10月になるともうすっかり冬だな、空気も乾燥するしそろそろ防火対策を進めようか

 さて、桜の身請けのゴタゴタも落ち着いた頃には10月になっていた。


 そして十月の最初の亥の日は亥子(いのこ)もしくは玄猪(げんちょ)だ。


 十月最初の亥の日の亥の刻(おおよそ22時)に亥の子餅を作って食べ、多産系の猪にあやかり子孫繁栄、万病除去、無病息災を願う日だ。


 その餅はもちろん登楼した客にも振る舞われるぞ。


 そして見世ではこの日より炉開きをおこないコタツを出し、袷(あわせ)から綿入れに衣替えを行う。


 三河屋では俺がやるが他の見世も同じことをやってるはずだ。


 西田屋は三代目に任せてある。


「おーい、寒くなってきたから綿入れを持ってきたぞ」


 いつものように太夫である藤乃から新しい服を渡し始める。


 無論ただじゃないが、遊女からぼったくることもしてない。


「ああ、そろそろ寒くなってきやしたからありがたいでんな」


 藤乃は笑って受取り、禿にもそれを渡した。


「戒斗様、寒くなってきたんでほんに助かるです」


 桃香も嬉しそうだ。


 本来であればこの時代における衣服というのは新品の反物を仕立てたものを買えるのは金のある人間だけだが、大見世の遊女はその金のある人間に入るわけだ。


 まあ、小見世くらいまでは何とかなるが流石に切見世の女郎には新品は高すぎるから彼女たちは古着を買ったり、袷に綿を入れ直したりするしか無いのだが、それでもまだ服を買えるだけマシな方だろう。


 農民は綿をかえないやつも多いしな。


 一般の家庭では古着を古着屋でかって夏になれば袷の糸を抜いて裏地をとり単に縫い直し、また秋になれば袷に縫い直して、冬になればまた糸を抜いて綿を入れ綿入れに仕立て直すということをする。


 そしてそれをやるのは基本全部奥さんの役目。


 家族全員の着物を全部手作業でチクチク針仕事をして仕立て直すのだ。


 針仕事専用の針子を雇ってやらせる場合もあるけどな。


 基本着物は洗濯する場合は糸を抜いた反物にしてから盥であらうので結局針仕事は必須なんだがな……。


 そして現状桜は花嫁修行の一環として針子から針仕事を習っている。


「桜、針仕事は大丈夫そうか?」


 桜は泣きそうだった。


「全然大丈夫じゃありまへんえ」


 俺は桜の方をぽんと叩いた。


「まあ、頑張れ」


「あい、がんばりんすよ」


 まあ、遊女は格子越しにほぼ外に近い場所で客をまたないといけないのだから大変だよな。


 切見世の女郎も外で客を引かないといけないし。


 俺は切見世女郎の様子を見に行った。


「どうだい、調子の方は」


「ああ、この新しい長屋だと暖かくて助かってますわ」


「おお、そいつは良かったぜ」


 石膏というのは断熱性も高く昼間の間に熱を溜め込んで夜に間に放出するので冬は温かいのだな。


 そして夏の間、土蔵にしまいこんでいた炬燵を若い衆が運び出しては綺麗にホコリを落として拭き上げ各部屋においていく。


 冬支度もこれで完了だな。


 この時代の10月は21世紀では11月だが、21世紀よりも寒冷なこの時代ではすっかり冬になるわけだ。


 そして空気が乾燥してきて火事も増える。


 この日から翌二月の末日までは夜中に拍子木を打ちながら火の用心を触れ回っていた。


 明暦の大火の記憶もまだ新しいが冬は乾燥している上に火鉢やこたつなどの暖房器具の使用の関係上どうしても火事が増えてしまうのだな。


「そろそろ吉原全体の防火や初期消火対策も進めるか」


 この時代においての消火は火事が燃え広がるのを防ぐために、もえている建物やその周りの建物を破壊する破壊消火という方式がメインだ。


 水鉄砲や龍吐水とよばれる木製の消火ポンプもあるにはあるんだが、実質的にはあまり役に立たなかった。


 性能的に水量や水を飛ばせる距離が短すぎたんだな、この時代にはホースもないし。


 そもそも江戸の最初の消防対応は初期は寛永6年(1629年)に創設された奉書火消だが、これは火事が起きてから、老中の名で大名に消火を行わせるための「奉書」を大名に送り、それから大名が人員を召集して現場に向かって消火に当たらせるというもので、実際には対応がおそすぎてには殆ど消火の役に立たなかった。


