第5話 帰るべき理由
ディオグとの面会の後、七瀬は見慣れない草花に彩られた庭園やいくつかの門を抜けて、客間であるらしい場所に通された。
バルコニーのように壁がなく開けたその部屋は七瀬の家の縁側よりも何倍も広く、艶やかな石造りの丸テーブルと、揃いにあつらえられた背もたれのない椅子が置かれている。
リウンに促されるまま着席すると、女官が三人ほど入ってきててきぱきとお茶やお菓子を用意した。
七瀬の目の前のテーブルには、餅や饅頭に米菓子、煎った豆などが並んだ。
「お好みがわからなかったので、いろいろとご用意いたしました。お口に合えばいいのですが」
白く整った手をした女官が、香ばしい匂いのお茶を素焼きの湯呑に淹れながら話す。
夕食前とは思えない品数の多さに戸惑い、七瀬はリウンに尋ねた。
「……これ、全部私が食べていいの?」
「はい。お好きなだけお召し上がりください」
リウンは七瀬と一緒には座らず立って側に控えていた。
「じゃあ、遠慮なく……」
七瀬は軽く手を合わせいただきますと言うと、まずは米菓子に手を伸ばし食べた。
膨らませた米を煎餅状に固めたそれは柔らかめの雷おこしのような味で、ほどよい甘さで美味しかった。
(ここで一人だけ食べるのは、ちょっと気まずいかな。まぁ、食べるんだけどね)
食べずに隣に控えているリウンや女官に気兼ねしながらも、七瀬は饅頭や餅も食べた。
濃く煮詰めた餡の包まれた饅頭はかなり甘く、塩辛く焼かれた餅を間に挟むととてもちょうど良かった。ほどよく温かいお茶もすっきりとした後味で、気付けば夕食の前だからセーブしようと思っていたのにも関わらず結構な量を食べてしまっていた。
しかし食べる以外にすることもないので、七瀬はスピードを緩めながらも菓子を食べ続けた。
お茶を飲みながらふと目を上げると、蔓の文様の彫刻に縁取られた欄干の向こうに湖と森が広がっていた。
七瀬は、今いるバルコニー状の部屋が見晴らしのいい場所であったことにそのときになってやっと気がついた。
湖は夕焼けの中で金色に染まり、きらきらと水面を揺らしていた。
その綺麗だが物寂しい光景に、七瀬はふいに郷愁を強く誘われた。
(二週間で帰れるってディオグは言っていたけど、ちょっと不安だな……。やっぱ帰れないのは、普通に私が困る)
七瀬は学校や家のことを思い出した。四人姉妹の次女である七瀬は、長女である姉や幼い妹に挟まれ、親からときどき存在を忘れられながら育った。
そのため七瀬には、もし自分がいなくなったとしても家族の悲しみは軽傷で済むのだろうという確信が幼いころからずっと頭にあった。親の愛を感じていないわけではないし恨みもないが、自分は誰にとっても特別ではないという感覚はついて離れることがなかった。
それは学校でも同じことだった。
七瀬にも親しい友人はそこそこいるが、絶対的に大切に想いあっている親友はいない。七瀬が風邪で休んでも、友人たちは七瀬抜きで楽しい時を過ごすのである。
だから極論を言うと、七瀬が元の世界に帰れなかったところで、本当の意味で困る人間はいなかった。行方不明になれば家族は泣くし、友達は心配する。だけど人生が空虚になるほどの喪失感を感じる人はいないだろうと、七瀬は思った。
七瀬は孤独ではなかったけど、いつだって多数のうちの一人でしかなく、かけがえのない存在ではなかった。
だが七瀬は、別にそれがむなしいことだとは思わなかった。
自分が誰にとっても一番ではないという事実は、七瀬にとって気が楽になるむしろ喜ばしいことだった。誰にも深く大切にされていないということは、裏を返せば誰も深く悲しませることがないということである。
また七瀬はこのように、他者を悩ませないのが美徳だという考えのもと生きてきたので、特別視されることを望むのは浅ましいことだと思っていた。
家族や友達の中で一番を決めろと言われたら、七瀬は答えを出せずに困り果てる。
自分にとっての特別を選ぶことができないのに、他の人に自分を特別にしてほしいと願うのは、自分勝手な考えだと七瀬は思った。
しかし本当の意味では誰も七瀬の存在を欲していないのだとしても、七瀬には元の世界に帰る理由があった。
それは他の誰でもない、七瀬自身が帰りたいと望んでいるからであった。
そうたいしたことがない人生であるとはいえ、七瀬にもいろいろとやりたいことがあった。
特別じゃない人間関係だとしても、家族も友達もそれなりに好きだった。
何もない田舎の地元でも、十七年間生きてきたのだから愛着はある。
漫画の週刊誌の最新号にコンビニのお菓子、好きなバンドの新アルバムなど、欲しいものは異世界では手に入らない。
(私はそれなりに恵まれている。だから人生やり直したいなんて思わない。私はそこまで恩知らずな人間じゃないし、あれ以上を望むのは傲慢な高望みだよ)
この世界ではリウンのような美形が親切にしてくれて、食べ物が美味しくお風呂が気持ち良い。
だがそれでも七瀬は早く元の世界に帰りたかった。
元の世界以上の幸せはないと思ったし、またそう思うべきだと思った。かなり厚遇されているとはいえ、異世界にいるというのはやはり根本的には不幸なのだと感じた。
(だから私は帰る。絶対に何があっても帰るから)
七瀬は心の中でつぶやいて、豆を何粒か口に放り込んだ。
ふと横を見るとリウンはただじっと隣に立って、夕日に照らされた湖を見ていた。
光の眩しさにやや目をすがめたリウンの横顔は、どこか哀愁を帯びている。
リウンが異界からの客人に仕えながら何を考えているのか、七瀬にはわからなかった。
だが知ったところで二週間で別れることになるのだから、別に深く理解したいとは思わなかった。気にならないと言えば嘘になるけれども、やはりそこは違う世界の人なので距離は置いた。
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