第2節 カフカス北麓
前方はむしろ平坦で、穀物を栽培する畑が視界の二分の一弱を占めている。背後に迫る急峻な山脈が平衡感覚を狂わせる。じっとピークを見つめていると体が後ろに倒れそうになるのだ。もちろん、足元にはそんな大地形などお構いなしにアップダウンが偏在しているのだけれど。
ユスは砂利の足元に何度もヒールを躓かせ、スーツの肩からずり落ちて仕方ないショルダバッグをどうにか制しながら緩い坂道を下りていた。こうも辺鄙な所となるとインフラが整っていなくて堪らないが、それを我慢すべき価値のある(だろう)重要な仕事なのだ。今しがた、背後の丘の上にある民家で取材を終えてきたところだった。
サンクトペテルブルクの街娘よろしく陽気な声でごめんくださいと呼び、非の打ち所がない笑顔で古びた木の玄関扉が開くのを待ち、またしつこくない程度の賑やかさで、И通信社の者です、お話を伺いたいことがあるのです、と出てきた奥さんの怪訝顔に尋ねたのだ。名刺こそ渡さないが、イリヤ・ウワチノワだという偽名も告げ、それから本題に入った。
「一か月前にこの近くで空軍が戦闘していたのはご存知ですか。ああ、三月十二日ですよ。確か、日曜日」表情は硬かったけれど奥さんが構わないよと言ってゴム製のストッパをドアの下に挟んだので、ユスはバッグからメモ帳を出しつつ訊いた。
「知ってるさ。にしても、取材にしちゃ遅くはないかい」
皿洗いでもしていたところだったらしい、奥さんは両の手の甲を腰に巻いたエプロンで拭いた。ユスは何気なく発せられたように思える相手の問いに内心ぎくりとしていたが、口実ならきちんと用意してあった。
「いえ、軍の情報開示が遅れていただけですよ。私たちマスコミはどう報道するのであろうと拒むべき対象のようですから。それで、知っているというのは、音が聞こえたということですか。それともどこからか様子が見えましたか」
相手の口からどんな情報が出てくるのか、その返答を待つ時間ほど期待が膨らむものはない。眼光が鋭くなるのを抑え、ユスは一瞬の間を待った。
「最初は音だったね。この辺りじゃあ真上を飛んでくなんてことは滅多なことでねえ、あんな騒音を聞くのも初めてだったから、何か変だと思ったんだ。私は家の中に居たんだけどね、驚いて外に出てみたんだよ」
奥さんは左右に首を巡らせ、サンダルをつっかけただけの足で家の外へ出た。彼女は自家用車のニーヴァの前を通り過ぎて薪を積んだ小屋の横まで来ると、遠くの山に向かって指を差してユスのことを呼んだ。
「ここに来たんだ。するとどうか、どんぴしゃりの瞬間であの山とあの山の間を飛行機がすっ飛んで行くところだったんだよ。そりゃあものすごい速さでね」
「本当ですか。すると機種は、……いえ、わかりませんよね」意気揚々として語る奥さんにユスはだめもとで訊いた。ペンを持った手で前髪を耳の後ろにかける。
「さあねえ、同じような形に見えたけど。ただ色ならわかるよ。白いのと、うーん、灰色のだ」奥さんは腕を下げ、こちらに向き直って体の前で腕を組んだ。
「二機? 灰色のが二番目ですか?」
その情報が本当に新しいものだったのでユスは素直に驚いた。つまり、逃げている方と追っている方の機を間近で見たという人はこの奥さんが初めてだった。
「そうだねえ、灰色っていうより水色って感じだったかもしれないけれど。そうそう、あのあたりかな、白いのより高いところを飛んでたね」奥さんは再び景色の良い方へ向いて、大砲の仰角調整でもするように指差す方向をじりじりとずらして見せた。
「はあ。…それから先は?」
「あの爆発だよ。知ってるだろ? この先も話すかい?」
「いえいえ、結構です。今のお話だけでも十分に収穫がありました。ありがとうございます」
「そりゃあどうも」奥さんはちょっときまり悪そうに、それでも最初よりかは愛想のいい顔をして片手を上げた。ユスはその動作に続きがないことを確かめると、もう背中を向けてしまった。
同様のやり方で近隣の住宅をすでに十軒から十五軒は回っていた。大した数ではないと思うかもしれないが、マンションのような大きな建物はなく、一軒家が疎らに点在しているのだから額面より多く労力も時間も消費していた。疲れた、といえる。そういうわけで、貰った情報を総合してある程度実態が見えてきたので、一度拠点に戻ろうかという気になっていた。
車は少し歩いたところの木陰に止めてある。こう閑散とした地区でも敷地の目先まで来るまで乗り入れるのは幾分威圧感が強いかもしれない。役所の人間や郵便配達員だって歩いてやってくる。赤い土の上をうっすらと細かな石が覆っただけの道を、転ばないよう足首に力を入れてしばらく歩き、九一年型の白いパジェロのところまで辿り着いた。ユスの私物ではなく、ソチの街の貸し自動車屋で選んできたものだ。もっと安くて小さい車種もあるにはあったのだけれど、貧弱な車ではもしか泥濘に填まった時に一人では進退きわまる。それでは困ると、タイヤやボディの汚れや塗装の退色にも目を瞑り、走破性では最も安心できる唯一の選択肢に決めたのだ。
