母さんや十字屋のみんなと江ノ島詣でに行くのも有意義なことだったぜ
さて、三河屋のみんなが江ノ島詣でから戻ったら次は十字屋のみんなと行く番だ。
母さんは特に喜んでる。
「生きてるうちに吉原から離れた江ノ島に行けるなんて夢みたいだねぇ」
「夢じゃないよ母さん、ちゃんとお参りって目的もあるし関所を越えるときの手形もちゃんと出ただろ」
「ああ、そうだね、全くありがたいことだよ」
そして十字屋は俺が面倒を見ているとは言え三河屋ほど力を入れているわけではないのだが、やっぱりそれも可哀想かも知れないな。
「じゃ、行こうか母さん、十字屋のみんな」
俺の声かけに母さんがうなずく。
「あいよ、じゃあ行くとしようかね」
紅梅もうなずき後ろを見渡す。
「みんな大丈夫でやすな?」
「大丈夫でやすよー」
前回の三河屋の江ノ島詣ででは吉原から歩きだったが今回は母さんの体力の事も考えて、京に向かったときのように屋根付き船を使って品川湊まで向かうことにする。
大門を出て山谷堀の船宿で屋根付き船にみんなで乗り込む。
「みんな乗ったな、では出してくれ」
「あいわかりました」
山谷堀の桟橋を離れて大川(隅田川)にはいり、大川を下って江戸湾に出る。
武蔵側の陸地とは反対に房総半島の陸地も見えるな。
屋根船は屋形船とは違って座敷や壁はなく柱の上に屋根が設えられ、簾がついて、座席がある程度のものではあるが夏の日差しを避けて、川の風を受けながら進むと案外涼しくて気持ち良いものだ。
それでもパタパタと扇子をお付きの禿が紅梅に向けてあおいでいたりもするが禿は世話を受け芸事を習う代わりに一生懸命に太夫の身の回りの世話をしているのだな。
太夫と禿は親と子のような関係でもあるし師匠と弟子のような関係でもある。
歩いているうちにいろいろな風景が見られるのもそれはそれで良いものだが船でゆられながら景色を楽しむのはまたよいもの。
そんな事を考えたら母さんが俺に聞いてきた。
「三河屋の時は吉原から歩いていったんだろう?今回は船でいいのかい?」
「ああ、母さんもいるしね」
俺がそういうと母さんは眉根を寄せた。
「あんまり年寄り扱いされるのは好きじゃないんだけどねぇ」
「そういってもさ、母さんももういい歳なんだし、もちろん全部船ってわけには行かないけど半分くらいならさ」
「まあ、船からの眺めも悪くはないものだけどね」
「だろ?」
この時代の女性が旅をする時は大人数で連れ歩き、埃よけや日射や突然の雨を避けるために菅笠をかぶり、着物は歩きやすい地味な小袖に浴衣地の藍染の上っ張りを着込み腰紐を結んであるく。
菅笠ではない場合は手ぬぐいを頭に巻く場合もあるな。
その下には派手なものを着ても見えないようにしていたのだ。
白足袋をはいて脚絆を巻き紅緒の草鞋をはいて歩行の補助に竹の杖を持つ。
無論、女性だけでは危険なので男性のお供を連れて歩くのが普通だ。
日焼け防止のため、肘から手の甲までを覆う手甲をつけ、荷物は二つの包みを前後に振り分けて肩にかけるか風呂敷に包んで背中に背負う。
時代劇で旅をしてるものはそんな感じの服装だな。
荷持ちの専門のお供には棒手振りのように、天秤棒の前後に荷持をつけて担がせる。
銭や薬を入れる印籠などは腰に巻く胴乱の中に入れる。
胴乱はウエストポーチみたいなものだな、出し入れをすばやくする必要があるものを入れるのだ。
若い衆は道中差という長ドスを腰に差している。
だいぶ平和になってきているとは言えまだまだ武装は必要なのだ。
遊女たちは道中記21世紀現代でいうところの旅行のガイドブックを開いてワイワイ騒いでるな。
「品川についたら……」
「……っていう店の団子がうまいらしいでやすな」
花より団子ともいうが名物の美味いものというのはいつの時代でも楽しみなものだ。
品川湊で一度品川に上陸し、ここでは品川寺にお参りをして団子や茶を楽しんで、用を足した後船に戻って川崎は通り越して神奈川湊にて一泊する。
「吉原の旅籠の参考にするのかい?」
「そうだね、やっぱり泊まりやすい宿でないといけないからね」
旅籠が木賃宿に比べて高いのは朝夕の食事があるからで、旅籠に泊まる旅人というのはそれなりに金がある者たちであるのだから客寄せにはやはり何か売りというのは必要だ。
江戸は上宿が少ないというのもあるから高級路線で行くべきなのかな。
ちなみに前回とは違う旅籠だ。
「ん、このカレイの煮つけうまいな」
「そうだね、やっぱり新鮮なのかね」
座敷に運ばれてきた膳の料理はやはりうまい。
平旅籠の客の入りに差が出るとしたらやはり料理と清潔感だろうな。
遊郭の場合もてなす遊女の名声も大きいが。
神奈川からは歩きだ。
