Emotional scars(心の傷)

香澄を呼び求める新たな風

                序章(一章)


         東京都 香澄の自宅 二〇一五年四月五日 午後九時〇〇分

 季節は桜が咲く四月を迎え、日本では新たに学校へ入学・会社へ就職するといった動きが盛んになる。出会いと別れの季節でもあり、それぞれが新たな道を歩み始めようとしている。


 そんな思いがめぐる中で、つい先日日本で公演を終えた新人女優 マーガレット・ローズが親友や知人から祝福を受けていた。彼女はワシントン大学を卒業後、ワシントン州にあるベナロヤホール所属の劇団員となる。元々あまり真面目に勉強するタイプではないが、お芝居に関する情熱や熱意は人一倍。体を動かすことが好きな性格でもあるため、色んな役を演じられる役者は、マーガレットにとって天職なのだろう。

「……メグ。日本初公演、お疲れさまでした!」

マーガレットを祝福している人の輪の中に、クラッカーを鳴らす二人の若い女性がいる。


 一人目は日本人で、学生時代からの親友高村たかむら香澄かすみ。マーガレットと同じくワシントン大学卒の女性で、心理学を学んでいた。元々は臨床心理士を目指していたが、学生時代に体験したある出来事がきっかけで、心に深い傷を負ってしまう。そのことがきっかけで、一時的に生まれ故郷の日本で暮らしている。


 マーガレットを祝福する二人目の女性は、アメリカ人のジェニファー・ブラウン。香澄より一歳年下の後輩で、彼女と同じ心理学を学んでいる。本が好きな大人しい性格の女性で、顔の輪郭や体付きなどが小柄なことが特徴。年齢的に成人しているのだが、どこか幼さが残る少女のような面影を残している。

「ありがとう……香澄、ジェン。みんなの応援のおかげで、何とか日本公演を終了したわ」

公演を終えたばかりのマーガレットの顔には、いつになく満面の笑みがこぼれている。

「いやいや、謙遜けんそんしなくてもいいんだよ。メグはそれだけの結果を残しているんだから、もっと自分に自信を持つべきだよ」

「……ほんの数年前まではワシントン大学の生徒だったのに、それが今では世界で活躍する舞台女優。……時が経つのは本当に早いわね」


 落ち着いた口調でマーガレットを祝福しているのは、ワシントン大学で教授をしているケビン・T・ハリソンと、教職員のフローラ・S・ハリソン。大学で英語と日本語を教えるハリソン教授と、現役臨床心理士として活躍するフローラの評判は、大学構内でも上々。同時に幼少期のマーガレットを知る数少ない人物でもあり、彼女自身ハリソン夫妻のことを心から信頼している。

「もう、ケビンにフローラまでおだてなくていいよ! でも数ヶ月後にはベナロヤホールで練習再開だから、そんなにうかうかしていられないのよ。……というわけだから、またしばらく二人のお家にやっかいになるわ」

「えぇ、その点は心配しないで。もう部屋は綺麗に掃除してあるから、いつ戻ってきてもいいわよ」


 テーブルに置かれた飲み物を飲みながら、世間話を楽しんでいる一同。そんな穏やかなムードの中で、左手にワイングラスを持っているフローラが香澄に視線を送る。

「……ところで香澄。先月あなたに伝えた、どうするか考えてくれた?」

そう優しく問いかけるフローラの唇の動きを読みながら、香澄はその問いかけにそっと返すだけ。

「え、えぇ……まぁ……」


 マーガレットへ祝福の言葉をかけていた時とは一変して、香澄の表情にはどこか陰が見え隠れしている。時折マーガレットが視線を向けるものの、目が合うと香澄は目を下へ向けてしまう。どうやら香澄自身、常に明るく前へ向かって歩き続けるマーガレットの性格を、どこか羨ましいと思っているのかもしれない。その一方で自分の世界に閉じこもっていることに対し、香澄はどこかコンプレックスを抱いているようだ。

