二話 荷物は軽い方がいい、とは思っている
空が、広かった。
風は強く、千切れた雲が太陽にかかって薄暗く、鮮やかな旅立ち日和とはいかない。
しかし、今生では初めての旅である。
石造りの館と石造りの壁から見る空は、どうにもせせこましくていけない。
私は背後を振り返ると、生まれ育った街を見た。
辺境の蛮族から守るために、壁は下手な巨木より大きくぶ厚い作りになっている。
中の様子は窺えそうにはなく、館が見えるはずもない。
残念だな、と胸中から僅かに染み出るように寂しさに似た何かが湧き出た事に新鮮な驚きを感じるが、私という存在が同じ場所にこれだけ留まったのは初めてだった。
十や二十年も一カ所にいれば、そういう事もあるだろう。
欠けた月なら風情があるが、私の物知ずに味があるはずもない。
そんな欠けた部分を補うために万巻の書を漁れば、森羅万象を知れるのかもしれないが、それもどうにも生まれてこの方、物臭の性分で億劫であり書を紐解く気がないのだ。
まぁ百聞は一見にしかず、という言葉もある。
私は視線を地平の彼方へと戻した。
過去を懐かしむのはいつでも出来る。 いつの日か酒でも飲みながら、我が故郷を懐かしむ日が来るだろう。
とりあえず義理を果たしに王都までは行くが、兄も弟もいる以上、私が旅に出ようとも困りはすまい。
さて、行くと、
「お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
行くとしようか。
背後から聞こえる声変わり前の幼い声を無視し、私は足を踏み出した。
「お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
走るというのも大人気ないが、かと言って待ってやる理由もない。
他人との旅も悪くはないが、それも人次第だ。
「お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
速度を上げ、小走りと言ってもいいくらいの勢いで歩く。
だが、ただ歩くと言っても常に剣の工夫は怠らず、上体は動かさず、いつ何時襲われようとも対応出来る動きを意識する。
走れば身体が振れてしまい、それだけ隙が生まれてしまい、その事に恐怖すら感じるのは、恐らく私が特別に臆病なのだろう。
ならば、と歩くようにして走れるように工夫したのは我ながらどうかと思うが。
こんなくだらない工夫よりも、飽きずに田畑を耕す百姓のほうがよほど偉い。
「お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁおえええ……!」
最初よりも遠くなった声に、思わず私は足を止めてしまった。
振り返れば街道にうずくまり、げえげえと反吐をぶちまける男、というより少年の姿。
……昨日、宴で念入りに飲ませて潰したのが仇となったか。
このまま逃げ切れば、反吐が私のお見送り……どうにもそれは美しくない。
「……帰れ」
「お、お嬢様……まだお館様の話が……おげぇぇぇぇ」
仕立てのよい燕尾服を汚す事を厭う余裕もないのだろう。 四つん這いになり、草むらに頭を突っ込んでげろげろと吐き続ける彼の背を、私は仕方なくさすってやった。
「私は戻らないぞ。 いつまで宴が続くかわからないからな」
「そ、それでも貴族の子女が独りで旅に出るなど前例が!……おろおろおろおろ」
もう面倒になった私は言葉も返さず、彼が落ち着くまで待つ事にした。
街道を通る隊商が私達を珍獣を見るような目で見つめるが、燕尾服の少年と、一目でわかるほど仕立てのいい乗馬用の服を着た貴族の娘に声をかける者はいない。
親切心で声をかけても、どんな難癖を付けられるかわかったものではない以上、冷たいと罵るよりも普通だと思うべきだ。
私が逆の立場なら即逃げる。
「ありがとうございます、お嬢様……落ち着きました」
整った顔はまだ真っ青だが、彼はハンカチで口を拭うとよろよろと立ち上がった。
「しかし、なんですか、そのはしたない格好は!」
……また始まった。
私は見捨てておけばよかったという多大な後悔と、長年親しんできた諦観を胸に宿した。
「いい機会ですから、これを機にきちんと淑女としてのマナーを学び直しましょう! 勇者様とお会いになるのですから、お嬢様の恥はお家の恥……あれ、お嬢様どちらに」
「…………」
私はさっさと歩を進める事にした。
「お待ちください! 今、馬車を用意いたしますので!」
「馬車は好かない」
行雲流水、と気取るわけではないが、未だに屋根のある生活に馴染みがない。
馬車も楽ではあるが、元々が愚鈍な我が身である。
容易きに流れて、すぐに身体が萎えてしまうだろう。
「え、じゃあ」
「歩く」
「ご、護衛もお付きの者もおらずに!?」
「それで死ぬなら定めだ」
護衛がいようといまいと、死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる。
私にはただそれだけで充分だ。
「し、しかし、危険です! ああもう、すたすた行かないでくださいまし! ……ならばこの僕、」
「爺、口上が長い。 ……付いて来るなら、さっさと来い」
「あー、また爺と! 僕の名前は」
口うるさい所が爺むさい所から私は彼を爺と呼んでいる。
十四の子供にひどいかもしれない、と思うが、爺は生まれた時から私の従者として育てられ、妙に口うるさくなってしまった。
その事への抗議の意をこめて爺である。
本名を忘れたというのもあるが。
「付いて来るなら荷物を半分持て、爺」
背負い袋に詰め込んだ荷物は予め二つ用意している。
一つにまとめて背負うと、女の身である私にはなかなか厳しい。
肩だけでなく腰に負荷を逃がすような背負い方をするために、二つに分けてみたが、こうなってみれば幸運だった。
するすると腰に巻きつけていた縄を解き、荷物の半分を爺に投げ渡すと、受け取ろうとした爺が仰向けにひっくり返る。
「ぐえっ!? 重いですよ、お嬢様! 何が入ってるんですか!?」
潰れた蛙のように、無様に荷物に押し潰された爺の抗議を無視し、私は再び歩き始めた。
「というか両方……両方、持ちますよ! 僕は従者なんですからね!」
「……無理だろう」
歩みは止めず顔だけ爺に向けてみれば、生まれたての小鹿のように足をぷるぷる震わせながら立ち上がった所だ。
それなりに身体を動かしていた私とは違い、いつも家の中で執事の訓練をしていた爺の手足はほっそりとして、肌も真っ白できめ細かい。
そして、女の中でも大きくもなく小さくもない私より、頭一つ小さい背丈の爺ではあの荷物はなかなか重いだろう。
耳の辺りで丁寧に切りそろえられた茶のかかった艶のある髪といい、まだ男になりきっていない身体といい、男装している少女に大荷物を持たせているような気分になってしまった。
「諦めて帰ってくれ」
という私の親切半分、うんざり半分の言葉は、
「僕はお嬢様の従者です! お嬢様が行くなら例え地の果てだろうと、お供いたします!」
あえなく堅い忠誠心とやらに跳ね返されるのだった。
「まぁいいか……」
そのうち諦めて帰るだろう。
「遅れたら置いて行く」
「はいっ!」
無駄にいい返事をする爺。
「……難儀なものだなあ」
「何がですか?」
必死に荷物を担ぎながら、それでも声音だけは取り繕う爺を、
「なんでもないさ」
そこまで突き放す事の出来ない自分に、無性に腹がたった。
根を張れぬ風来坊が、どこで間違ったものか。
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