その頃の西田屋・庄司甚之丞の状況
「糞がどうしてこうなった」
吉原惣名主(よしわらそうなぬし)の庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)の後を継いだ遊郭西田屋の二代目、庄司甚之丞(しょうじじのじょう)は歯噛みしていた。
新吉原に移転してから店の経営はどんどん傾いていた。
三河屋の先代が倒れ、若い楼主が後を継いだとき、色々わけのわからないことをやり始めたがどうせすぐ潰れるだろうとほおっておいた、しかし手を広げた三河屋はなんだかんだで盛況で評判を上げていた。
一方西田屋や西田屋と同様のやり方をしている見世の評判は落ちるばかりであった。
「三浦屋に玉屋め、俺達は上方から来たとお高く止まってやがって、いけすかねえ野郎たちだと思っていたが、まさか裏切って三河屋につくたあどういった了見だ」
三浦屋と玉屋は脱衣劇の出番をすぐに自ら三河屋に返上していった。
馬鹿なことをと思っていたが結果としてそれらは彼らの見世の評判を下げすにすんだのだ。
しかし三河屋から出番を奪って行っている夕刻の昼店と夜見世の間の劇場における西田屋たちの脱衣劇の評判は散々だった。
半月がたった時点で二軒の見世は脱衣劇の出番を三河屋に返上していた。
劇場の使用料を払って脱衣劇を行っても割に合わないのが目に見えてきたからだ。
「俺の店の遊女の裸を見れるだけで町人共はありがたいと思わんのか!」
勿論そんなに単純ではない。
吉原の大店の遊女と言えば勿論江戸のアイドルのような存在だ。
だが、21世紀現代のアイドルにも人気や知名度、そしてその私生活に格差があるように、見世の大店の遊女にも人気や評判に差はある。
三河屋は脱衣劇をやるなら昼見世をやめるべきだと言ったが当然西田屋はそんなことはしなかった。
劇に出す遊女たちを昼見世や夜見世には出した上で早く起きて練習するように言った。
「お前ら見世への借金を返すためにもっと努力しろや!」
そう言われたところで睡眠時間が短くなれば余計に集中できなくなる。
昼見世や夜見世でも接客する遊女が脱衣劇で疲れた顔をして眠たそうにしていれば西田屋などの遊女の評判が下がるのは当然だった。
そして評判の低下の原因は西田屋が今までやってきたことのつけでも有った。
西田屋抱えの遊女の誰哉が斬り殺されたりなど決して西田屋の遊女の評判は良いものではない。
彼らは今まで大名から金をむしりとり、女を通じて堕落させることが徳川幕府の初代将軍徳川家康から与えられた役割でも有った。
金のない下級武士や女旱の町人の娘などの女に対しての乱暴狼藉を働かぬようにと造られたのが切見世では有ったが、大見世の役割はあくまでも大大名の戦意を削ぎ堕落させて改易をやりやすくさせるためのものだった。
西田屋の不幸なところは初代とは協力関係に有った徳川幕府に吉原を転移するように言われた時点ですでに見限られているのに気が付けないことと、同じく協力関係に有った旗本奴のように時代の変化についていけなくなっていた点だろう。
旗本奴の大小神祇組などはこちらが頭を下げておだててやれば、金を余分に払ってくれるお得意さんでもあり、商売敵に対しての嫌がらせなどもほのめかしてやれば勝手にやってくれる存在だったのだがつい先日幕府の手入れにより壊滅してしまった。
「俺たちに吉原大門の外での商売なんぞできるはずがねえのにどうなってるんだいったい」
勿論普通であれば遊女屋が吉原の外で商売をすることは出来ない。
しかし、歴史上ではそういった常識をぶち壊す人間も時代の変わり目に時折現れる。
思い返せば尾張の国人でしか無い織田氏が日本の天下に覇を唱えるなどと誰が思っただろうし、生まれのよくわからない豊臣秀吉が関白となって天下人になることなど誰も思いもよらなかっただろう。
今川氏の人質でしかなかった徳川家康が幕府をひらくなど思いもよらなかっただろう。
朱印船貿易で成り上がった豪商が鎖国でどんどん没落していくのを尻目に明暦の大火で材木問屋がのしあがるとは誰が考えただろうか?
そういった成り上がり者がいる影では没落していった名門がたくさんいたのだ。
土岐氏や今川氏、武田氏、上杉氏と云った名門が見る影もなく衰退したのはなぜだったのか?。
原因は色々あるが時代の変化についていけなかったというのが実情だろう。
「このままじゃきっと済まさねえ。
どうにかして三河屋を……」
そう考えていた西田屋はバタリと倒れた。
中風、現代で言う脳溢血が起こったのだ。
江戸時代の日本では調味料として塩が多量に用いられることと、穀物主体で肉をあまり食べないことから、脳溢血などの脳疾患も多かった。
そして倒れた彼は意識が戻らずに帰らぬ人となったのだ。
そしてその後に吉原惣名主として幕府から指名されたのは西田屋では無かった。
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