猿若座が吉原音楽堂を使っての公演を始めたぜ
さて、合同避難訓練を行ったこともあって、おなじ町の子供達は、晴れた日は外で鬼ごっこなどをして一緒に遊ぶことが多くなった。
そして雨の日などは家の中でおままごとや人形遊びをしたりしている。
おままごとや人形遊びと言うのは一種の、ロールプレイングゲームのようなもので、実際に大人がやってる客人を迎えるときの挨拶や食事の振る舞い方を真似してそれを覚えていくのだな。
そして猿若座が吉原音楽堂を使っての公演を始めたが、なかなかの評判のようだ。
開始するまで時間がかかったのは、この時代の芝居小屋と吉原音楽堂がまるで違うものだからと、その準備や練習に時間がかかったのと、俺が弾左衛門と芝居の興業にかんしてちょっともめたからだ。
「おい、吉原の惣名主さんよ、あんまり勝手されちゃあ困るぜ」
「そう言われてもなぁ、吉原の中で芝居をやらせるくらいいいんじゃねえのか?」
「そういうわけにゃいかねえのよ、これがな」
とまあこんな感じなわけだが、弾左衛門の言うことには、先祖が源頼朝より許可された二十八座に傀儡師や獅子舞があるのだから、猿楽も自分が元締めなので吉原に勝手に引き込まれては困るということだ。
ちなみに弾左衛門が許可されたとされるのは座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目暗、非人、猿曳、弦差、石切、土器師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、蓑作り、傀儡師、傾城屋、鉢扣、鐘打。
江戸次第ではそれに準じて、夙、散所、陰陽師、梓巫女、神事舞、田楽法師、猿楽、放下師、遊女、白拍子、傾城夜発、傀儡女、飯盛女、越後獅子、願人僧、俳優、浄瑠璃芝居、踊、観物師、舌耕、術者、弦売僧、高野聖、事触、偽造師、狙公、堂免、俑具師、刑殺人、青楼、肝煎、勧進比丘尼、犬神、男色、神結、伯楽、盲目、放免、浄瑠理語、妖曲歌、浮浪、行乞、乞食、伎丐、丐頭、難渋町、番太、熅房、穢多、皮細工が追加されたと言ったと言われる。
このなかでも陰陽師の他に一部の猿回し・芝居・能師・三河万才などは、安倍晴明の子孫であり陰陽道宗家となっていた公家の土御門家の管理下に置かれ、 公許遊郭が許可された際に傾城屋や遊女、つまり遊郭も弾左衛門の下ではなくなったし品川の飯盛り女も俺が管理するようになった。
「少なくとも吉原の中のことに関しては、おまえさんには口出しの権利はないはずなんだが」
「だが、猿楽の座は俺の管理するところだ」
戦国時代において、関東のいわゆる被差別民を支配する有力者は小田原近在の山王原の太郎左衛門であり、弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈だけの有力者に過ぎなかったが、1590年に後北条氏が滅亡し、代わって徳川家康が関東の支配者となったときに、小田原太郎左衛門は後北条氏より出された証文を根拠に引き続き関東の被差別民の支配権を主張したが、家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという。
これは後北条氏の影響力を削ぐためにも必要なことでもあったろう。
弾左衛門は平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられたというが、鎌倉以来の家の由緒の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための創作であるはずだが、それは江戸幕府にとっても都合がよかったので、積極的に許容されたらしい。
『弾左衛門由緒書』『頼朝公御証文写』といった諸類は、享保10年(1725年)に、時の弾左衛門6代集村が、江戸町奉行大岡越前守忠相らの求めに応じて提出したものでそれ以前はそこまで厳密なものでもなかったしな。
ちなみ弾左衛門が長吏頭と名乗ったのは、もともと神社で癩病人(ハンセン氏病などの皮膚病の患者)、また死んだ牛や馬等、または死者などに生まれる「ケガレ」を「清める」為のキヨメの職能を持った人々の監督権をもっている人間を長吏と呼んだわけだが彼らは本来はキヨメ頭と呼ばれていた。
これを穢多という名前に変えたのは武士の出現が関係しているらしく「
そして、皮膚病患者を管理することで皮膚病がうつったり、死んだ家畜を処理する作業をするために必然的に炭疽菌による炭疽症を発症することも多かったのが「穢多」と呼ばれる原因の1つだろう。
それを明確に制度として確立させたのは江戸幕府であるんだが、幕府が求めたのは武具や太鼓に必要な革、それに行灯などに必要な灯心などの製造販売を統制したいことや処刑場や牢獄などで働くものを確保したいからで、芸能方面については割とどうでも良かったようだ。
実際、遊郭は1600年頃に、歌舞伎や浄瑠璃は1700年頃に弾左衛門の支配から脱してるしな。
本来、巫女は”清め”を行うための存在だったのであるが、流れ巫女は芸能や売春も行うようになっていったので遊女もそれに含まれると考えられていたわけだがかなり強引だよな。
結局の所、俺と弾左衛門は勘定奉行に判断を仰ぐことにして、吉原で芝居を行うことについては問題ないという奉行の裁可をもらったのでめでたく興業が可能になったんだ。
「やれやれ、お奉行様が許可してくれて良かったぜ」
「ああ、コレで安心して興行できるな」
猿若舞の興業には水戸の若様なども来ていたが将軍家は先代中村勘三郎を贔屓にしていたからかもな。
武士だけじゃなく町人なども普通に音楽堂に来てみていたが、やはり娯楽というのは大事だと思うぜ。
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