隅田川の花火の歴史は意外と古い

 さて、6月になると大川こと隅田川の水神祭が行われる。


 和暦の6月はグレゴリオ暦の7月になるので本格的に夏になるわけだが、旧暦5月28日より8月28日までが現在の6月から9月くらいまでになる。


 そしてこの時期は隅田川での魚とり・納涼・水泳なども許可される。


 隅田川に舟を浮べて遊ぶ舟遊びは少し前の慶安年間より始まったし、この時期は両国橋近辺の茶店、見世物小屋、寄席、食い物屋の営業が通常は日没までだったのが、夜半までの営業が認められていた。


 茶店などでは納涼床いわゆる川床も設置され河岸に足場を組み、その上に板と畳を敷いて卓を設えそこで飲食をするのが夕涼みとしてもてはやされた。


 花見のときと同じようにこの夜の夕涼みは女性達のおしゃれ自慢の場でもあるから、武家も町人も身分を問わず皆精一杯に着飾って出かけた。


 江戸の花火は元和6年(1623年)徳川家光が花火を奨励したのが始まりでこの頃には国内も収まって平和になり、その頃から砲術師が花火屋に転身し、寛永の頃にはかなり花火が行われるようになった。


 正保元年(1644年)には隅田川で民間花火が揚げられるようになるが、慶安元年(1648年)および慶安5年(1652年)には江戸市中での花火遊び禁止令が出るようになり、隅田川以外での花火が禁止されるがその後も寛文5年(1665年)、 寛文10年(1670年)延宝8年(1680年)にも江戸市中花火遊び禁止令の触れを出しておりようやくその後は出なくなったのでなかなか市中における花火遊びはなくならなかったようだ。


 そういったことから夏の期間は隅田川では夜に茶屋花火が行われるようになり、また花火船は船遊びの客の求めに応じて代金をとって花火を上げて見せるようにもなった。


 そして今年は隅田川では去年の明暦の大火による焼死者・溺死者や身投げした人間の供養、水難事故防止、船の航行の安全、川での豊漁、河川の氾濫防止などの川に関する様々な祈願のために水神祭が催される。


 隅田川の花火大会は、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げているが、正式な開始は8代将軍・徳川吉宗が享保18年5月28日に行った、川施餓鬼とあわせ、前年の享保の飢饉やコレラの流行によって多数の死者が出たためその慰霊と悪病退散を祈願する目的でおこなわれた川開きの日の水神祭の時に花火を打ち上げたのが、現在の隅田川花火大会のルーツとされている。


 まあこの当時にうち上げられたのは20発前後の花火で色もオレンジ色だけだったので21世紀現代のような何万発もの花火が色とりどりに咲き乱れる華やかなものではなかったがな。


 この頃は大名花火のほうが盛況で特に徳川御三家の尾張・紀州・水戸や仙台伊達家の花火は、その豪華さで大人気だ。


 町人の花火は現代のナイアガラのような縄に火薬を塗って様々な花の形にして楽しむ仕掛け花火が多かったが、武家の花火はお抱えの火術家・砲術家が担当することが多かったため、尾を引きながら上がり、空で弧を描く「のろし花火」が主体だ。


 この狼煙花火の技術を発展させ打ち上げ花火にしたのが鍵屋とその暖簾分けで腕を競った玉屋だな。


 夕方薄暗くなってくる前に三河屋、西田屋、玉屋共同で遊女たちがそれぞれ馴染みの客を呼び、客に金を払ってもらって一緒に吉原の外に出かける。


 それにくわえ惣名主の方の業務に携わってる秘書や美人楼などの従業員も皆連れて行く。


 今日は関係した見世の夜見世は休みだ。


 水戸藩や尾張藩、紀伊藩、仙台藩の女中なんかも来てるし当然警護の武士も居る。


 川では形代流しや、灯籠流しが行われ、小さな船に載せられて流されていく形代や灯籠に向ってみな手を合わせている。


「父さん安らかに眠ってくれよ」


「あなた、戒斗は立派にやっていますよ。

 だから安心してくださいね」


 見世の遊女たちも明暦の大火で全焼した時に死んだ同僚の遊女などの鎮魂を願って手を合わせて祈りを捧げている。


 隅田川の河原に幔幕を張りめぐらせて、その中で、緋色の毛氈の敷かれた上に、晴れ着に着飾った遊女たちが仕掛け花火を見物しながら、連れてきた客に酒の酌をしたり踊ったり三味線や琴を弾いたりして賑やかに楽しんでいる。


