TURN3 アンジェリカ・ゴッドスピード
「奴は我々の中で一番の小物だにゃあ」
「ああん?」
書類の海に溺れていた魔王は、いきなりの言葉に軽く苛立った。
ペネペローペが組織を整備した事により、大量の報告や提案が魔王まで上がってくるようになったが、それをどう捌くか判断出来る中間層がいない。
それなりに広かったはずの部屋が、足の踏み場もないくらいに書類で埋め尽くされているのが、魔王軍の現状を現していた。
書類の処理に追われるトップなど、組織を整備出来ていない証拠なのだ。
そんな事を考え苛立っていた魔王は、その甘やかな声の主をぶん殴りたくなった。
「何の用だ、アンジェリカ・ゴッドスピード」
「用が無いと来ちゃいけないのかにゃあ?」
アンジェリカの気配は独特な物があった。
猫族特有の柔らかな足捌きと隠行は、魔王でも非常に気配を捉えにくい。
今も間合いの一歩手前で、山のように積まれている書類の上に座るアンジェリカの気配を、はっきりと掴めずにいる。
視界に入っているにも関わらず、だ。
これが何かの技なのか、魔術なのかすら、はっきりと理解出来ない事にも、魔王は苛立つ。
「猫の手も借りたい時に、ふらふら遊びあるいてる奴に取る時間はねえよ」
「ひどいにゃあ」
真っ赤な体毛が生えた猫に似た耳を、魔王の言葉など聞こえていないかのように、アンジェリカは撫でつけている。
元々の顔付きなのか、いつもにたにたと笑っているように見えるアンジェリカを、魔王ははっきりと気に食わないと思っていた。
「あちきは魔王様のために、真面目に働いてるのににゃあ」
「趣味以外でお前が動いてるのを見た事ねえよ」
「気のせいだにゃあ」
だが、それでも書類仕事を全くする気のない彼女を、苛立ち任せに叩き潰さないのは、利用価値があるからだ。
「で、何やらかしたんだ」
「吸血鬼族のお偉いさん、ぶっ殺しちゃったにゃ。 てへっ」
ぺろりと舌を出すアンジェリカに、魔王は頭を抱えた。
独立独歩を信条とする魔物達の中で、吸血鬼という連中は誇り高く、魔王の命令とはいえ滅多に聞き入れる事はない。
「くそっ、優秀過ぎるのも困るな!」
「照れるんだにゃあ」
「俺様の人を見る目を自画自賛したんだ。 くたばれ、疫病神!」
アンジェリカ・ゴッドスピードが、事務仕事など出来ないのはわかっていた。
組織を立ち上げる事も、軍を率いる事も、誰かの上に立つ事も期待していない。
本人もやる気はないだろう。
魔王が彼女に期待していたのは、たった一つだ。
「ああ、わかってるさ! てめえがやるのは殺しだけだってな!」
「にゃはははは」
内部で邪魔になりそうな相手を粛清する、という事だけ。
しかも、アンジェリカから挑発するわけでもなく、相手から手を出し、返り討ちとなる。
黙っていても魔王にとって邪魔な存在の首を必ず取ってくる辺り、アンジェリカ自身の優秀さがわかるだろう。
とはいえ、
「また仕事が増える……」
名目的に問題はなくとも、感情的に納得していない連中を丸め込み、取り込むのは非常に手間がかかる。
力で押さえ込むより、なるべくなら納得させて仕事をさせた方が効率がいい事を、魔王はここしばらくの激務の中で学んでいた。
殺し尽くした所で、書類は減らない。
全てぶち壊してしまいたくなる衝動を抑え、魔王は再び書類に目を戻す。
「あちきも真面目にお仕事しているだけだにゃあ」
「……くそっ!」
どれだけ腹立たしくとも、アンジェリカは魔王の期待に応えている。
応え過ぎている、と言うべきか。
しかも、タチが悪い事に魔王がキレる寸前を、きっちりと見切ってくる。
それがわかっているからこそ、手を出したら負け、という気分にさせられて、魔王はアンジェリカに手を出せない。
「お前、少しほとぼり冷ましてこい」
「にゃあ」
だが、さすがに魔王がアンジェリカを庇うのにも限界がある。
「フリードリヒの奴を連れ戻してこい」
「にゃあ」
書類に目をやっていた魔王は、アンジェリカの声に不吉な物を感じた。
「……何を考えてやがる」
アンジェリカの気配が乱れた。
これまでたゆたう雲のように、捉えどころのなかった彼女の気配がピクリと動く。
「楽しみだにゃあ」
「フリードリヒには手出すなよ」
フリードリヒは確かに強いが、あの巨体は武器であると共に弱点だ。
あの巨体では速度があろうと回避は難しく、厚い鱗を抜くだけの力がある勇者とかち合えば敗北は必至だろう。
魔王の構想ではフリードリヒを、人間の軍隊に当てるつもりだった。
個と個の戦いならアンジェリカに軍配が上がるが、群れと個の戦いならフリードリヒに軍配が上がる。
強さの質が違うのだ。
「勿論、わかってるにゃあ。 あちきは魔王様に忠誠を誓ってるにゃあ」
「死ねっ!」
「にゃはははは、ひどいにゃあ」
『トリックスター』のアンジェリカ、『炎』を与える前の彼女の二つ名を、魔王は思い出した。
彼女に敵も味方も、悪意も善意もない。
己が愉快と思う事を為し、ただ気まぐれに全てを焼き払うのだ。
本人は野心を隠しているつもりだろうが、よく顔に出るペネペローペの方がよほど可愛げがある、と魔王は心の底から思った。
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