこの時代の普通の考えということだ。


「そのあたりもなんとか意識を変えていきてえんだが……な」


 歌舞伎が弾左衛門支配から抜け出すのは宝永5年(1707年)。


 小林新助という京都の絡繰師からくりしが江戸に興行にやってきたが、安房の国で旅芝居をしようと、舞台の準備をしているところへ、江戸の弾左衛門の手代の革買い治兵衛という者が現れ、関八州での興行は櫓銭を払うことでの弾左衛門の許しがなくてはならぬと言って、配下三百人を使って芝居小屋を襲い、芝居がつぶされてしまった。


 これに対して新助はすぐさま江戸へ戻り、このことを奉行所に訴えた。


 上方生まれの新助は京都で修行をし、御所でも芝居をしたことのある自分がなぜ弾左衛門の支配を受けねばならぬのか、大体どこの役者でも旅芝居に出て地方で巡業して、腕をあげてからようやく江戸、京、大坂の芝居にでられるようになるのだと主張し、町奉行は新助の主張を認めて、革買い治兵衛らを島流しにし、役者は弾左衛門に櫓銭を払わなくてよいという判決を出した。


 そしてこの裁判の結果により歌舞伎や人形浄瑠璃の役者たちは、完全に弾左衛門の下から解放された。


 実は寛文7年(1667年)に金剛太夫という能役者が、弾左衛門に断りなしに勧進能を行なおうとして、河原での桟敷をつくるのを弾左衛門に頼まずに自分で作ってしまったが、その初日の舞台に弾左衛門は配下五十人をつれて乗り込み、見物の大名が居並ぶ前で舞台を滅茶苦茶に壊したが、このときの老中は能役者は弾左衛門の支配下にあると判決した。


 しかしそれにより面目を潰された大名達は芝居に関しての弾左衛門の権限を奪うことで、意趣返しをし、大きくなり過ぎて間接的に大名にも逆らうようになってきた弾左衛門の権力資金力を奪う政治的意図もあったのだろう。


 ようするに歌舞伎等の弾左衛門からの支配脱出は、非人ごときがつけあがるなという幕府からのメッセージだったわけだ。


 尤も歌舞伎役者の方もその後の正徳4年(1714年)の江島生島事件で大奥の年寄である江島が山村座の看板役者生島新五郎と密通していたということで摘発され、生島新五郎や座主の山村長五郎は島流しとなり、さらに山村座は断絶され、関係者1400名が処罰をうけ、江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止されると、歌舞伎への差別圧はふたたび強化されていくのだが。


 そりゃ、大名を実質的に虚仮にした弾左衛門も大奥の年寄である江島と密通されたと思われてる歌舞伎もただで済むわけはないよな。


 公許遊郭に遊女が集められ外出できなくなったのは遊女が諜報員である可能性があるため、公許遊郭を認めて移動を制限したほうが家康に都合が良かったからだろう。


 尤も本来はほとんど娯楽がない大奥でも新たな娯楽がいろいろ楽しまれているから、史実ほどの役者買いは行われてないと信じたいがな。

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