大阪の新町遊廓は惣名主の愚かさによってブラック遊郭になっていくのだろうか

 さて、豊臣秀吉の大坂城建築によって大きな城下町となった大坂だが、大阪夏の陣で豊臣家が滅んだのちに、徳川幕府によって大阪城の再建工事が進められ、このために大阪には多くの職人や人夫が集められた。


 これを目当てに遊女屋が大阪に出現し元和三年(1617年)に加藤清正の家臣・木村又蔵の曽孫といわれる木村又次郎が遊里を一ケ所に集める目的で新たな遊郭の設置を幕府に願い出てそれは認められた。


 江戸の吉原と同様に芦原が続く沼地である現在の道頓堀付近、厳密に言えば心斎橋の西にある四ツ橋付近を土で埋め立てて周りを掘りで覆い散在していた遊女屋を集約して作り上げた遊郭が「新町遊郭」である。


 ちなみに「新町」と呼んだのは、ただ単に新しくつくられた町というだけで、江戸の吉原よしわら葦原あしはらでは縁起が悪いと意味をひっくり返したり、京都の島原が幕府への当てこすりだったりするのに比べて深い意味があるわけではなくそのまま俗称になっていった。


 大坂の新町も江戸の吉原と同じく京の遊郭を参考にして作られ遊女の格は太夫たゆう天神てんじん鹿子位かこいはしであった。


 そして太夫になるためには優れた容姿だけでなく茶道などの芸事に通じて教養も必要とされたが、新町遊郭は大店商家の主人が遊ぶ場所であったため島原ほどには教養や作法にこだわられたわけでもなかった。


「あんさんなら太夫も立派につとまりますけどなんでならんのです?」


「はあ、太夫になれば確かに名は上がりますけどそのぶん座敷代も揚げ代も上がって面倒事が増えるだけですさかい。

 天神のほうが気楽ですし稼げますわ」


「太夫になれば客をあんさんがえらべまっせ?」


「お客はんは文で登楼する日をかち合わんようにしてもらってますから問題ありまへんわ」


 このように新町の遊女は遊女の頂点である太夫になることを拒んで気楽な天神のままでいる遊女も少なくなかった。


 このあたりは誰もが最高位である太夫を目指す島原とはだいぶ違う。


 新町の遊女にとっては名誉より実益なのである。


「はあ、おなかすいたなぁ」


 そして禿に対してろくな食事を与えないのは島原と同じである。


 もっとも島原の場合は新鮮な魚が手に入りにくく物価が高く肉や卵は穢れゆえに食べられないという理由もあるが、新町の場合は単にケチなだけである。


「やれやれ飯をたらふく食わせたところで病気で死ぬやつは死ぬ。

 吉原の楼主共は一体何を考えてるんやろうな。

 その分の金を削れば自分らの懐に入ってくるものを」


 この時代食事や睡眠時間と病気には大きな影響があるとわかっているのは医学を学んでいるごく一部の者だけであるがゆえに江戸の吉原の遊郭で何が行われていてその結果がどうなったかを理解できるものは少なかった。


 最も貝原益軒の記した養生訓ではむやみに眠りたがる欲を抑えよとされているがこれは本来夜は寝るのが普通である人間に対してといたものである。


 そもそも21世紀でも社員の給料をなるべくなら掛けたくないと考える経営者のほうが多いのであるし遊女が教養や芸事に秀でている必要があまりない新町では大名が吉原に赴かなくなり太夫がいなくなった後の商人を相手にする吉原の遊女のように遊女は使い捨てでも構わなかったのである。


「しかし、吉原では遊女に舞台で歌劇をやらせるのが認められるならこっちだってやらせていいはずでんな?」


「ちがいありまへん。

 幕府に掛け合ってすぐさまはじめまっせ」


 もちろん寛永6 年(1629年) に遊女歌舞伎は禁止されているが、江戸では吉原内部限定で行っていいのならこちら大阪新町も公許の遊郭なのだからできていいはずという理屈である。


