番外編3 双子の犬② 狂王と鶏粥
詰所での仕事を終えたキエンは、演武場に戻って兵士たちに剣術の稽古をつけた。
そしてその朝の訓練も終わると、国王のいる区画に護衛として入った。
そのころにはもう、朝から真面目に働いていたキエンはすっかり汗だくになってしまっていた。
正殿へと通じる門をくぐると、とたんに目に入る建物に施された彩色は色とりどりで繊細なものになる。匂いもどこからか香の焚かれたような良い香りが漂ってきて、キエンは五感で贅沢な空間にやって来たことを感じた。
キエンは若草色の衣裳に身を包んだ女官の集団とすれ違いながら石畳の道を進み、国王の住居である殿舎の前に到着する。
殿舎の前の扉には、衛兵が二人立っていた。
「陛下は、どちらの部屋に?」
「陛下は広間で、朝食をお召し上がりになっております」
キエンが尋ねると、衛兵は答えた。
「大広間だな。わかった」
普段ならもう執務室か謁見の間に行っている時間であるので、キエンはディオグがまだ朝食を食べているらしいことを意外に思いながら広間へと向かった。
国王の住居である殿舎は宮殿の中でも特に美しい建物で、磨き抜かれた黒檀の柱と深い臙脂色の石材の敷かれた床が落ち着きのある空間を作り出している。
太陽が照りつけるまぶしい窓の外とは対照的な薄暗い日陰の室内は、風通しがよくそれなりには涼しかった。
「陛下、失礼します」
菱形を組み合わせた格子紋の入った引き戸を開け、キエンはディオグのいる広間に入室した。
「キエンか、おはよう」
凝った彫り細工の食卓を前にして朝食を食べていたディオグは、キエンを見て軽く微笑んだ。
裾に白糸で鳥の刺繍が入った深紅の衣に黄色の帯が鮮やかに映える衣裳を着て、凝った金細工の小冠で髪をまとめたディオグの姿は、神話の神々の一人であるかのように人を従わせるものがある。
キエンは自分がそれなりに整った外見であることを知っているが、それでもディオグの冷たくて甘い支配者の顔立ちを前にすると自分が没個性的なただの臣下になったかのような気分になることもあった。
「今日は寝坊して遅刻したんだって?」
ディオグが陶器の匙を手にしながら、面白そうにキエンの朝の失敗を指摘する。
ほんのわずかな遅れでしかないキエンの遅刻をまだ朝食も済ませていないディオグが知っていることを、キエンは驚かずに聞いていた。ディオグはこの碧の国の国王として、臣下についてどんな些細なことも知っている。
キエンはディオグの隣に進み出て、開き直って言い返した。
「寝坊、しましたよ。俺を遅刻したって罪で、罰しますか?」
有能で狂った王としてディオグは大勢の人々から恐れられているが、それでも宮殿には彼とある程度は対等な関係を結んでいる者が何人かいる。
その数少ない人間のうちの一人であるキエンは、ディオグを前にしても物怖じせずに言いたいことを言うことができた。
ディオグはいたずらっぽく笑って、匙で器の中身を混ぜた。
「お前までいなくなったら、軍隊の仕事が回んなくなっちゃうからね。そんなことはしないよ」
そう言ってディオグが食べているのは、蒸し暑い夏の朝にぴったりの冷たい鶏粥だった。
さらにその鶏粥の器が載っている四角いお膳には、鶏粥の他に揚げ餅に蕪の漬物、青菜の炒め物などの付け合せがぎっしりと並んでいる。
キエンは、ディオグの食べている朝食をまじまじと覗き込みながら尋ねた。
「何だか、朝からとても豪勢な食事内容ですね」
「ああ、昨晩は夜遅くまで予算の編成を頑張って考えてたからね。自分へのご褒美で、今日は遅起きして品数多めの朝食をゆっくりと食べる日にしたんだ」
ディオグは自慢げに、遅めの豪華な朝食を食べている理由を説明した。
(本当にうちの王様は、仕事と生活の調和がとれている人だ)
その清々しいほどの幸せそうな様子に、キエンはきっとこの主が不幸になることは絶対にありえないのだろうと感心する。
ディオグがただの残酷な支配者以上に恐ろしいのは、彼が基本的には名君であり仕事熱心であるからである。
ディオグは的確に国を富ませる政治を行いながらも、同時に人を不幸にする命令を巧みに織り交ぜて人を虐げていく。
常に付き従ってみるとディオグの行動は意外と八、九割はまともであることを、キエンは知っている。
ディオグは人の心がわからないのではなく、わかったうえで踏み躙ることに生きがいを感じていた。彼は物事をよく理解し、政治も要所を外さない。正しく間違わない彼だからこそ、誰も彼に逆らうことができない。
国が滅んでしまうことのないように、ディオグは自分の嗜虐趣味をここぞというときに効果的に使う。
ディオグに破滅願望はなく、末永く健やかに、王として君臨し続けるのが彼の目標だ。
(だからいつも食べてる朝食も、旨そうでなおかつ健康に良さそうな献立なんだよな)
この上なく美味しそうにディオグが食べている鶏粥を、キエンはじっと見た。
寝坊をしたとはいえ、キエンも一応は肉入りの饅頭を食べてはいる。
しかし歩きながらのその朝食を済ませたのは一刻は前のことであり、その間に書類を片付けたり剣術の稽古をつけたりしていたためにキエンはすっかり空腹になってしまっていた。
