番外編3 双子の犬③ もう一匹の犬の人生
たっぷりと時間をかけた遅めの朝食の後。
ディオグが腹ごなしの運動に庭園に散歩に出かけたので、キエンも護衛としてそれについて行く。
宮殿には庭園がいくつかあるが、今日のディオグが選んだのは元々あった森を活かして造園された木陰の多い場所だった。
宮殿が建っているのは森の奥の湖から流れる幾筋もの川によって育まれる自然豊かな地形が広がっていた場所であり、あたりには様々な植物が生えている。
中でも特に鬱蒼と茂って森を形作る紅樹はぬかるんだ土地にうねるように根を張り、くるりと渦をまくシダの新芽とともに独特の景観を生み出していた。
「散歩もできて、空気も良い。良い庭園だよね。ここは」
ディオグは深い緑の中で、深紅の衣を軽快に翻して歩いていた。
森では赤や黄色の色鮮やかな花があちこちに咲いているが、それらのどんな花よりもディオグの国王らしく装いを凝らした姿は目を惹いた。
「夏でも涼しいっていうのが便利ですよね」
主であるディオグの隣をついて歩きながら、キエンは言った。
衛兵として動きやすい服装をしているキエンはともかく、揺れる飾りのついた歩きにくそうな金銅の靴を履いたディオグがこの深い森の中を楽に歩くことができるのは、この森が庭として整備されているからである。
ぱっと見ただけではわからないようにさりげなく、ねじまがった根や枝を切り払い土は踏み固めることで着飾った貴人も歩きやすい道が作られている。
ここでは全てが自然そのままのように見えて、実は何もかもに人の手が入っている。宮殿の豪奢な建築のように一目で理解できる形ではなくとも、権力者を楽しませるために支配された空間なのである。
魚の住む小さな池や、休憩場所としてちょうど良い倒木を含めて、宮殿の周辺は聖域以外だいたいそんな自然に見せかけた土地ばかりだ。
同様にディオグの統治もまた、全てが支配らしい支配として行われているわけではない。
だからもしかしたらキエンもまた自分らしく生きているように見えてはいても、実はこの自然そのままであるようでいて違う庭園のようにディオグの支配下にいるのかもしれない。
深い紅樹の森の庭園を奥へと進むと、川のほとりに立つ東屋のように良い具合に生えている木がある。
その木の根に腰掛けて、ディオグはキエンの方を見ずに尋ねた。
「やっぱり、リウンがいないと軍隊の方も忙しい?」
「はい。まあ、今まで俺がさぼっていただけかもしれませんが、忙しいことは忙しいです」
キエンは一応護衛としてディオグの隣に立ち、答えた。リウンがいなくなってひと月ほどがたつが、こうしてディオグに彼がいなくなってからの近況について尋ねられるのは初めてのことかもしれなかった。
はっきりしない答えをキエンが述べると、ディオグは頬杖をつき深いため息をついて愚痴のようにこぼす。
「そっか。僕もね、リウンがいないと何か物足りないんだよね。犬が死んでも代わりの犬を飼えば平気になるって言うけど、まだちょっと僕はあの子がいないことに慣れない」
時折ディオグはリウンのことを、子供か愛玩動物のように「あの子」と呼ぶ。ディオグはリウンを虐げながらも可愛がってた。それは人が犬の頭を撫でるような愛情だった。
だから今は喪失感を感じていても、ディオグはいつかはきっとリウンがいない日々に慣れてしまうだろう。犬は犬でしかなく、代わりは何匹もいるのだ。
無論、キエンもリウン同様にディオグにとって代わりのいる犬でしかなく、今日何かがあってキエンがディオグを守って死んだとしても、ディオグは多分ちょっとした感傷くらいにしか浸らない。
ディオグもそこのところは自分でもよく理解しているらしく、少し声色を変えてキエンに言った。
「でもキエンは僕よりもリウンと付き合いが長いから、もしかするともっとつらいかもしれないね」
いつも以上に妙に甘い声で、ディオグがキエンの気持ちを慮るふりをする。
「そうですね……」
結局すべてをこの男に理解されてしまうのはどうにも気に入らないとささやかな反感を覚えながらも、キエンはディオグの言葉を肯定した。
生まれた日から二十数年。
キエンの日々は常にリウンとともにあった。
木々の隙間から漏れる日差しの光にきらめく川辺の水面に映る自分の顔を眺めて、キエンはリウンがいたときのことを思い出す。
水面の向こうに見える黒染めの服を着て腕を組む長身で精悍な男の姿は、キエンであると同時にリウンでもあった。
◆
まだリウンもキエンも都に来たばかりで幼く、背も今の腰の高さくらいしかなかった頃。