 京都六条三筋町の遊女が四条河原に小屋を掛け興行しすぐさま広まった遊女歌舞伎は集客に大きな影響力を持っていたから出来るのであれば当然やりたいわけだ。


「そうすればまた客がたくさん来ますな」


「そうですな、はははさっそく歌舞伎の内容を考えませんとな」


「ならば遊郭に出入りしているものから定本を募集するのはどうでしゃろ?」


「うむ、吉原でやっているというやつでありまんな。

 それは良い考えやとおもいまっせ」


 無論彼等は吉原では歌劇が流行っていてそれにより人がたくさん集まるという良い側面しか耳にしていない。


 西田屋などが脱衣劇で大失敗したことは吉原の外には伝わってきていないのだ。


 新町遊廓は設立時は六十八軒の小さな規模だったものが慶安年間(1648-52)には二百四十軒ほどに増え京の島原に比べれば大阪の中でも辺鄙と言えない場所であったものの京や江戸のような移転などはなかったため新町遊廓は大変な賑わいをみせた。


 そして大阪の新町は、京の島原、江戸の吉原とともに「日本三大廓」と呼ばれ長崎の丸山を加えて「四大遊郭」とよばれることもあった。


 しかし、新町廓は遊女の出入りは厳しく制限されていた。


 これは京の島原の遊女が太夫に憧れる京の人間であって逃げ出す恐れが殆どなかったことに比べ新町の遊女は吉原と同じように女衒を通して貧しい農民や漁民から買い取った女が多かったからであろう。


 そして京都の島原はあくまでも芸事の街であったが新町はもっと直接的に性欲を発散させる場所であったのは江戸吉原と同じような人夫目当ての遊女屋から始まったことと、大名や公家ではなく大阪に出入りする船乗りや商人が主な客層だったからであろう。


 元禄のころには大阪・新町の遊女の人数は京・島原の2.5倍にもなり、商都大坂の繁盛と京の衰退を如実に示した。


 とは言え江戸の吉原が本来北東の大門以外に出入り口がなかったのに比べ明暦三年(1657年)に東大門が、寛文十二年(1672年)には、西横堀側に、享保十二年(1727年)には吉原町に、宝暦四年(1754年)には新京橋町にも門ができ遊女の出入りもだんだんゆるくなっていった、とは言え遊女の出入りには結構な金額の袖の下が必要では有ったが。


 新町の揚げ代は、太夫が銀43匁(おおよそ8万円)、天神は銀28匁(おおよそ5万円)、鹿子が銀16匁(おおよそ3万円)、更に太夫や天神のように揚屋に呼ぶような遊女であれば揚屋への心付け、禿や引舟とよばれる吉原では新造に当たる遊女、揚屋に呼ばれる幇間や太鼓持ちなどへの心付けに加え、揚屋での飲食代も当然かかるから、太夫と遊ぶとなると、多額の金が必要であるのは吉原や島原と変わらなかった。


 それでも吉原よりは安いが大阪人は払った金に見合ったサービスを受けるのが当然と考えるので手抜きをするような遊女はいなかったし、評判の悪い遊女は遊郭から追い出され私娼となるしかなかった。


 その一方で、新町の遊女の生活は厳しく、遊郭の外へ出られぬのは当然で、衣装代やタバコや装飾品なども自前もしくは店への借金で買い揃えなかればならず、五節句などの紋日に客が来なければ借金となり、栄養状態や衛生状態も悪かったから病死する者も多く、新町遊廓からの「足抜け」は容易ではなかった。


 悪い意味で新町遊廓は江戸の吉原遊郭を先取りしていたとも言える。


 そして、京が公家、江戸が武士の街だとすれば大阪は商人の街であり、好色一代男を書いた井原西鶴(いはらさいかく)などもこの遊郭を頻繁に利用している。


 江戸時代前期の大阪は質の派手な着物を好み、染めものの発達も大阪から広がっていくが、新町遊郭の建築物の豪華さは島原、吉原をはるかに抜き、19世紀初めに江戸から新町遊郭を訪ねた滝沢馬琴は「揚屋の広く奇麗なること大坂にしくものなし」と書いている。