 ちなみにフローラが香澄へお願いした例の件の内容は、次の通りである。


        『フローラが香澄へお願いした内容について』


一 フローラの仕事が忙しくなってきたことを踏まえて、本格的に香澄へ彼女の助手をお願いした。現役臨床心理士の助手になるため、香澄がかつて目指していた夢(臨床心理士になること)への近道でもある。

二 その内容とはフローラが務めるサークルの代理顧問。心理学の知識を活用出来るサークルなので、香澄にぴったりだとフローラが判断した。

三 香澄がワシントン大学を卒業してから今日まで、約一年が経過している。そんな香澄のことを心配したフローラが、彼女なりの方法で社会復帰の支援の道を用意した。

四 フローラの助手という扱いになるため、香澄の立ち位置が少し変わる。一時的ではあるが、勉強を教わる側から教える立場へと変わることが大きな特徴。また二〇一五年秋学期(八月下旬~九月)以降は、ワシントン大学心理学科の大学院生となる予定。

五 住まいは以前と同じように、ハリソン夫妻の自宅に同居という形になる。本来ならマーガレットと二人で暮らしても良いのだが、心の傷が完治していないことを配慮した上での対応。同様の理由から、マーガレットもハリソン夫妻の自宅に同居することを快く承諾した。

六 香澄がアメリカへ帰国するのは、四月末を予定している。その間に香澄の両親にしっかりと事情を説明し、承諾を得ることが条件。またワシントン大学での勤務については、翌月からを予定している。


 これらの内容を総合的に判断して、自分自身に問いかけながらもどうするか考えていた。だが自分が大学を卒業してから約一年が経っており、何より香澄自身も社会復帰出来るチャンスを心待ちにしていたようだ。しかも幼いころから知るハリソン夫妻と同じ職場ということもあり、香澄の心の答えはすでに決まっていた。

「久しぶりの社会復帰なので、ご迷惑をかけることもあるかと思いますが……私!」

 香澄の心の声とも呼べるこの言葉は、ハリソン夫妻だけでなく親友のマーガレットとジェニファーの顔も一気に明るくなる。……言葉にこそしなかったものの、彼女たちなりに香澄の将来のことを心配していた模様。むしろ“彼女の提案を断るのでは?”と内心思っていたほどだ。

「ありがとう、香澄。あなたならそう言ってくれると、私は信じていたわ」

 

 そう言いながら感謝の気持ちを込めて、香澄の体をそっと抱き締めるフローラ。と呼ばれるこの習慣は、欧米では歓迎や挨拶の意味などで使われることが多い。だが日本にはない習慣なので、これも欧米ならではの文化なのだろう。

 数秒ほどのハグが終わり、そっとフローラの体を離れる香澄。だがその顔には笑みがこぼれている一方で、

「……正直なところ、少し不安です。あなたのようにしっかりとした実績や経験もないので、きちんと相手の悩みを解決出来るかどうか……」

“私みたいな未熟者に、フローラのように上手く出来るかしら?”という不安の気持ちが香澄自身にも残っていた。だがそんな彼女の気持ちを知り、“あなたはあなたなりの方法で、相手の心の悩みを解決すれば良いのよ”と優しくフォローしてくれた。

「確かに来月から本格的にお仕事が始まるから、香澄も不安だと思うわ。でもね……これだけは忘れないで。あなたの側には、そしてお友達のがいることを……」

「新しいことに挑戦する不安な気持ちは、僕らも分かっているよ。だけどねカスミ……君にはことを忘れていないかい? 君やメグ、そしてジェニーは僕らにとって実の娘のような存在なのだから、困ったことがあったらいつでも相談してくれ。……いいね?」

「フローラ……ケビン……ありがとうございます」


 あくまでも表向きは香澄の身を案じているハリソン夫妻だが、心の奥底ではとなることを恐れているようだ。……優等生で真面目な性格の香澄は、新しい知識を吸収することにおいては素晴らしい才能を発揮する。

 だがその一方で、自分の悩み事を人に話すことが苦手という欠点もある。香澄のような性格の人ほど、ストレスを綺麗に消化することが不得意な傾向がある。そんな香澄の性格を熟知しているハリソン夫妻だからこそ、今回の案件を提案したのだ。

