第12話 呼び捨て
碧の国と呼ばれる異世界の国に来て、一週間ほどがたった。
七瀬は乗馬をリウンに習うことで暇をつぶして過ごしていた。
時間は十分にあったので、上達はそれなりに早い。
そのため九日目は練習も兼ねて馬に乗り、リウンと宮殿の外へと出掛けた。
行き先は、聖域である森を囲む山の中にある小さな池である。ちょうど良い立地であるということで、リウンが決めた場所だ。
「では行きましょう、ナナセ様」
七瀬の前を先導するリウンは、普段の黒い服とは違う深い緑色の服を着ていた。生地も仕立ても上等に見えるその衣は、おそらくディオグが見繕ったのだと思われた。
シンプルな造りの動きやすそうな服で、襟元などに施された控えめな装飾がリウンの落ち着いた佇まいによく似合っている。
(やっぱり、リウンは見た目は格好良いよなぁ)
馬上のリウンの凛々しい後ろ姿に、七瀬は心をときめかせた。
様々な事情はさておき、やはりこうして改めて見ると心惹かれる。
(服も良く似合ってるし、ディオグは性格は最悪だけど見る目は確かだよね)
そんなことを考えているうちに、池に着いた。
そこは山中の開けたところにあり、見晴らしが非常に良い場所であった。
ごつごつした岩場にある池は本当にとても小さく、宮殿の前の湖に比べるとほぼ水たまりのようなものである。だが岩は座るのにちょうど良さそうな大きさで、居心地は悪くなさそうだ。
池を覗きこめば、太陽の光を透かした水の中に白い魚が泳いでいるのがたまに見える。
リウンは七瀬の横で身を屈め、池の中の魚を眺めながら言った。
「俺の故郷では、この魚は……と言うんです」
だがその発音は難しくて、七瀬にはまったくわからない。
七瀬はリウンの生まれがどこか違う邑であることを思い出し、尋ねた。
「もしかして、故郷の言葉って今ここで話される言葉とは違ったの?」
「はい。宮殿で使われている言葉は、こちらに来てから学びました」
特にそれが特別だとも思わない調子で、リウンは答える。
だが、七瀬はその事実を気にせずにはいられなかった。
(そうか。言葉も通じない場所にむりやり連れてこられて、リウンは生きてきたんだ……)
身の上をさらに知って、七瀬はより一層リウンに同情した。
七瀬は語学が苦手で、学校でも英語の授業だけはちんぷんかんぷんでよく寝てしまっていた。だからまったく知らない言葉を話す世界にいきなり放り込まれて暮らすというのは、とても耐え難いことのように感じられる。
七瀬は心の底から、リウンのことを気の毒だと思った。
「それは……、とても大変だったね」
「別に、感心されるほどのことでは……」
だがリウンは、なぜ七瀬がこれほどリウンに同情しているのか理解していないようだ。
「リウンは、ここによく来るの?」
岩に腰を下ろし、七瀬は池の中の魚を見下ろした。
「はい、たまにですが。何となく落ち着くので。でも、ナナセ様にとっては別に面白くないですよね」
リウンは遠慮がちに答えた。素直にこの場所が気に入っているとは言えないリウンの自我の弱さが不憫だった。
「……そのナナセ様ってやつ、二人っきりのときはやめてもらってもいいかな。何か、変な感じするんだよね」
せめて自分は上下関係とは無縁の人でいたいと思い、七瀬は言った。
リウンは、不思議そうな顔をして聞き返した。
「そうですか。では、どうお呼びすればいいでしょうか?」
「七瀬でいいよ。元の世界ではそれが普通だったし」
自分を呼び捨てにするよう、七瀬はリウンに求めた。
するとリウンは、改めて七瀬をじっと見つめた。
そして案外あっさりと、その心地良い低さの声で七瀬の名前を呼んだ。
「わかりました。では……ナナセ」
ナナセと呼ぶリウンの声に、七瀬は想像以上にどきりとした。
自分で頼んだことのはずなのにひどく心が動揺する。敬称付で呼ばれていたときは知らず知らずうちの保たれていた自制心は、脆くも崩れた。
七瀬は名前をそのまま呼ばれたことで、稀客としてではなく一人の人間として認識されたような気持ちになった。リウンとしては呼び方以外何も変えていないのだとしても、七瀬自身はそう思った。
「本当にこう呼んでいいんですか?」
挙動不審になっている七瀬の様子に、リウンが不安げに確認した。
七瀬は急いで態度を取り繕い、何も感じていないふりをする。
「あ、うん。それでいいから。本当に」
「なら、これからはそうします」
そう言って、リウンは口を閉じた。
七瀬も黙って、リウンの隣でナナセと呼ばれた余韻に浸った。会話が消えても、不思議と気まずさは感じない。
しばらくすると、おもむろにリウンがつぶやいた。