 また”京の女郎に江戸吉原の張りをもたせ、長崎丸山の衣裳を着せて、大坂新町の揚屋で遊びたい”ともよばれ、遊女の容貌では島原、遊女の心意気では吉原、遊女の衣装では丸山、そして新町の揚屋の構えは日本一とされたのである。


 逆に言えば遊女のレベルでは島原、吉原にはかなわなかったということでもあるが。


 開業当初の新町遊廓は昼見世のみ、しかし大阪は武士の街ではないので門限は割とゆるく、その門限は夜の夜五ツの戌(いぬ)の刻(21時)までであった。


 しかし、吉原は夜見世もやっていると聞くと楼主達はそれでは充分でないと考える。


「吉原が夜見世をやっていいんならうちもやって問題あらへんよな?」


「そらそうですな。

 遊女を夜ただ寝かてとくなんてもったいないはなしやし」


 実際延宝4年(1676)からは新町遊廓でも夜見世が許可され、夜四ツの亥(い)の刻(22時)に限(きり)の太鼓が鳴ると、泊まり客以外は一旦遊郭内部から追い出され大門が閉まったのだが、暁八ツの丑(うし)の刻(2時に)三番太鼓が打たれて再び大門が開き、客が入るという不夜城となっていったのである。


 当然遊女の睡眠時間はそれだけ削られていく。


 そして「江戸・吉原の高尾太夫」「京都・嶋原の吉野太夫」と並び称されるのが「大阪・新町の夕霧太夫」であるが、この時代にはまだ夕霧は京の遊郭・島原の「扇屋」お抱えの遊女であり「扇屋」が大阪新町に移転するのは寛文12年(1672年)である。


 京でも名高い夕霧らを連れて扇屋が大坂の遊郭・新町へ移転したのは鎌倉幕府の滅亡とともに鎌倉の街が衰退したように室町幕府が滅亡して、江戸幕府が江戸を本拠地にしたことで京の街が徐々に衰退していたのに対して大阪は日本の流通の心臓部としてすべてのものが集まることから発展が著しかったからであろう。


 京ですでに名の高かった夕霧が大坂へくるということに対して、大坂の人間は淀川べりで扇屋一行の船を待ったとすらいわれたがこれには大阪の人間の京都の人間に対するライバル心もあっただろう。


「京女郎の大阪下り」は下品で派手好きと京都人から目下にみられた大阪人の京の人間に対しての自尊心を大いに満足させたのだ。


 夕霧太夫は容姿の優れ性格も良く教養芸事も素晴らしい腕を持っているほぼ欠点のない完璧な遊女として大人気を博すが京より大坂に移ってわずか6年、病に倒れた後に貴僧高僧の祈祷や名医の治療も効果はなく、延宝6年(1678年)1月6日に22歳で亡くなった。


 おそらく死んだ理由は新町遊廓が夜見世の深夜営業も行うようになったことによる睡眠不足により十分な疲労回復ができなかったことであろう。


 尤もこれは扇屋が新町を蹴って吉原に移動してくれば夕霧太夫も死なずに済むかもしれないが。


 そして、新町遊廓の四方の堀の清掃費を新町の惣名主である木村又次郎は毎月遊郭から徴収し、一部を冥加金として幕府に上納していたが、ある年に清掃費を値上げしておきながら、それを幕府に届けず、値上げ分を全て自分の懐にしまいみ、しかもそれは発覚して、万治3年(1660年)に名字帯刀の権利を取り上げられ、惣名主の身分も解かれて、一介の楼主にその地位を落としその後は惣名主は置かれずに、町ごとにそれぞれ名主を置いて合議制での運営になったのである。


 しかしながら現在の新町遊廓の惣名主である木村又次郎は転移直後の三河屋による改革が始まる前の二代目西田屋に近い性格であり、自分たちにとって腹が痛まないように吉原の改革の良いとこ取りだけをしようとしているようである。

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