当時はまだ王弟だったディオグに殴られたり薬を飲まされたりして弱ったリウンを、牢獄へ迎えに行って連れ出すのはキエンの役割だった。
キエンは毎回ディオグの加虐が終わったときを見計らって、ぼろぼろの雑巾か何かのようになったリウンを背負って自室に連れて帰っていた。
過酷な折檻の結果、たいていリウンは一人では立ち上がることもできない状態になっていて、酷い時には呻き声も満足に出せないほどに憔悴しきっていた。
キエンはリウンを連れて戻ると、半ば意識を失っているリウンに水を飲ませ、汗に濡れた服をかえて寝台に運んだ。
物事の加減を知る非人道的な支配者ディオグの手によってぎりぎりまで苛め抜かれた幼いリウンは、いつもキエンの腕の中で死ぬ寸前の小動物のように熱に浮かされ震えていた。
キエンと同じ姿をしたリウンが、人として踏み躙られたくさんの痛々しい傷を負っているのを見ると、キエンはいつも不思議な気分になった。
息をするのも苦しそうなリウンはキエンを信じきっていて、言葉を紡ぐこともできずに赤子のようにキエンの意のままになってその手に身を任せていた。
痣だらけのリウンはキエンに身体にふれられる度に痛がるのだが、キエンを信頼しているリウンは苦痛も受け入れてじっとくちびるをかんで耐えていた。
目じりに乾いた涙がこびりついた潤んだ瞳で、リウンは懸命にキエンに焦点を合わせて見つめる。
そういうときにキエンは、同情や憐憫ではなく暗い喜びを感じながら、リウンの額に浮いた汗を拭ってやるのだった。
双子のようによく似た、濡れて汚れた寝台の上で同じ時間を過ごす半身と半身の二人。
しかしリウンは弱者で、キエンは強者だった。
弱くて可哀想な存在に頼られ求められるとき、キエンは自分が絶対的な何かになれた気がして嬉しい気持ちになった。
人が人に優しくすることができるのは、そうすることで人を虐げているときと同じくらい他者に対して上に優位に立つことができるからだろうと、キエンは思う。
リウンの面倒をみることで、キエンは人間が家畜や子供、奴隷を求める共通の理由を理解する。
飼い主であり、親であり、主君であることは、その閉じた関係の中で永遠の絶対を手に入れることである。
だからこそ人は、多少の苦労を引き受けてでも未熟で弱いものを助けて支えてやろうと思えるのだ。
そうして自覚した自分の歪んだ庇護欲を、キエンは厭うことなくリウンに向けてもう一つの檻に閉じ込める。
それがディオグに与えられた、キエンの一番に重要な仕事だった。
あの穏やかな草原の邑では気付かず見過ごしていた人の性を、キエンはディオグのもとで一つ学び知ったのだ。
◆
しかしそんな日々も、遠い昔の話である。
キエンとリウンが成長してからは、ディオグはリウンを直接痛めつけるよりは精神的な負荷をかけることに重点を置くようになった。
リウンが悪夢にうなされた夜はキエンが起こして介抱してやることもあるにはあったが、リウンがキエンに弱みを見せる機会はめっきり減った。
そして今、リウンはもうキエンのもとにはいない。
もしもリウンが無事に生きのびているのなら、キエンの果たしていた役割はあの異世界の少女が果たしていることだろう。
水面に映る自分の姿から目を離し、キエンは森の木々の隙間から見える青空を見上げた、
「リウンは異世界で、一体どうしてるんでしょうね。稀客であった彼女……ナナセのいた世界は、こちらの世界よりも医術が発展していると聞きましたが」
キエンはあの瑞風の日にリウンの肩を刀で深く切りつけ、さらに弓矢で背中に致命傷を負わせた。この世界に生きるキエンの感覚では、確実にリウンは死んでいる。
だがリウンはこの世界とは違う異世界に行ってしまったので、死んだのかどうかはわからない。
リウンを連れて異世界へ帰っていった少女・ナナセのことを、キエンはそう深く知っているわけではない。キエンが彼女と過ごしたのはほんの半日のことであり、その短い間に築いた関係も間にリウンを挟んだものだ。
しかしそれでもナナセがそれなりに文化的に恵まれた存在であることはすぐにわかったし、この碧の国よりは人が蔑ろにされていない場所からやって来たことは確かだった。
だから多分、リウンが彼女の世界で彼女と一緒にいられたのなら、生死はどうであれ野垂れ死んでいることはないだろう。
ナナセが帰った異世界についてキエンよりも理解しているであろうディオグは、ふっきれたように笑って言った。
「どうだろうね。あの時はリウンもナナセも救われてほしくなくて、二人とも殺してしまおうと思ったけど。でも今は、リウンには異世界で生きていてほしいかな」