「香澄……親友のあなたが苦しむ姿を見るのは、私もつらいんです。私はあなたみたいに頭が良くないから、出来ることなんてないかもしれない。でもそんな私でも愚痴を聞いたり、他愛のない世間話を聞く相手になることくらいは出来ます。だからお願い……そんなに……


 これまで口を閉ざしていたマーガレットも、新たな道を歩み始めようとしている香澄を激励する。

「私を見てみなさいよ、香澄。こんないい加減な性格の私でさえ、しっかりと社会貢献しているのよ。私に出来ることがあなたに出来ないなんて、そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう!? もっと!」

若干自虐ネタを踏まえながらも、彼女なりの方法で香澄を励まし続けている。


 彼女たちの心の声を聞き、改めて“自分のことをこんなに心配してくれる人がいる”と、人の存在の大きさを学ぶ香澄。その瞳からはうっすらと涙がこぼれ落ちる……左手を伸ばしテーブルに並べられている1枚のティッシュを取り、その手で涙をぬぐう。

「……ありがとう、みんな。私にはこんなにも心強いがいるのね」


 最初は胸に心の声を押し殺していた香澄だったが、彼女たちの本音を知り、涙のこぼれ落ちる量が少しずつ増えていく。“あなたは一人ではないわ……”という気持ちを知りつつも、再度香澄を抱きしめるフローラ。だが最初のハグとは様子が少し異なり、今度は香澄の頭を撫でながら、彼女の気持ちを正面から受け止めている。

 そんな香澄の姿を見て、思わず涙ぐんでしまうマーガレットとジェニファーの姿があった。


 知人や親友らに励まされることで、社会復帰の道を獲得した香澄。香澄の後ろ姿を後押しするかのように、マーガレットは最近の彼女の様子を報告した。

「……彼女はこんな弱気な発言していますけどね。香澄ったら、今でもしっかりと勉強しているのよ」

「ちょっとメグ……そのことは“後で私から話す”って言ったじゃない!?」

「まぁまぁ、いいから。こういうのは言ったもの勝ちなのよ」

“相変わらずの性格ね”とあきれながらも、それ以上は何も言わなかった香澄。それに合わせるかのように、一人話を続けるマーガレット。

「実はね、みんな。日本に戻ってから、香澄は新たにお薬の勉強をしているの」

「お薬というと……のことかい? カスミ」

 ケビンの素朴な問いかけに、少し照れくさそうに首を頷く香澄。“臨床心理士の仕事で薬の処方が出来ないことは知っていますが、それでも役立つと思って個人的に勉強しました”と、続けて補足説明をした。彼女なりの臨床心理士として働く未来像が、しっかりと描かれているようだ。

「……それを聞いて安心したわ。この世界は常に向上心を持つことが重要だから、少し心配していたのよ。でも……香澄はもう大丈夫そうね」


 それから数日後、“お仕事の関係で、来月からアメリカに行きます。宿泊先はハリソン夫妻のお家なので、何かあればいつでも連絡してください”と、自分の両親にしっかりと事情を説明する香澄。突然の報告なので両親は少し戸惑っていたものの、香澄自身が生きる意欲を取り戻したことを心から喜んでいた。何よりアメリカではハリソン夫妻が近くにいるため、彼らなら自分の愛娘を任せられると心のどこかで思ったのかもしれない。

 色々と香澄から事情を聞いた両親は、彼女の社会復帰を正式に承諾した。何より一年近くも塞ぎこんでいた愛娘が生きがいを取り戻したことが、彼らにとって最高の喜びなのだろう。


         東京都 羽田空港 二〇一五年四月二九日 午後一〇時〇〇分

 両親から正式に許可をもらえた香澄は、親友のマーガレットと一緒に羽田空港で飛行機の到着を待っていた。その間2人は香澄の両親と世間話を楽しみ、再度の別れまでの時間を惜しんでいる。

 そして二〇一五年四月二九日の午後一〇時〇〇分。シアトル・タコマ空港行きの飛行機へ登場した香澄とマーガレットは、第二の故郷アメリカへのフライトを堪能していた。

 この先彼女たちには、一体どんな未来が待っているのだろうか?

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