「あの魚は、俺の故郷では秋によく獲れるんです」
横を見ると、陽の光にきらめく水面に顔を映すようにしてリウンが池を覗きこんでいた。いつもは硬い表情の顔も、水に映った像は柔らかく見える。
そしてリウンは、故郷の記憶をぽつりぽつりと話し出した。
「でも俺は釣りは苦手で、山菜を探す方が得意でした。だからご近所からこの魚をもらったとき、俺はそれと一緒に蒸すための山菜を取りに行きました。この森は一年中緑色ですが、あの森は秋には葉の色が変わって落ちるんです。俺は落ち葉を踏んで歩くのが好きで、用もないのに森へ行っていました」
七瀬は何も言わずに、リウンの話に耳を傾けた。
それはリウンが本来送っているべき人生の話だった。常に自然と共にいたリウンは、自分の身近にあるものを大切にして穏やかに生きていた。狭いけれども平和な世界の中で、足ることを知っていた。
小さなものやわずかな変化に価値を見出すことができる少年だった、幼いリウン。
もしもディオグが現れていなかったら、今もそうやってささやかに暮らしていたのだと思われた。
(それはありきたりで、でもだからこそ貴い幸せだったはずで……)
生きる世界は違えども、七瀬もまたそういう何でもないものが一番大事だと考えていた。だからこそ、絶対に自分の世界に帰りたかった。
二人は、同じものを持っていたはずだった。だがリウンはそれを失い、七瀬は持ち続けている。
七瀬はリウンが失ったものに思いを馳せつつも、急にいろいろ話してくれたことを不思議に思った。
「今日は何だか、いろいろ聞かせてくれるね。何かあった?」
「……何ででしょうね。わかりません。ただ、何となくナナセには知っていてほしいような気がしたんです。もうそこには、誰もいませんから」
そう言って、リウンは遠くの空を見上げた。
その目が思い描く場所を、七瀬は知らなかった。だけど、本当のリウンが求めている物はわかる気がした。
七瀬がその横顔を見つめていると、リウンはふと思い出したように言った。
「でもナナセには、待つ人がいるんですよね」
リウンが羨ましげな眼差しで、七瀬の方を見る。
急に自分の話になったので、七瀬は一瞬言葉に詰まりつつも答えた。
「一応はね。でも、私が帰りたいのは待つ人がいるからじゃないよ。私は姉妹も多いし平凡だし、代わりのいない存在じゃないから。一人ぼっちではなかったけれど、きっと本当に私じゃなきゃ駄目だって言ってくれる人はいないと思う」
故郷を喪失したリウンを前にして言うことではない気もしたが、七瀬はつい正直に答えてしまった。
だが実際、七瀬はリウンが考えているような人間ではないと思った。
するとリウンは、七瀬を気遣うような目になって言った。
「そういう言い方をするのは良くないですよ。むなしくなってしまいます」
リウンの澄んだ声が、優しく七瀬の存在を肯定する。
それは今まで感じたことのない感情を、七瀬の心に芽生えさせた。
(もしかして私、リウンに心配されてる……?)
七瀬は自分が強がっているつもりも苦しいつもりもまったくなかった。多数のうちの一人でしかないのは本当に気楽だと思っていたし、不満も感じていない。
だがリウンには、七瀬が寂しい存在に見えたらしい。
その眼差しはこそばゆくもあったが、ある意味心地良くもある。
(他人には優しいくせに、自分のことは全然なんだなぁ。リウンは)
小さく苦笑して、七瀬は何と返そうかと考えた。
なるべく他者に構われるのを避けて生きてきたので、心配されることにあまり慣れていない。だがリウンが七瀬のことをちゃんと考えてくれているというのは、悪い気はしなかった。
たまにはこういうのもいいかもしれないと思い、七瀬は少し声のトーンを変えてリウンにそっと近づいてみた。
「じゃあリウンは、私が帰ったら寂しいって思ってくれる?」
「はい……?」
身を乗り出して顔を寄せる七瀬に、リウンは当惑していた。表情の変化は小さいが、頬を赤らめた反応は明らかに素である。
(なかなか可愛いけど、あんまり困らせるのも悪いかな)
リウンが慌てている様子に満足して、七瀬はすぐに身を引いた。
「冗談だよ。いいよ別に、ただの客人で」
七瀬はくすくすと笑って、本気ではないことを伝える。
するとリウンは、七瀬のからかいに静かに微笑んで答えた。
「……いいえ、ナナセはただのお客人ではなく、大切なお客人です」
それは今までとは少し違う種類の微笑みだった。
そのため七瀬は、より一層リウンのことを身近に感じてしまった。
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