長崎の丸山遊郭は意外と上手くやっている

 さて長崎の丸山遊郭といえば、大阪の新町遊廓の代わりに日本三大遊郭に入れられることもあり、四大遊郭のひとつとされる。


 しかしながら古来より栄えていた博多と異なり長崎はもともとは寂れた漁村の一つでしかなかった。


 長崎が繁栄するのは大村純忠おおむらすみただが永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり場長崎をポルトガルの寄港地として開いたことから始まった。


 もとは永禄4年(1561年)に松浦氏の領土であった平戸で、ポルトガル商人と日本人商人の争論からポルトガル人殺傷事件が起こったことで、ポルトガル人が新しい港を探し始め、永禄5年(1562年)に大村純忠は自領にある横瀬浦の提供を申し出て、イエズス会宣教師がポルトガル商人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた大村純忠はあわせてイエズス会士に対して住居の提供などの便宜もはかった。


 その結果として横瀬浦はにぎわい、鉄砲や黒色火薬などの入手もできたことで大村氏は戦国を生きのびることが出来るようになったとされる。


 そして永禄6年(1563年)に宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。


 しかし領内の寺社仏閣や墓所の破壊や領民にもキリスト教への改宗を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり奴隷として海外へ売り渡されたりなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになるのは大友家と同じであった。


 しかし大村純忠に恨みを持つ後藤貴明と大村家の家臣団が呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払った。


 その為元亀元年(1570年)に大村純忠はポルトガル人のために新たに長崎を提供し以降長崎はポルトガルとの南蛮貿易以外にも華僑を通じた中国との貿易により、西洋や中国大陸の情報や文化、物品などが入ってくることで港街として大発展していくのである。


 その後、天正8年(1580年)に、大村純忠は長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進したが天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州を平定した際に、長崎がイエズス会領となり、要塞化されていることを知らされ、これたいして秀吉は、宣教師の国外退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡しキリスト教宣教を制限する伴天連追放令を出した。


 この時点では南蛮貿易による利益を優先していた秀吉だったが、文禄5年(1596年)に起こったサン=フェリペ号事件でその船の船員の1人が話した「スペインの征服手法」が秀吉に伝わると秀吉はキリスト教の禁教の強化に転じ、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて処刑された。


 そしてその後に徳川幕府はまず寛永元年(1624年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止した。


 その後、寛永11年(1634年)から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、長崎に出島が作られポルトガル人がそこに入るのだが、寛永14年(1637年)の島原の乱の発生を受けて寛永16年(1639年)にはポルトガル船の入港を禁止しポルトガル人全員を出島から追い出した。


 そうなると当然、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなり、長崎商人はポルトガル人に貸した金も回収できなくなったために、長崎の町は困窮したが、幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、寛永18年(1641年)年に平戸のオランダ東インド会社の商館を出島に移すように求めた、オランダ側もこれを受け入れたため再び長崎は繁栄したのだが明暦4年(1658年)の江戸への出島の移転で再び困ったことになりそうであったのだが……。


 寛永18年(1641年)に中国の商船も長崎以外の寄港が禁止され、明暦元年(1655年)に長崎は自由貿易となることで華僑系中国商人との取引の増大により長崎は十分に潤っていた。

 そもそもオランダとの取引よりも明や東南アジアの華僑との貿易額のほうが遥かに大きいのだ。

 それに伊豆大島より長崎のほうが大陸に近い。


 そして長崎の遊郭の歴史は文禄二年(1593)、南蛮人を相手にした遊女商売をはじめようとおもった「恵比寿屋」という遊女屋が、長崎に進出したことがきっかけとなり筑前博多の花街からも移転がおこって、その後寛永19年(1642年)、丸山町にまとめられたのが成立である。


「江戸の方ではようやく卵や肉などを食べ始めたようですがだいぶ遅いですな」


「まったくまったく、こちらではずっと前から食べておりましたからな」


 長崎はポルトガル人が居住したことも有って卵や肉を食べても罰など当たらないと言うことがわかったため卵やヤギの肉などを食べることにもあまり抵抗はなかった。


 もとはポルトガル由来の南蛮料理と中華料理と日本料理が合わさって、大きなテーブルに乗った大皿から料理を取って食べる卓袱料理(しっぽくりょうり)が揚屋でだされるのも長崎ならである。


 そして遊女にとってはオランダ人の相手をしないでよくなったのは実はありがたいことでも有った。


「赤鬼さんはお口が臭いからねぇ」


「言葉もわからないしねぇ」


「あれもおおきすぎるしねぇ」


 江戸時代初期の丸山遊女にとって出島のオランダ人はもっとも遊女たちが嫌う働き先であった。


 このため売れ残りで、なおかつ最下級の遊女の仕事が、幕府の役人に命じられて、しぶしぶ行くという感じであったという。


 しかしオランダ人は決してケチではなく出島での揚げ代は銀三十匁、中国人の相手だと五匁であったのを考えれば金額としては決して悪くないのだが、やはり金髪や赤毛の外見や独特の強い体臭や口臭にくわえ言葉もわからないし男性器が大きいとなれば嫌がる理由もわかる。

 遊女にとっては短小早漏の相手が一番いいのである。


 そして長崎では中国人相手の場合遊女の側が泊りがけでのんびり仕事をしていたのも有ってわりと睡眠も十分取れていた。


 しかし遊女にとって中国人は病気を持っていることが多いのが悩みの種であった。


「やっぱり日の本の人が一番ではありますなぁ」


「病は怖いですからなぁ」


 丸山に遊びに来るのは長崎の商人だけでなく大阪などの上方の商人の中でも金持ちが多くのちに井原西鶴は「長崎に丸山といふところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし」と記しているが、上方の商人達は、丸山に大金を落としていったのである。

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