 さらには日頃から消防訓練をしていたわけではなく、火消しの役割分担も不明確というありさまだった。


 寛永16年(1639年)に創設された所々火消(しょしょびけし)は特定の場所の消火に当たるだけの組織。


 寛永20年(1643年)に創設された大名火消(だいみょうびけし)は担当が明確になり火事が起きた場合は火元に近い大名が出動するとされたので奉書火消よりはましになったのだが、火事の現場に向かうのに華美な装束に着替えてから行進したり、老中などの幕府の役人がくると火事そっちのけで挨拶に行ったりなどをして消防組織としてはまだうまく機能しなかった。


 その結果“日本史上最悪の大火”となった「明暦の大火」が発生し江戸の半分以上が焼けてしまったことで旗本に出動させる定火消(じょうびけし)が創設された。


 定火消は火事場の治安維持も担当し、鉄砲の所持と消防訓練も許可されていた。


 これは結構重要な事で実はこれまでの火消し組織には消防訓練を行う許可が出てなかったのだな、それではいざとう言うときに役に立たなくても仕方ないだろう。


 で、まあ定火消を命じられた旗本は、その妻子とともに火消屋敷と呼ばれるでかい屋敷に居住した。


 その敷地内には火の見櫓が設けられ火元を確認できるようになっていたし、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていて、この火消屋敷は現在の消防署の原型になった。


 その屋敷内には臥煙(がえん)と呼ばれる旗本に雇われた人足の寝起きする詰所があり、彼らは長い1本の丸太を枕として並んで就寝し、夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩いて、臥煙を文字通り叩き起こした。


 新吉原に移転する際に祭りの対応免除とともに、周辺の火事への対応免除というものが有ったが、それが吉原が火事になっても周りに協力を得ることができなかった理由の一つでもあった。


 最も太夫がいなくなり教養を身につけるための高価な書物が不要になると、吉原の外の仮宅での営業を望むあまり、意図的に消火せずにほおっておいたりした例も増えるのだが。


「太夫の消滅を避ける以上は火事対応もちゃんと行わねえとな」


 明暦の大火の後、店火消(たなびけし)と呼ばれる、町人が組織した火消は一応存在したのだが、火消人足の常時雇いは金銭的な負担が大きいことであまり広まらなかった。


 いろは組47組の町火消が定められるのは亨保年間からだな。


 ともかく消火を行うならいち早く消火する事が大事だ。


 個人では出火から3分以内が消火できる限度でそれ以上たったら江戸時代ではもう手の施しようがないと考えたほうがいい。


 そして消火に必要なものだが、冬場の江戸は雨水を貯めるのも難しい。


「なら油火災にも役に立つ防火砂の入れた桶を各見世に用意させるか」


 特に油火災に水は厳禁で燃えている油に水をそそぐと水蒸気爆発のようなものが起こってむしろ火が広まってしまう。


 現代では天ぷら油くらいだが江戸時代では行灯が普通の照明手段である以上油火災のケースも多い。


 こういう時は防火砂や濡らした大きな布で火をおおうことで酸素を奪って消火したほうが良い。


 そして寒くても寝るときや外出する時は火鉢の灰に埋まった炭火は掘り出して、火消し壷で確実に消す。


 火をつけるのが面倒だと台所の種火を残すのも厳禁。


 火打ち石での着火が面倒という人間には火付筒を売るということも加える。


 そんなことを惣名主名の書類を通じて各見世に伝える。


「これで少しでも火事が減ればいいんだがな」


 実際には煙管の残り火による失火とかもあるから完全には火事はなくせないとは思うけど、まあ大きな火事が減ってボヤで済むならいいんじゃないかね。

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