こいはつらい
ゆきさめ
こいはつらい
あたしの自慢は長く伸ばした黒髪でした。
赤い髪飾りがよく似合うね、と褒められると嬉しくてたまらなかったのです。ぱつんと切り揃えた黒髪に髪飾りの色が映えて、とても綺麗だと、そう言われるのが嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのです。
そもそもあたしが髪を伸ばし始めたのは、竜一郎さんが褒めていたからでした。
だからあたしは今日も山吹の着物を羽織って、赤い髪飾りを飾るのです。
「鈴子さん」
凛としたお声。竜一郎さんです。
竜一郎さんは近くの大学校に通われている、田口さまのところの次男坊。次男だというのに名前に「一郎」とついていることを、よく話の種になさっているのを聞きました。しかしあたしは、名前の示すとおり、竜一郎さんはいちばんだと思っています。
竜一郎さんはとても背の高いお方で、優しくていらっしゃいます。真っ白な立ち襟のシャツに、袴履きのすらりとしたお姿は、書生さんの鑑といえましょう。
お美しい方でした。
それはそれは、見目麗しい方でした。
そしてその内面も同様に整い、すっきりした方でした。それが竜一郎さんなのです。
「少し遅れてしまって、すまなかったね」
「まあ。いいのよ、お疲れさま」
向かい合うように座っている竜一郎さんは、困ったように眉を下げて微笑む。
「緊張するとすぐに腹を壊してしまうので、本当に困ったものだよ」
「うふふ。知っていますよ」
「大切な日だというのにまったく……ああ、また緊張してきて」
「困ったお方ね」
竜一郎さんは苦々しく笑うと、それからふと気づいたように小さく首を傾げます。そっと手を伸ばして、その指先を黒髪に飾られた赤いそれに、ああ、触れて……。
「赤いリボン、よく似合っているよ」
「手が震えているわよ、竜一郎さん」
「仕方ないさ。そういう君はどうなんだい」
どう、と問われて、あたしは考える。
あたしの頭の中は竜一郎さんのことでいっぱいです。いつだっていっぱいです。
あなたのお側にいたい、あなたと一緒にいたい。あなたのように素晴らしい方のそばにいることができれば、どれほど幸せか、世界で一番幸せに違いないのです。
けれどこんなこと、とても口には出せませんから。
「どうって、そうね、お腹は痛くないわ」
「さすが鈴子さんだね。見習いたいよ」
「竜一郎さんったら」
くすくすと口元を隠して上品に笑う竜一郎さんの仕草に、目が離せない。
「初めて出会った頃を思い出すね」
「ええ」
竜一郎さんに初めて出会ったのは、桜も散りきった春の終わり。
竜一郎さんが黒髪を褒めてくださっていたのが、その時でした。『赤いリボンがよく似合うね』とそう、確かにそうおっしゃっていたのです。ちょうど今のように優しく柔らかな笑顔でおっしゃっていたのです。
そのとき、その瞬間、あたしは竜一郎さんに恋をしたのです。
ああ、この人が好きだと。そう心から思ったのです。
「あの時はこんなふうになるだなんて、思ってもいなかったよ」
「お嫌ですか?」
「まさか! 君こそ」
「わたしは幸せですわ、竜一郎さんのところへお嫁に行けるだなんて」
そう、世界一の幸せ者……。
「ああ、それで、式のことだけど」
式とは本当に早いもので、婚約してすぐのことでした。元々のお付き合いが長いともありまして、反対する人などいませんでした。むしろ両家が手を打って喜ぶくらいでした。
「……うん?」
首を傾げる竜一郎さんの髪がさらりと立ち襟に流れる。すっとした切れ長の、優しげな瞳が、襖へ向けられる。襖と襖の間にできた細い影、ほんの僅かに廊下と繋がったその陰へと向けられる。
細められた目、引かれる口角。
あたしが大好きな、微笑でした。
「静絵ちゃん、そんなところにいたのかい」
ああ、ああ、あたしがもう少し、あとほんの少しだけ大きかったならば!
背伸びをしたって爪先でふらふらと立ったって、大きくなんてなれないのです。
赤い飾りは、どうせあたしの頭には少し大きいのよ。鈴子おねえさまには叶わないのよ。いくらおねえさまの陰で竜一郎さんを見つめていたって……。
それでもね、あたしはきっとこの先も黒髪を伸ばして、赤い飾りをつけて、それでおねえさまに会いに行くふりをして竜一郎さんに会いにいくの。
「静絵ちゃん、こっちへおいでよ」
恥ずかしくなって、あたしは襖をぴしゃりと閉めて自分の部屋へ走って戻った。
自分の部屋で、枕に頭を埋めて声を噛み殺すしか、あたしにはできないの。
微笑んでくれるだけで、今も、もう、十分なのだから。
こいはつらい ゆきさめ @nemune6
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