 奥女中の女たちも楽しんでるが警護の武士たちは大変そうだ。


 ちなみに万国食堂は出張屋台を出してるぜ。


 手軽に飲み食いできる点心やウーロン茶などの飲茶やクッキーやマドレーヌのような洋風焼き菓子と紅茶もだしてる。


 中でも人気なのはかき氷。


 こんな日のために取っ手をくるくる回して氷を削れる木製のかき氷器もつくった。


「さあさあ、よってらっしゃい、みてらっしゃい、冷たくてあま~いぶっかきごおりはいかがかな?」


 献立としては削った氷にそのまま砂糖をふりかけた「雪」、小豆餡をのせた「金時」、黒糖を湯で溶かした後冷やした「黒蜜」、真桑瓜(マクワウリ)の果汁を煮詰めて作った「甘露」、抹茶をかけ白玉と小豆餡をそえた「宇治金時」だ。


 かき氷自体は平安時代の貴族がすでに食べているけど、鎌倉時代以降は衰退した。


 しかし、江戸時代になると甲斐や信濃、加賀の氷室の氷が6月1日に将軍に献上されたりするようになる。


 前田家の加賀藩では氷と同時に、日本海で獲れる真鯛を一緒に運んで将軍家に献上していたりもする。


 江戸時代では北陸から甲信、北関東の山間部や東北辺りでは氷室の活用が盛んだったのさ。


 早速足を止めるものが居た。


「おう、ひとつくれ」


「へい、献立はなににします」


「雪を貰おうか」


「へい、ありがとうございやす」


 まあ暑いさなかに冷たいかき氷はやっぱうまいよな。


 ちなみになじみ客である御三家の若様や殿様、伊達の殿様などにはとっくに献上済みだ。


 それとは別に作ってるのが鉄板で中華麺とチンゲンサイと猪肉の薄切りを炒めて塩で味付けした塩炒麺、ようは塩焼きそばだな。


 客のお偉いさんたちも付き人が毒味した後食べてるぜ。


「うむ、これもなかなかにうまいのう」


 水戸の若様が早速食っている。


「たしかにこれはなかなかに美味ですな」


「うむ、たしかに水戸の若がはまり込むのも分かりますな」


「うむ、全く羨ましいことです」


 尾張の殿様も紀伊の殿様も伊達の殿様も笑いながら食ってる。


 やがて各藩のお抱えの火術家・砲術家が狼煙花火を打ち上げ始めた。


 ”どーん””どどーん”と花火が打ち上げられ空を彩る。


 そして手持ちの線香花火を持って桃香がやってきた。


「戒斗様一緒にやりんせんですか?」


「おういいな、やろう」


 俺は屋台の店番を若い衆に頼んで玩具花火で客や遊女たちと一緒に遊ぶことにした。


 和紙で火薬を包んだ線香花火はもうこの頃からある。


「じゃあ誰が一番最後まで花火を落とさないでいられるか競争するか」


「うむ、面白そうじゃのう」


「うふふ、負けませんよ」


 若様や殿様、遊女たちが交ざってみんなで線香花火を落とさないように楽しんだり、ねずみ花火や糸で吊るす回転花火に火をつけて回る姿を眺めたり、爆竹を打ち鳴らしたり、竹の節を抜いた筒に黒色火薬を詰めた立花火から花火が吹き出すさまを眺めたり、現代のロケット花火のような火を付けると空中を飛ぶ火箭を飛ばしたりして花火を十分楽しんだ。


 なかなか有意義な休みだったと思うぜ。


「今日は十分休みを楽しんだし、明日からまたみんなで頑張ろうぜ」


 藤乃が遊女を代表して答えてくれた。


「あい、わっちらもがんばりますわ」


 まあ、今日参加した客からも結構な金をもらってるし、藤乃や桜、鈴蘭や茉莉花、山茶花、楓なんかは結構客も参加してたみたいだし、稼ぎにもなったんじゃなかろうかね。

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