レストランでのひと時

    ワシントン州 サンファン諸島 二〇一五年五月二三日 午後六時〇〇分

 夕食時ということが関係しているのか、香澄たちが思っていた以上に道が混んでいた。だが車が止まるほど渋滞しているわけではなく、当初の予定より一〇分遅れで彼女たちはレストランへ到着した。バックドア キッチンという名のレストランで、フライデー・ハーバーのすぐ近くにあり、美味しい地元料理を出すお店として評判も上々。

 フローラは近くに設置されている駐車場へ車を停車後、お店へと入る。そこで、

「すみません。私、本日の午後六時に予約を入れたハリソンと申します」

自分の名前を名乗ったうえで、予約していることを若い男性店員に伝える。レジ横に置いてあるノートをめくりながら、

「……先日ご予約いただいた、フローラ・S・ハリソン様ですね? お待ちしておりました。お席はご用意しておりますので、こちらへどうぞ」

彼女たちを心から歓迎し、用意していた席へエスコートする。“ありがとう”と一言お礼を言いつつも、彼の後について行く続くフローラたち……

 

 彼女たちが席に着いてから数分後、シンシアとモニカの二人組、そしてエドガーが到着する。彼らの姿を確認したフローラは、

「みんな、こっちよ!」

彼らに見えるように右手を上げる。フローラの声を確認した生徒たちは、空いている席へと順番に座った。半日ほど歩き回っていたためか、彼らの表情にはどこか疲労の色が見える。

 全員席に着いたことを確認後、サークル顧問としてフローラが一言挨拶する。

「みんな、今日は色々とお疲れ様でした。サンファン諸島に来て良かったと思ってくれたのなら、それだけで私は嬉しいわ。明日もあるけど、今日の観光はこれで終わりよ。……みんな、乾杯!」

 一通りの挨拶を述べた後、テーブル席に置かれていたワイングラスを前に差し出すフローラ。中にはすでに飲み物が入っており、フローラはワイン。生徒たちのグラスにはオレンジジュースが入っていた。生徒たちも“乾杯!”とグラスを鳴らし、世間話を楽しみながら、運ばれてくる食事を各自堪能する。

 バックドア キッチンではサンファン諸島ならではの地元料理が楽しめ、観光客の間でも評判の良いレストラン。特に観光シーズン時においては、今回のように事前に予約を入れておかないと入れないことが多い。


 フローラやジェニファーと楽しく会話をしながら、香澄は時折エリノアの様子をうかがっている。フローラが両名に注意してくれたとはいえ、脅迫状を受け取っている以上、油断は禁物だ。実は脅迫状のことを、香澄は誰にも話していない。

 いじめ問題だけでなく、盗難未遂事件のことで頭が一杯になっている様子を見せるフローラ。一方で香澄は、“これ以上フローラの悩みの種を増やしたくないわ……”と心配している。また“必要な時はいつでも頼ってね”とフローラから言われたものの、“人に頼ってばかりいては、自分のためにならないわ”と思う香澄。

 そんな彼女の真面目さと人を思う優しさが重なった結果、“脅迫状の一件は、誰にも口外しないことにしましょう”という結論に達した。


 だが香澄の心配も取り越し苦労だったようで、シンシアとモニカの両名がレストラン内で問題を起こすことはなかった。一瞬胸を下ろすが、“まだ油断は出来ないわ”とすぐに気持ちを切り替える香澄。

 和やかな雰囲気にしては、眉を細め眼光を鋭くする香澄。そんな彼女の様子を不審に思ったのか、

「どうしたの、香澄? どこか具合でも悪いの?」

フローラが香澄の体調を気遣う。だが彼女はすぐに、“いえ、少し疲れただけなので大丈夫です”と当たり障りのない言葉を交わし、とっさにその場をやり過ごす。

 

 世間話をしている間にバックドア キッチンでの食事は無事終了となり、これで一時解散となった。フローラは持っていたクレジットカードでお会計を済ませ、そのままお店を出ようとする。だがそこへ、

「あの……あなたってもしかして、以前新しい本を出版された、美人臨床心理士のフローラですよね? 僕、あなたの書いた本の大ファンなんです!」

フローラのファンだと言う若い男性店員が、こっそりと話しかける。

「えぇ、まぁ……ありがとう」


 フローラは臨床心理士として数多くの実績を残しているだけでなく、書籍も出版している。内容はすべて心理学に関するものだが、いずれも実生活に直結する書籍が中心。しかも専門書のように堅苦しいものではないため、老若男女問わず彼女のファンは多い。

「あ、あの。もしよろしければ……あそこに展示している先生の書籍に、サインしていただけませんか?」

そう言いながら、若い男性店員はお店に飾ってある、『一般家庭と密接な関係の心理学』という数ヶ月前に出版したばかりの書物を指す。同時に“先生”と呼ばれて少なからず気持ちが舞い上がっていることもあり、

『……まぁ、サインぐらいならいいかしら? “私の本をお店に飾っている”って言っていたから、悪いようには使われないと思うし』

結局サインに応じることにした。


 問題ないだろうと判断すると同時にと本にサインを書き終えたフローラは、

「これでいいかしら? はい、どうぞ。……お仕事頑張ってね!」

と言いながら若い男性店員に返す。憧れのフローラにサインをもらえて興奮したのか、

「……は、はい。ありがとうございます!」

思わず店内に響き渡るほどの大きな声を出してしまう。

 そんな彼の初心うぶな反応を見たフローラは、“ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのよ”と若い男性店員を少しからかいつつ注意する。真面目な性格の相手を時々からかうことがあるフローラだが、これも彼女なりの愛情表現なのかもしれない。


 レストランの出口周辺では、フローラが戻ってくるのを待っている香澄・ジェニファー・エリノアの三名。シンシアとモニカらは先に宿泊先へ戻り、エドガーは“もう少し周辺を散歩するよ”と言い残し、一人先に街へ消えてしまった……

「……ごめんなさい、遅くなって。みんな、待った?」

少し息を切らしながら、香澄たちの元へ駆け寄るフローラ。しかし一部始終を遠くから見ていたジェニファーは、

「フローラさん。さっき若い男の店員さんと、何か話されていましたけど……」

“何かレストランで問題でもあったのかしら?”と思い、フローラに質問する。

「いいえ、何もないわよ。ちょうどあのお店に私がこの間出した本が置いてあったから、サインを頼まれていただけよ」

何もトラブルは起きていないことを、しっかりと説明するフローラ。

 その後何事もなかったかのように、宿泊先のトランペッター インへと車を走らせる。


   ワシントン州 サンファン諸島 二〇一五年五月二三日 午後一一時〇〇分

 バックドア キッチンで地元料理を堪能した香澄たちは、そのまま宿泊先のトランペッター インへと向かった。フライデー・ハーバーやバックドア キッチンから車で約二マイル(約三.二キロ)の場所にあり、ここも観光客の評判が良い宿泊施設の一つ。料金も比較的リーズナブルで、学生同士の宿泊先としてもぴったり。

 フロントで鍵を受け取った後、“今日はお疲れさまでした。お休みなさい”とあいさつをする。その後各自部屋へと戻り、荷物を下ろしながら各自寝支度をしている。なお部屋は基本的に二人一部屋のダブルルームとなっており、部屋の割り当ては一〇一号室に香澄とエリノア、一〇二号室にジェニファーとフローラ、という組み合わせになっている。

 各部屋に備え付けてあるシャワーを交代に利用し、体を綺麗にする香澄たち。その彼女たちは部屋に置いてあるベッドに入り、サンファン諸島の風に揺られながら一日の疲れを取る。

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