「母さんもし大変なら牛追いに声をかけるけどどうする?」
「あんまり年寄り扱いするんじゃないよ、それに歩いたほうが身体にいいんだよ」
「それもそうか」
神奈川からはみんな歩きだ。
ちなみに旅の途中の用便とかはどうしてるかと言うと、船の場合最後尾とかに用便ができる穴がある囲いや部屋があったりするし、街道の道中には農民が公共の便所をつくっていたりする。
江戸時代の街道の整備や厠の設置は村に課せられた義務でもあるのだが、自分たちの利益につながるようにもしているのだ。
旅人というのは基本的には良いものを食べているので栄養価の高い良い肥料になることは知られていた。
特に女性が安全に使えるという噂が流れれば男女ともに厠の利用者が増えると言うことで小奇麗に掃除をこまめにしたりもしていたらしい。
そして肥溜めなどで灰や藁と一緒に発酵させれば田畑のみのりも良くなるというわけだ。
同じように街道に落とされる馬糞もせっせと拾い集めては肥料にするし、擦り切れて捨てられた草鞋や街道の両脇に植えられた松から落ちてくる松葉などは拾い集めて焚き付けに使った。
街道の休憩のための茶屋などだけでなく田畑しかない何もない場所でもそこに落とされるものは農民にとっては価値のあるものだったのだ。
江戸ではわざわざ銭や野菜と交換して手に入れてるくらいだからな。
「ところで三河屋さん」
と声をかけてきたのは紅梅だ。
「ん、なんだ?」
「わっちが三河屋さんの藤乃太夫のようになるにはどうすればいいのでやしょう?」
「うーん、それについては母さんのほうがわかるかい?」
「そうだねぇ、いままでこの人みたいになりたいという相手があんたにはいなかったのかい?」
「……はい」
「なるほどね。
あんたが望むならあたしが教養芸事を仕込んでやるよ。
あたしは藤乃の育ての親でもあるからね」
「本当ですか?!」
「ああ、そのかわりきついよ?」
「あい、わかってやす」
「じゃあ、吉原に戻ったら覚悟するんだね」
「あい、ありがたきことでやす」
紅梅の芸事教養の仕込みをすると言った後の母さんはなんか嬉しそうだった。
「藤乃が日本一になったからと言ってぼやぼやしてたら追い抜かれるよ」
「ああ、でもそんな簡単には追い越せないだろ?」
「いやいや、そうでもないかもしれないよ」
なるほどこれは結構楽しみだ。
戸塚を越えて藤沢宿についたら前に俺に声をかけてきた牛追いの子供が声をかけてきた。
「あれ、おいちゃんまた江ノ島に行くの?
ばばさん歩き疲れてたいへんそうだし牛に乗せてあげない?」
と子供に声をかけられた。
牛に背中には鞍が据え付けられていて座りやすくなってるようだ。
「ふむ、母さんどうする?」
「そうだね、ちょっと疲れたし乗ってもいいかい?」
「もちろんだよ」
「じゃあそうしようかね」
「じゃあ50文でいいよな」
俺は子供に50文を手渡した。
「おいちゃんありがとー、じゃあのって」
「はいはい、よいこらしょっと」
母さんを牛の背中に乗せて江ノ島へ向かうとやっぱり小さな裸の子供が5人くらいで群がってきた。
「おいちゃんぜぜちょーだい」
「ぜぜちょーだい」
「ちょーだい」
俺は子どもたちにいう。
「ぜぜはやらんが前と同じく団子くらいは食わせてやろう」
「わーいおいちゃんあんがとー」
「あんがとー」
茶屋で休憩がてら子どもたちにも団子を食わせた後に別れて、江島神社に詣でる。
「弁財天様、どうかどうかわっちに才をくださいまし」
紅梅を始め十字屋の遊女たちが必死に祈ってる。
うーむ、そんなに稼げてないわけじゃないはずなんだが、三河屋に比べると自分たちが劣るように思えるのか。
「弁財天様、どうか吉原の遊女たちをお救いください」
そして、その後神社の建物を借りて着替えを行ってみんなで海水浴だ。
神聖なる海の水に浸って祈りを捧げれば心も引き締まる。
潮垢離を終えれば境内の井戸で塩気を流して服装を旅装束に戻して後は三河屋と同じく海岸沿いを歩いて鎌倉に向かい鎌倉の手前で旅籠に泊まった後に鎌倉の鶴岡八幡宮を参詣した後、切り通しを抜けて金沢八景の称名寺を参詣し、最後の日は平間寺こと川崎大師を参詣したら船を使って吉原へ帰るのだ。
「母さん大丈夫だったかい?」
「もちろん私は大丈夫だよ、まだまだ足には自信があるしね」
「ま、それならいいんだけどさ」
十字屋の若い衆や禿、新造にとっても良い息抜きになったようだし、俺も十字屋の扱いをもう少しよくしてやらないとと改めて誓ったのだ。
自分の抱えてる遊女を救えないで四宿の飯盛り女や水茶屋の茶立て女を救えるわけがないもんな。
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