歳末は歳暮やつけの取り立てなどで色々忙しい

 さて、大見世の三河屋などは12月20日から休みにしつつも、大晦日の吉原劇場での歌合戦の告知や歳末のボランティアなども兼ねて劇場では笠地蔵を少し変えた演目をやっているし、餅や服を買えないような困窮者にそれらを与える事もやっている。


 まあ、そこそこ目的は達成できていると思う。


 20日から休みにしたのは今までほとんど休みのなかった俺や見世の若い衆に休みを取らせるためというのが大きいが、20日以降になると主な顧客である大名などの武家さん達は忙しくてそれどころではないというのもある。


「なにせ、大名なんかの武家さんと商人じゃ屋敷の広さや使用人の数や付き合いのある相手が

 俺達とは桁違いだからな」


 その分煤払い、大掃除にかかる時間も餅つきにかかる時間も桁違いだ。


 そして20日をすぎるとお武家様はお歳暮のあいさつ回りで大変だからな。


「さて、そろそろ俺もお奉行様のところへ歳暮周(せいぼまわり)の挨拶に伺わないとな」


 妙は俺に頷いた。


「ええ、そうですね」


 そして妙は頷いて出かける支度を始めた。

 女は外出するのにもいろいろ時間がかかるからな化粧とか着替えとか。

 俺は準備ができた妙と一緒に勘定奉行、町奉行、寺社奉行、大目付等の挨拶回りに行くことにする。


「本年は誠にお世話になりました。

 来年もまたよろしくお願いいたします」


「うむ、来年もよろしく頼むぞ」


 そんな感じの定形の挨拶をして贈り物を渡す。


 吉原は直轄管理をしているのは勘定奉行だが、同心などの見張りは町奉行が行っているし、浅草自体は寺社地だし、武家の問題行動の対処は大目付が行うなどであちこちに顔を出さないといけないのだな。


 21世紀でも歳末の12月になるとデパートやスーパーなどのお歳暮コーナーができて、ビール、ハム、インスタントコーヒーやジュースや乳酸菌飲料、サラダ油、洗剤や石鹸などの詰め合わせパックを送り合ったりする事やその贈り物をお歳暮というな。


 しかし本来、歳暮とは、「歳の暮れ」のことそのものを示す言葉であって贈り物を示すわけじゃない。


 そして本来お歳暮の贈り物というのは正月に家に戻ってくる祖先の霊や歳神様への供物のことなんだ。


 神様や祖先の霊への感謝と翌年が良い年になるようにという祈りを込めた供物を年の暮れである「歳暮」に分家から本家へ、あるいは独立した子から親などの親族の間での送るもので一番大きな家で年神を祀る風習が後には武家では家臣から主君へ、商人では取引先などへの贈り物を送りつつ挨拶をするかたちになっていった。


 それがだんだん曖昧になって世話になった人や来年も世話になる人に全部に対し挨拶回りをすることになったわけだな。


 現代だと挨拶回りは主に新年に行うが江戸時代だと年末に行うほうが重要だったりする。


 大名なんかはこの挨拶回りだけで20日から28日までほとんど潰れてしまうから見世を開けていてもあんまり意味が無いってわけさ。


 で、当然あいさつ回りなわけだから贈り物をもって自分たちで相手先へ出向くわけだ。


 当然江戸城でも同じで特に12月25日からは歳暮のご祝儀として日本各地の諸大名が江戸城の上様に挨拶に訪れて一緒に献上物が続々と届けらる。


 暮れも押し迫った28日には徳川御三家をはじめとした徳川親藩の一門が江戸城に登城し、歳暮の贈り物と挨拶をすることでやっとそれは終わるわけだ。


 無論、御三家なんかは挨拶や贈り物を受ける方でもあるわけだが。


 ちなみに江戸時代のお歳暮は塩鮭などの海産物や餅など、大晦日に食べる「年取り膳」で食べられる食品を贈るのが一般的だな。


 無論皆一斉に挨拶をしてまわるから行列を作って待つわけでもある。


「やれやれ、なんとか全部回れたな」


「ええ、早めに終わってよかったですね」


 西田屋の二代目が日本橋から浅草へ移転する際に余計な事をしたせいで、吉原は一般の商家よりも下の扱いをされていた。おかげで、こういう時は一番最後まで待たされるのが常だったのだが、今年に俺が色々やったのもあって、先に到着していても通されるのが最後になるなどというようなことはなくなり、ようやく他の商人と同程度の扱いまでは戻ることはできたようだ。


 さて、このくらいの年末になると現れるのが「暦売(こよみうり)」。


 21世紀でも年末になるとカレンダーが配られたり、書店や雑貨店などで売られたりするが、江戸時代では暦売りと呼ばれるものたちが路上で暦を売り歩いていた。


 基本的には暦売りが現れるのは年末から正月末くらいまでで、暦売りは老人が多かった。


 行商人である棒手振は重い荷物を運ばないといけなくて大変だが暦なら力がなくても大丈夫だからな。


 さて、年末はかけ払いの支払期限でもある。


 基本的に土地を持ってる武家は米が取れるのは年に一度だし、旗本や御家人などは年3回に分けて給与が支払われていたので彼らの日用品に対する支払いは盆暮の半期毎に支払いをしていた者が多かった。


 最も吉原は基本的にいつもニコニコ現金払いで、特に大見世は引手茶屋で揚屋差紙を書かせて、遊ぶ人間に対しての身分の保証人が居なければ遊べない。


 なので、年度末のつけが発生する余地はないし、遊んだ人間に金がなかったら請求は翌日に身分を保証した人間に行くんだけどな。


 また行商人である棒手振も基本的には全部現金払いだ。


 彼らの生活は半年ごとのつけ払いとかではたち行かないからな。


 だから、かけ払いと言うのは大店の呉服屋、米屋、味噌屋、酒屋など半年ごとの支払いでも持つくらいに資金力があるやつだけだ。


「まあ、踏み倒しの可能性のあるかけ払い自体やらんほうが本当はいいんだけどな」


 俺の言葉に妙が頷く。


「そうですよね」


 あと、つけ払いである掛売りをするのは、公務員であって支払いが安定している旗本御家人などの武家、長年付き合いがあって踏み倒しをしないと認められた信用のおける相手、大工の頭領のような普通に働いていれば間違いなく金を払える裕福な相手などだけで”掛取万歳”のような落語に出てくる家賃も払えないような貧乏な連中に対しては、食料品や炭など生活必需品であってもつけはきかないし、そもそも家賃を払わなければ家を追い出される。


 落語の様に去年踏み倒された相手にまた借金を踏み倒されては商売にならないからまあ当然だな。


 なので実際には大晦日の掛け金の取り立ての対象になったのは、天候不順や病気、作業中の怪我などの理由で思ったほど収入が得られなかった大工、左官、鳶などが多くて、そういった連中は仮病や居留守を使って家から出なかったり、一晩中、長屋の共同便所に身を潜めたりして取り立てから逃げた。


 まあ、結局つけを踏み倒した人間は信用を失うからその後は当然かけ払いはさせてもらえなくなって現金払いだけになるんでむしろその後の生活が苦しくなるんだけどな。


 銀兵衛親方なんかはまあ問題なさそうだけどな。


「まあ何かを買ったら金はちゃんと払うのが筋ってもんだぜ」


 ちなみに俺の見世は食料品は当然のこと薪炭や衣服なんかも全部現金ではらってるぜ。

 面倒事は起こしたくないし、年末になって金がなくなって困ったりしたくないしな。

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