第4話 稀なる客人として

 扉の向こうには、高校の体育館よりも遥かに広い部屋が広がっていた。

 龍や雲が色とりどりに描かれた赤い柱に支えられた天井は高く、床には深い藍色をしたタイルが敷き詰められている。


(部屋が広いのは予想がついてたけど、何だかやたら人が多いな)


 七瀬はその場所にいる、人の多さに驚いた。

 広間に並んで跪いている人の数は、七瀬の学校の全校生徒数よりは確実に多かった。

 おそらく官吏か何であろうその人たちは、皆同じ作務衣を立派にしたような服を着て、真ん中に道を空ける形に並んで平伏している。


 七瀬はリウンに案内されるままに、その人々の間を歩いた。

 そしてさらにその先には黒光りする石でできた階段があって、一番上に置かれた椅子には国王らしき人が座っていた。


「陛下」

 リウンが階段の前で立ち止まり、七瀬の横に控えるように跪く。


(この人が、王様?)

 七瀬は階段を見上げ、王の顔を見た。


 国王は想像していたよりも、ずっと若い青年だった。

 おそらく三十歳になるかならないかくらいの年齢だ。女性的で綺麗な顔立ちで、薄紅色の衣に赤い花が織り込まれた白い丈長の上着を羽織ったその姿は、国王というよりはアイドルのような雰囲気がある。

 だが態度は国家元首らしく堂々としており、頭を下げている人が大多数のその場所の中でまっすぐに七瀬を見ていた。


「碧の国へようこそ、稀なるお客人」

 嬉しそうに微笑んで、国王は七瀬に呼び掛けた。

 ひどく甘いのに支配的な、深い響きの声だった。

 頭上には透かし彫りの入った金の冠があり、小さな宝玉をいくつも垂らした飾りが涼やかな目元の前で揺れる。


 偉い人と会っているということで、七瀬も周りの人と同じように屈みたくなった。

 だが、兵士が椅子を持ってきたので、国王と向き合う形で座ることになった。


「野々山七瀬です。よろしくお願いいたします」

 失礼がないように、七瀬はまず自分から名乗って挨拶を終えた。受験の面接のような気分だった。


 国王は、七瀬の名前を興味深げに繰り返した。

「ノノヤマ・ナナセ、か。異界の名前は、可愛い響きだね」

「そうですかね……。えっと、へ、陛下?」

 何と呼べばいいのか迷い、七瀬は国王に陛下と呼びかけた。


 七瀬は、自分のコミュニケーション能力が著しく低いとは思っていない。

 しかし、知らない世界で初対面の高貴な人と客人として話すというのは、さすがに難しいことであった。


 困り顔の七瀬に、国王はくすくすと笑って名前を告げた。


「僕の名前は、ディオグだよ。あんまり王の本名は使われないことになっているんだけど、君には特別に許可してあげる」

「……はぁ。ありがとうございます」


 ディオグの口調は軽かったが、上に立つ者特有の恩着せがましさがそこにはあった。

 七瀬はいまいち国王であるディオグとの距離感を掴めないまま、とりあえず適当にお礼を言った。


 長いまつげに縁取られた瞳を面白そうに輝かせて、ディオグは七瀬を上から下まで見回した。

「しかしこちらの世界の服を着ていても、異界の人だと雰囲気がどこかで違うね。でも言葉が通じてるってことは、あの祭器はちゃんと使えたんだ?」

 ディオグは、七瀬の後ろにいるリウンに尋ねる。


 より一層硬く真面目に、リウンは答えた。

「はい。あの器の水を飲んでいただくまで、ナナセ様の言葉はまったくわかりませんでした」


「ふーん。こちらの世界の者同士じゃ効果なかったのに、不思議だな。でもこれで、古文書の記述はお伽話じゃないってことがわかったね。伝説の存在だった稀客に会えるなんて、僕は幸運な王だ」

 ディオグは上機嫌な様子だった。そして改めて七瀬の方を向き、にっこりと微笑んだ。

「君を歓迎するよ、ノノヤマ・ナナセ。僕にできることなら、どんな望みも聞き入れてあげる」


 ディオグのように整った顔の異性にこんな言葉をかけられれば、普通はどきどきするはずである。

 だがそれは字面は甘くともそれ以上の含みはなく、食事や財貨など物質的な望みについての言葉であるようだったので、七瀬は何も感じなかった。


(何だか本当に私は、ただもてなされるだけの存在なんだね)


 七瀬はディオグの様子を見ているうちに、自分がこの世界に来たのはまったくの偶然で、選ばれた理由などはないことがわかってきた。七瀬は異界から来た客人であるということにおいてのみ特別扱いされ、それ以外のことは何も求められないらしい。


