島原との囲碁勝負のために東海道を上って京についたら他の遊郭の連中もやって来たよ

 さて、清花は順調に成長中でそろそろはいはいができるようになってきた。


「あー」


「おお、清花どうした?」


「あー」


「おお、ずいぶん早く動けるようになってきたな」


「あー」


 畳の上をずりずり這いずるのも清花にはきっと楽しいのだろう。


 このまま健やかに可愛く優しく賢く育ってほしいものだ。


 だが清花を眺めてニヤニヤしてばかりはいられない。


 そろそろ島原遊郭の林家と囲碁での勝負をつけなければな。


 そして今回はこちらから京へ乗り込むことになる。


 林家がこちらに来た時は吉野太夫とともに東海道を歩いてきたようだが、同じように東海道を歩いていくことになる。


 この時代だと船より歩いたほうが速かったりするんだ。


 それに江戸から京まで歩いて大体15日もあれば到着する。


 なにせこの時代の船は風まかせ天気まかせだし陸地が見える場所から離れられない沿岸航法なんでな。


 もちろん味噌や酒などの重たいものを運ぶ場合は船を使うが大阪から江戸までだいたい一月くらいかかる。


 西洋の帆船は複数の縦帆と横帆があるので、風上にも進めたが、この頃の和船は帆も一本で筵の横帆であり、基本的には追い風に乗って進む、つまりは風下にしか進めない。


 なので逆風が吹けば帆をたたんで港で順風を待つしかなかったので、船便は徒歩よりよほど日数がかかったわけだ。


 その前に吉原の代表5人を6つの大見世から選ばなければな。


 三河屋の藤乃、三浦屋の高尾、西田屋の総角、玉屋の花紫、山崎屋の勝山でほぼ決まりだと思ったんだが十字屋お職の紅梅が異を唱えて来たんだ。


「わっちも大見世のお職を張っているのに参加の機会すらないのはあんまりではありんせんか?」


 確かに言われてみればそうか。


「お、おう、そうだな。

 じゃあ、囲碁の総当たりで順位を決めようか。

 一番強いやつが大将でその次が副将でな。

 どちらにせよ補欠も必要だし」


「よーし、頑張りんすえ」


 吉原の室内遊技場で総当りで囲碁の勝負をしたのだが、紅梅は結局6人のなかではドンケツだった。


「うー」


 すまん、俺が藤乃にばかりかかりきりだったせいもあるな。


 もう少し十字屋の遊女たちも世話をしてやらんとかわいそうだ。


「と、とりあえず順位は決まったし京へ向かおう」


 順位は補欠・紅梅、先鋒・総角、次鋒・勝山、中堅・花紫、副将・高尾、大将・藤乃だ。


 うむ、藤乃がトップなのは本因坊にきっちりしごかれたからだろう。


 俺が京に行ってる間一月半くらい俺が留守の間は母さんと妙で三河屋を見ることになるが特に問題はないだろう、吉原総会の方も三浦屋に代行を頼んだし、太夫を率いて京に行くことに関してお奉行様にも許可は取って「通行手形」も入手済みだしな。


