ヘプシング

安良巻祐介

 

 午後から、卵卿が来訪する予定である。

 なので、家を綺麗にしておかなければならないのだが、どうにも億劫でならない。

 机の上には真っ白い埃が積もっている。ずっと拭いていないせいだ。

 しかし、趣味の悪い私の机が、おかげでうっすらと靄の掛かったように美しくなって、むしろ丁度良いような気もするのだが、卵卿はお許しにならぬであろう。

 あそこの棚からハタキを取って、すぐにも掃除を始めなければならない。

 けれど、やはりどうにも、動く気にならない。

 壁に目をやると、異国のレース柄のような、複雑な網目模様が目に入る。

 蜘蛛が巣を張って、やがて出て行って、別の蜘蛛が巣を張って、出て行って、また別の蜘蛛が巣を張って……と、手の入らぬのをいいことに住人の交代を幾重にも繰り返し出来上がった、天然のタペストリーである。

 これなども、私が元々かけていた、どこのものだかわからぬ草臥れた垂れ幕などより余程洒落ているように思うけれど、卵卿が目にしたら、叫び声を上げてひっくり返ってしまうだろう。

 そこに掛けてある蜘蛛の巣取りで以て、丁寧に掻き取らなければならない。

 しかし、やはりどうにも、ここから立ち上がる気がしない。

 ため息をつくと、青白いふわふわとしたものが、視界をゆっくりと散っていく。

 黴だ。龕のところに積み重ねたパンの山から、時おり雲がちぎれるようにして離れては、辺りを舞っているのだ。

 これはこれでなかなか幻想的な光景だが、卵卿には見せられない。かの方は、黴を吸いこんだらきっとくしゃみが止まらなくなってしまうだろう。

 窓を開けて換気をして、日の過ぎた食糧を処分して、布巾でそこらを拭いてやらなければならない。

 けれど、私は座り込んだまま、動くことができない。

 電気の切れた、暗い台所からぼんやりと窓の外を眺めていると、曇った窓の向こうに降り続ける雨が、窓硝子にあつらえた模様のように思われてくる。

 随分と前から、ずっとそのままだからだ。

 暖炉には白い灰が降り積もって塔みたいな形を作っていて、もうずっと火は付いていない。

 卵卿を迎えるならば、部屋を暖めておかなければならないのだが、どうもあそこまで行く気にならない。

 時計も随分と前に壊れてしまったので、時間の経過すら感覚できないままである。

 机の上だけでなく、私の上にも、埃がうず高く積っているから、それなりに経っていることだけは、辛うじてわかるのだが。

 私は、卿の来訪を知らせる葉書の、半ば端がささくれて、消えてしまった字を見つめながら、考えた。

 卵卿は、ずっと前に亡くなったのではなかったか。

 それどころか、もうすっかり腐ってしまって、肉も落ちて、白い骨ばかりになって、どこかの塀の下に転がっていて、誰もそれを顧みないのではなかったか。

 手を伸ばして、散乱した手紙のどれかを開けば、確か何か書いてあったような気がする。

 けれど、やっぱり、どうにも、動く気にならないのだから、どうしようもないのだった。

 たぶん、午後になれば、はっきりするだろうとは、思うのだけれど……。



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