あんまりにも熱心にキエンが鶏粥を見つめるので、その注がれた視線に気づいたディオグは、匙で鶏粥を一口すくって尋ねた。
「……もしかして、お前もこれが食べたいの?」
「はい。食べたいです。俺、寝坊したんで、朝食ちゃんと食べてませんから」
キエンは食欲に忠実に、ディオグに鶏粥をねだった。
するとディオグは仕方がなさそうに笑って、女官を呼ぶための鈴を鳴らした。
「お前は本当に、食い意地をはっているね。そんなにこの粥を食べたいのなら、僕がおかわりが欲しくなったときのための一膳分を、特別に食べさせてあげるよ」
そして女官が、ディオグが食べているものと同じものが載ったお膳を運んでくる。
鶏粥とおかずがたくさん載った、食べごたえがありそうな朝食のお膳だ。
「ありがとうございます。今日は朝から暑いから、冷たいお粥って絶対に旨いだろうなって思ってたんですよね」
まったく遠慮することなく、キエンはディオグと向かい合う形で食卓に座った。ディオグと朝食を共にするのは、これが初めてのことではない。
キエンはディオグに一礼すると、匙を手に取った。まずはお膳の中心に置かれている涼しげな青磁の器から、ひんやりと白い粥を一口すくって食べる。
(やっぱり王様の食べ物って、めちゃめちゃ旨いな……)
やさしい冷たさがのどを通って行くのを、キエンは夏の暑さに火照った身体で感じた。
冷製の鶏粥は鶏の出汁がよく出たちょうど良くあっさりとした塩味で、さらさらと水気が多めに炊かれていて食べやすかった。
具の鶏肉は箸でふれるとほろりと崩れるくらいのやわらかさで、別の小皿に添えられた梅の実の塩漬けと一緒に食べると酸味のある爽やかな味わいになってより美味しい。
(間に別のおかずを挟めば、無限に食べられそうな気がするな)
牡蠣油でさっと炒められた青菜を食べながら、主の前であることも忘れてキエンは思う。
濃いめの味付けで炒められた青菜は歯ざわりがよく、その後でまた鶏粥を食べるとより出汁のさっぱりとした味わいを楽しむことができた。
「これまでの人生で何杯も粥を食べてきましたけど、今日の鶏粥が一番旨いです」
「そりゃ、わざわざ僕が厨房に命じて作らせた最高の鶏粥だからね。美味しいに決まっているよ」
キエンが冷たい粥を堪能して感嘆すると、ディオグはまるで自分が手ずから料理したかのような調子で誇らしげに言った。
(それじゃ今度は、砕いた揚げ餅を入れてっと……)
ちょうど半分くらい食べ進めたところで、キエンは付け合せの揚げ餅を砕いて粥の中に入れて食べてみる。中までこんがりと揚げられた揚げ餅はほどよい硬さで香ばしく、粥としてやわらかくなった米の中に入るとそれまでとは違った食べごたえを生み出した。
野菜をふんだんに使ったおかずは青菜の他に、冬瓜と海老をとろみをつけて煮たものもあった。これもまた白磁の器ごと、食べやすい具合に上手に冷やされている。
(俺、冬瓜好きなんだよな)
キエンは幸せな気持ちで、緑豆で彩りを添えられた冬瓜と海老の煮物を口に含む。
しっとりと水分が多くやわらかい冬瓜は、噛みしめると淡泊な味の果肉に染み込んだ醤油の風味がじんわりと感じられて非常に美味しかった。冷えて身がしまった海老も大ぶりで、旨味もしっかりと感じられる。
鶏粥と付け合せだけでも庶民には十分すぎる朝食であるのだが、国王のためのお膳には他に汁物と蒸した包子も載ってた。
汁物は干し椎茸から出汁をとった素湯で、包子は刻んだニラの入った炒り卵が具になっているものだ。
(さすがに満腹気味だけど、この大きさの包子なら食べやすいな)
キエンは薄皮の小振りな包子を竹の器から箸で掴んでとり、酸味のきいた香りの黒酢をつけて頬張った。
するとつるりとした皮から具が現れて、ニラの強い香りが口の中に広がる。シャキシャキとした食感のニラと、ふんわりとした炒り卵の組み合わせが美味しい一品だ。
小さめの陶器に入った素湯は具は干し椎茸だけという素材本来の味をじっくりと感じられるもので、終盤に一息つくのにちょうど良かった。
(そして最後の最後は、この鶏粥だよな)
蕪の漬物を数切れまとめて口に放って苦みを楽しんだ後、キエンは最後に残しておいた一口分の鶏粥を匙ですくって食べた。やわらかくなった米の一粒一粒の甘みを味わい飲み込めば、お膳の上の器は全て空になっている。
(うん、満足した)
朝からどうも調子が上がらなかったキエンは、しっかりとした朝食を食べることでやっと満たされた気持ちになれた。食事は大切だと、しみじみと思う。
こうしてキエンが腹八分目の満腹感に浸っていると、ちょうど同じ頃合いに食べ終えていたディオグがにっこりと笑って言った。
「あとね、食後に桃があるよ」
「それって、最高じゃないですか」
ディオグの手回しの良さに、キエンは舌をまく。
「僕が甘味を欠かすわけがないからね」
子供っぽいこだわりを披露しつつ、ディオグが女官に指示を出す。
運ばれてきた桃はもうすでに綺麗に皮がむかれているものだったので、二人は果肉の色が変わってしまわないうちに急いで食べた。
透明な瑠璃の器に載ったそれは瑞々しくて甘い旬の白桃で、キエンは腹八分目が十分目になるまで堪能した。
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