開けたドアと反対のフレームを両手で掴んで体を引っ張り上げ、異様に高床のキャビンへ上がる。ドアを閉めてふうと吐いた息がかすかに白くなった。標高のせいか、空気はまだ冷たく乾燥している。エンジンをかけ、空調のスイッチを切り替える。コートの前のボタンを外し、ショルダバッグからノートを取り出した。
例の飛行機はその筋ではルーラーと渾名されている。定規ではなく、支配者という意味だ。圧倒的に強いことが一つ。もう一つは、出没した周辺からの迎撃に対し、「それ以上の敵意を表せば、撃墜することを許諾したとみなす」という趣旨のモールスをガードチャンネルで送っていることから、むしろ法の制定者のニュアンスでそう呼ばれる。ところが、攻撃されれば、もしくは攻撃されそうになったら反撃をするなんていうことは戦場の掟であって、なぜわざわざそんな通達をするのかはわからない。正体不明なのだからUFOなのだけれど、宇宙人だったらモールスなんて打ってくるはずはない。ちょっと微妙なラインの未知なのだ。
ユスは手帳に目を通して今回新たに入った情報を整理した。ボールペンの先を仕舞い、携帯電話を取り出す。国際電話だ。長いコーリング音の後、相手が電話に出る。
「はい、こちらネヴィム・スピーネ相談室」
仕事をするとき特有の落ち着いた感じの声でロゼは電話に出た。彼女は別の仕事で家を空けていることが多いから、相談室の電話番号と同じものを携帯電話にも当てている。国際電話ゆえにこちらの番号が非通知で表示されたのだろう、その時の対応だった。
「私よ」
「ああ、なんだ詐欺?」ユスが声を入れると、ロゼは急にあからさまに声のトーンを軽くしてそう切り出した。短い沈黙のあと、軽く笑う声が入る。「うそうそ、わかってるわよ。それで、その件は順調? こういう訊き方でいい?」
「ええ、順調よ。それで――」
「なに?」
ユスが話すが待ちきれないという感じでロゼは割り込む。むしろ話の進行を阻害さえしている。まあ、それで第三者が傍聴して世間話に聞こえるようになるというのなら好都合だけれど、実際どうなるか。
「調べてほしいのは、ひとまず公式の発表と、その裏どれだけ掴んでいるのか。それと、今回の事件は外にどれだけ漏れたかということ。報道関係と、クチコミその他、満足が行く程度に当たってくれないかしら」
ロゼの陽気に裏で対抗するわけではないけれど、ユスはゆっくり静かに告げた。彼女ならどんな言い方でも一回で聞き取るだろうし、なによりユスがそういう喋り方をするのをよく知っている。やや間があって、後ろの環境音が入る。かすかに人の声も聞こえた。少数の他人がいるようだ。多人数の喧噪ではなくて話し声だ。
「……今、大学なんだけど」ロゼは悩み事を打ち明けるように言った。
「忙しいの?」
「電話に出れないほどじゃないよ。ほら、現に今PCの前だしさ」
「急ぎじゃないから帰ってからでいいわ。そうしなさい」ユスは微笑むようなつもりで言ってやる。
「わかった」
「言いたいことは以上。何かあるかしら?」
「無駄な出費を強いられる前に切った方が得策じゃない?」世間話でもしてほしいのだったらいくらでもしてあげるけど、とでも言うようにロゼは促した。
「そう、じゃあね」
ロゼの応答があったのを確認してから電話を切った。国際電話は高い。バッグを肩から外して助手席に置き、ブレーキを踏んでギアを入れる。走り出すと、さっきあれほど苦労して歩いてきたのと同じ道なのに、車に乗った途端すいすい進む。足元で石ころの跳ねる音が聞こえるだけである。しばらく来た道を戻り、ようやく舗装路に行き当たる。右手には一面の畑が広がり、左手から視界後ろにかけては例の山脈。あとは川に沿ってソチへ戻るだけ。簡単に思えるけれど、実際は長い長い道のりなのだ。
ルーラーについてのことはあらかたの情報を浚った。それでも、事実の何割の情報が手元にあるのかそれさえ見当がつかない。地元住民の認識も知った。これを当事者である軍にどれくらい漏らしてやるべきかは迷うところだ。軍も独自に戦力を回して目撃者情報を集めているのだということは、今ほど通ってきた路傍に独特の塗装をした車両が停めてあったことからも簡単に想像がつくのだけれど、いかんせん制服姿のいかつい男たちに務まる仕事ではない。ともすれば情報提供なんて発想はある種の人情だけれど、あえてこちらが色々と嗅ぎ回っていることを晒す必要もないだろう。とにかく、ロゼの居るハンブルクへ戻るのだ。早く戻ってたっぷりとバスタブに満たされた温かいお湯に浸かり、体を癒したい。
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