 武士は自分の藩と江戸の往復以外は許されてないし農民も土地を離れることは許されてないから江戸時代の旅人というのは結構少なかったのだが。


「じゃあ、行ってくる。

 母さん、妙、店の方はよろしくな」


「ああ、わかってるよ」


「はい、任せてください」


 各見世から太夫とその世話係の禿や太夫付きの若い衆などが集まってきた。


 全体では歩いたほうが早いとはいっても山谷堀から大川に出て神奈川湊までは船で移動するけどな。


 外洋へ出ると小舟では危ないが東京湾の神奈川湊くらいならば櫓付きの船で漕いでいったほうが安全で早いし。


「うわーすごいでやすなー」


「ほんにほんに」


 桃香と他所の禿が目を輝かせて江戸湾の眺めに驚いているようだ。


 半日で神奈川湊に到着したので神奈川宿の旅籠はたごで今晩は一晩を過ごす。


 旅籠には内風呂はないが湯屋はあるので風呂に入って飯を食って寝て翌朝になったら出発だ。


 ちなみに東海道五十三次と呼ばれるように東海道に宿街はたくさんあるが毎日全部泊まっていくわけではないのだ。


 そしてここからは歩きだ。


「さてじゃあ行きますかね」


「あい、行きやしょう」


 てこてこ歩いては保土ヶ谷・戸塚・ 藤沢の宿街を通過し、疲れたら茶屋で休憩をとったりして平塚宿まで歩く。


 歩いた距離はおおよそ35km位だがこのくらい歩くのは江戸時代だと普通。


 飛脚はおよそこの三倍の距離を一日で走るのだから大変だよな。


 同じように翌日は大磯・小田原を経由して芦の湖畔の箱根宿で宿を取る。


 箱根といえば何と言っても温泉で、この江戸時代でも箱根7湯は熱田や草津の温泉と同様人気で湯治のために来るものも少なくない。


「うむ、やはり本物の温泉は良いものだ」


「ちとばかし匂いは気になりんすけど」


「たしかに臭いでやすな」


 俺は湯帷子を来た藤乃や桃香とそんなことを話しながら温泉にはいっていた。


 この時代は温泉は基本混浴だが全裸ではなくふんどしや湯文字を身につけてはいるのだな。


 箱根をたったあとは三島・沼津・原ときて吉原宿に泊まる。


 吉原宿は旧吉原の遊郭の出身者が結構いたとも言われている宿だな。


 そして富士講のために富士参詣の拠点とされる場所でもある。


 吉原をたったのちは蒲原・由比・興津・江尻ときて駿府にはいる。


 江戸幕府の開祖であり神君大権現様こと徳川家康公のお膝元でもある駿府はかなりの規模の城下町だ。


「大きい街でやすな」


「なにせ神君大権現様と関わりの深い街だからな」


 駿府をたったあとは鞠子・岡部・藤枝ときて島田に到着。


 島田宿は大井川の江戸側にあるため、増水で大井川の川越が禁止されるとここでずっと足止めを食らってしまう。


 大井川は渡し船が許されず、川越人足による渡河をする必要があったせいなんだがな。


「幸い川は普通に渡れそうだな」


 翌朝人足を手配して川を渡り金谷・日坂ときて掛川で宿を取る。


 掛川は山内一豊が改修して住んだことで知られる掛川城の城下町でもある。


「駿府ほどじゃないにしても結構な賑わいだな」


「そうでんな」


 そして翌朝街を離れて袋井・見附を経由して天竜川を渡し船で渡り浜松へはいる。


 浜松宿は江戸から京との中間にあたる宿場町で遠江国・駿河国でも最大の宿場、天竜川の京側にもあたる。


 さらに、舞坂・新居を経由して白須賀で一泊し二川・吉田・御油を経由して赤坂で宿を取った。


 御油宿や吉田宿とともに飯盛女によって栄えている宿ではあるのだが……。


「これもまた現実と言うものだよな」


 やはり飯盛り女というのは教養芸事を必要とされないが、本当に高く売れるものは遊郭に売られてしまうからみな疲れが見て取れる。


 かといって飯盛女に俺ができることは何もないが……。


 さらに藤川・岡崎を超えて鯉鮒宿ちりゅうしゅくで一夜を過ごし、鳴海を経由して宮宿またの名を熱田宿で一晩を過ごす。


 尾張と伊勢の間は陸路だと大変なので桑名もしくは四日市までは船で移動するのだ。


「また船でやすか」


「ああ、そのほうが早いんだな」


 今回は桑名で一晩を過ごし四日市を経由して石薬師で一泊し、庄野・亀山・関・坂下を超えて近江の土山に入った。


「東の箱根に西の土山とはよく言ったもんだ。

 結構きつかったな」


「そうでやすなぁ」


  土山をたてば水口・石部ときて草津だ。


 あとは大津から三条大橋にたどり着けば京の都だ。


 江戸から13日だからまあまあの速度かな。


 天気に恵まれたのは助かった。


 そして島原の林家へ訪ねていったところで俺たちは見知らぬ男女に囲まれたのだった。


「お前さん達は一体?」


「俺たちは京と吉原で日本一を決めようっていうのが気に入らねえ。

 他の遊郭の代表だ、俺は大阪新町から来た」


「俺は長崎は丸山から」


「俺は伊勢の古市から」


「なるほど日ノ本の五大遊郭勢揃いってわけか」


 江戸時代の遊郭はまずに大遊郭は『江戸の吉原』『京都の島原』だ。


 三大遊郭はそれに『大阪の新町』か『長崎の丸山』が加わり五大遊郭とされた場合は『伊勢の古市』がはいるが、古市遊郭だけは幕府の公許ではない。


 しかし、伊勢神宮の門前町である古市は川崎音頭のもとになった伊勢音頭の発祥の地でも有って決してその規模は他の遊郭に劣らない。


「ふむ、わざわざ京より劣るということを日本全国から証明しに来たとはご苦労なことだ」


 島原遊郭の吉野太夫を擁する林家がニヤリと笑ってそういう。


 さて、そういくかな?

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