過去に抱いた殺意を隠すことなく、ディオグは現在の素直な気持ちを語る。
「リウンがどこにいたとしても、そう簡単には幸せにはさせない自信があるんですね」
「ふふ。まあ、それもあるけど」
キエンはディオグの考えそうなことを推察して、確かめてみた。
するとディオグはさらに笑みを深めて、迷いのない瞳で遠くを見た。
「僕はね、僕が大切にしたリウンが遠い異世界で生きて死んでくれるなら、それはそれで素敵なことじゃないかなって思うんだよね。だってそれって、僕の想いがずっと遥か彼方まで続いていくってことでしょ?」
ディオグが高揚した声でそう言ったとき、一陣の風がディオグとキエンの間を吹き抜けた。
その風はリウンのいるはずの異世界へと向かうかのように高く舞い上がり、ディオグが憧れ求めてやまない永遠を感じさせる。
(僕が大切にしたリウン……ね。傷付ければ傷付けるほど大事にしていることになるこの人の愛し方の尺度で測るなら、確かにリウンは大切に愛されていた)
一見とても良いことを言っているようなディオグの晴れやかな表情と、実際にリウンが置かれていた陰惨な状況との落差がおかしくなって、キエンは含み笑う。
裏切られ逃げられたという支配者としての敗北すらこうして自らの嗜虐趣味の勝利に転換するのだから、このディオグという人間はすごいと思う。
さらにディオグは、今度はキエンの方を向いて続けた。
「あとそれに、僕はお前がどこにも行かずに戻ってきてくれたことは感謝してるんだよ。だってお前は、私が王としてこの国を統治するために必要な人材だからね」
ごく普通の、主君から臣下へのねぎらいの言葉。ディオグはキエンに対しては、こうした常識的な気持ちを述べてくれることもあった。
気に入った存在ほど苛め抜くのが、ディオグの対人関係のあり方である。だから逆にどうでもよい存在に対しては、ディオグは案外やさしいこともあった。
キエンはそのディオグの実利的な好意に、臣下として礼儀正しくお礼を言う。
「ありがとうございます。俺も陛下のおかげで、いろんなことを知ることができて幸せですよ」
「いろんなことって、君は僕から何を知ったのかな?」
「例えばそうですね。めちゃめちゃ旨い鶏粥の味とか」
いたずらっぽく尋ね返すディオグに対して、キエンは茶化して核心を誤魔化した。
ディオグは他人を破滅させても自らの破滅は望まず、決して自分自身は傷つかないように振る舞う慎重さも持ち合わせている。
だからディオグは自分に似た性質を持っていると感じた者を、絶対に過度に不幸な目には合わせない。自虐につながりかねない、自身に似た存在が傷つく状況は避けるのだ。
それはディオグの唯一の弱点でもあり、強さの源でもあった。
(そう。だから俺は、この人の側にいることができる)
キエンはディオグの隣に座り、その甘く整った主の顔を見つめた。
あの夜、幕舎に忍びこんで頼み込んだそのときから、キエンはディオグの臣下である。
だが親を殺してでもより遠くを求めたキエンを、ディオグは虐げる対象ではなく自分に近い存在として位置づけた。
ディオグは自分を見つめるキエンの顔をじっと眺め、リウンとほんの少しだけ重ねた素振りを見せて、その頬に口づけをした。
一瞬、ディオグの体温がキエンの頬をかすめて去る。
そしてそれ以上のことは何もしないまま、ディオグは東屋代わりの木の根から立ち上がった。
「もうそろそろ、宮殿に戻らないとね」
「はい。俺も昼前に終わらせたい用事があります」
二人は川辺を背にして、来た道を戻る。
多分キエンは、この先もリウンのように死ぬほどひどい目にはあわされることはないのだろう。
(俺は、遠くが見てみたかった。あの草原からは見えないほど遠く彼方を)
ディオグに付き従って歩きながら、キエンは自分が都に連れて行ってもらうことを望んだ理由を思い出す。
キエンも、リウンも、ディオグも、いつかは死んで消えてなくなる。
この世界に永遠はない。
しかしディオグは、その永遠を求めている。
どこにもないものを求めるディオグが見る遠い世界の果てを、キエンもまた見てみたかった。
キエンは深い森の中で、遠い異世界で生きているはずの自分の半身、リウンのことを考えた。
(とりあえず今日は、リウンが異世界で生きていれば、俺も半分は異世界に行ったようなものかもしれないっていう発見があったな)
それはディオグがいたからこそ、気付き見ることができた景色である。
少なくともこの男の側にいれば、キエンが退屈してしまうことはないのだ。
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