 自分の立場に責任が発生していないことにほっとしながら、七瀬はおずおずと口を開いた。

「あの、歓迎してくれるのは嬉しいんですけど……」


 この世界における、七瀬の望み。

 それは最初から迷うことなく、ずっと考えてきたことである。当然で当たり前のごく普通の願いであるがゆえに、言う機会を逃し続けてきた言葉。

 七瀬はやっとそれを言うことができる。


「私、元の世界に帰りたいです。私はどうしたら帰れますか?」


 真っ直ぐにディオグを見上げ、七瀬は尋ねた。

 非常に切実な気持ちであった。

 雨の中、通学路で自転車を漕いでいたときからずっと、家に帰りたいと思っていた。


 だがディオグは七瀬の心からの問いに対して、ごく軽い相づちのような返事をした。


「まぁ、適当にこちらで過ごした後には、ぼちぼち帰ってもらうよ」

「えっ!?」


 それは望み通りの回答であるはずだったが、あまりにも簡単であっけない形で提示されていた。

 その予想に反したてっとり早さに、七瀬は素っとん狂な声を上げてしまった。


 驚いている七瀬を、ディオグは不思議そうな顔で見た。

「稀客はもてなした後は元の世界にお帰しするっていうのが決まりなんだけど……。リウン、説明してなかったの?」

 ディオグは、七瀬の後ろにいるリウンをやんわりととがめた。


「も、申し訳ありません……」

 リウンが青ざめて、顔を伏せる。十分な説明ができなかったことに、またもや必要以上に責任を感じているようであった。


 確かにリウンは話が下手であった。

 だが七瀬はリウンはリウンなりに頑張ってくれていたことをわかっているので、少々気の毒な気もした。


 だが、今はそのことに構っていられる気分ではなかった。

 七瀬は敬語を使うことも忘れて、椅子から身を乗り出した。


「じゃあ瑞風とかいうのが起きて、私はすぐ帰れるってこと?」

「そうだね。瑞風は十四日後の夜にもう一度起きるって神官も言っていたし、多分そのときに帰ってもらうことになると思うよ」


 稀客は伝説の存在であったということもあり、ディオグの言葉は断定的ではなかった。

 しかしそれでも稀客が長居しないことはほぼ確定事項であるらしく、七瀬の滞在期間は至って自然に明示されていた。


(十四日後って……、つまり私がここにいるのは二週間?)


 すぐ帰れると安心するには長いが、待つのにそれほど困るわけでもない微妙な短さの期間である。その中途半端な状況にどう反応すればいいのか、七瀬は判断に迷った。


 だがディオグは困惑している七瀬を置いて、さっさと次の話へと進んだ。

「それじゃとりあえず、今日の夜はナナセに歓迎の宴を楽しんでもらおうか。まだ少し晩餐までには時間があるし、どっかでお菓子でも食べて待っててよ」

 ディオグはそう言うと、白い上着を優雅に揺らして立ち上がった。

 そして支配者らしい尊大な眼差しで階段の上から見下ろし、七瀬に尋ねた。


「リウンにはこのまま引き続き、ナナセに仕えてもらうってことで問題はないかな。それとも、もっと違う人の方がいい?」

「え、あ、いや。このままで、大丈夫です」


 七瀬はあたふたと、口ごもって答えた。

 人への評価をここまではっきりと下すように求められたのは、初めてのことであった。


 リウンには多少不器用なところがあったが、特にそれを不満だとは思わなかった。

 例えリウンが七瀬にとって苦手なタイプだったとしても、それを理由に別の人を選ぼうとするほど、七瀬は他者の上に立てる人間ではなかった。


「このままでいいってさ、リウン。これからも、ちゃんとご奉仕しなよ」

 ディオグはにっこりと笑って、リウンに言った。

 言い方は軽いが、それは絶対的な命令であった。


「かしこまりました。ナナセ様、至らない点が多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 ディオグに命じられたリウンは七瀬の方を向いて跪き、恐ろしいほどの従順さで深々と頭を下げた。


「リウン以外の皆も、おもてなしよろしくね」

 満足げに顔を上げ、ディオグは広間にいる他の人々に向かって声を響かせた。


 すると、広間で平伏し続けていた人々が一斉に声を揃えて返事をした。

「国王陛下の仰せのままにいたします」

 一ミリも乱れることのない声の重なりが、広間に響く。


 それは七瀬からすると異様な光景であったが、ディオグにとってはよくある日常に過ぎないらしく、平然としてそれを眺めていた。


「じゃあ、あとは宴で」

 そう言ってディオグは七瀬に一旦別れを告げると、上着を翻して背を向ける。そして側近であるらしい従者を引き連れて、玉座の後ろの扉から出て行った。


 ディオグの姿が見えなくなると、周りの人々は順番に立ち上がり部屋を退出した。

 皆無駄口はなく、大人数が移動しているとは思えない静けさであった。


「じゃあ私は、次はどこへ行くのかな」

 椅子から立ち上がり、七瀬は次の行先へ案内してくれるであろうリウンの方を向いた。

「はい。こちらです」

 リウンはうやうやしく七瀬を導いた。


(これから二週間、この人にお世話してもらえるのか……。うぅ、何か緊張してきた)


 その優しさがディオグの命令の結果だとわかってはいても、七瀬は意識せずにはいられなかった。


 だがリウンは七瀬の落ち着かなさとは関係なしに、自分に与えられた務めを果たしていた。ただ粛々と、七瀬を廊下へと連れ出し違う棟へと向かった。

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