第3節 ハンブルク中央区

 デスクの上に鎮座した黒いPCと白く光るディスプレイを前にしたロゼは電話の間、口と耳ではブリュンヒルト(仕事中はユスと呼べと言われているが)の相手をしていたけれど、目と体では別の問答をやっていた。

 細身のカーゴパンツにシャツとベスト、さらにスカーフと工学系の学生にしてはやけにファッショナブルな少年が視界に追従してきて、その中央にメモ用紙を掲げている。電話中だというのになんとデリカシーのない愛想と図々しさ。しかも、そのメモ用紙の内容である。

「NASAの物理エンジンと研究データ」だって…?

 なんてこった。

 一瞬目が釘付けになりそうな大胆な記述だったけれど、なんとか鬱陶しく思っているふうを装って椅子の旋回させ、その学生を視界から避けていた。

 ロゼは携帯電話を閉じてマウスパッドの横に置き、眼鏡のブリッジ部を中指で押し上げてその学生を見上げる。軽く睨んだつもりだったけれど、彼は機嫌の良い表情を剥がさない。それでいてそこはかとなく真面目な印象を与える。その真面目さといったら、作業台でアルミニウム製の蟹の脚と向き合っている教授の手元にあるブラックコーヒーと良い勝負だ。

「それを、どうしろって」

「ください」と学生はきっぱりと言う。彼が立っているのはこちらの膝から一メートルほどのところだが、この狭い研究室では十分に長い間隔と云えるだろう。

 彼の背後左手に窓がある。雑多な物品の積まれた棚に侵食を受けていて、水垢のこびり付き方も酷いのだけれど、カーテンの吊るされていないのは視界的にせめてもの救いだった。ロゼはその向こうにある雲を仰ぎ見て無性に煙草が吸いたくなった。

「くださいって、なに、ハンブルクにNASAを複製するつもり?」

「いいえ、範囲はきちんと指定します」

「…え?」ロゼは目だけを動かして研究室の中をざっと見渡す。他の学生が五人。こちらに向く視線はあるが、会話内容を気にしている様子は誰にもない。背凭れから体を浮かせてさりげなく学生に耳を近づける。顔の向きは例の窓。

「依頼費用の用意はあります」

「あんた、何者?」

「え? 名前ですか」

「そんなことは知ってる。それで、いくら?」

 学生は苦い顔をして面前に手の甲を示す。人差し指が立っていて、中指から小指は第二関節で折れている。千か。

「安いわね」私はそんな値段で買われるのか、と娼婦の気分でうんざりしながら姿勢を戻し、右手でキーボードを叩いてPCをシャットダウン。USBメモリスティックを引き抜いて携帯電話とともにデスクの脚の横に置いた革鞄に入れる。

「えー」と学生。

「私は別件で帰るけど、もてなしと帰りの足がなくてもいいなら付いて来れば? ここで話すようなことじゃない」

「本当? あ、…でも、近所ですよね」学生は目をぱちくりさせる。

「まあまあ」

「じゃあ行きます」

 私を前にしておいてなかなか打算的な奴じゃないかと内心苦笑した。

「教授、そろそろ失礼します」PCのファン音が消えたのを確かめて席を立つ。

「はい、お疲れ様。今日もありがとうな」よれたワイシャツを腕捲りしてすぐにでもサラリーマンに転職できそうな教授は顔を上げて愛想良くする。周りの学生からもちらほら声がかかった。

 廊下でルーシアの箱を引っ掻きながら待っていると、学生は予想より三十秒くらいは早く身支度を整えて研究室から出てきた。金属製のドアはドアノブを下げる時にホール・パンチャーに二十枚くらい噛ませたような音を出すのだが、これが神経に障るのだ。学生が「すみません」と言わなかったら舌打ちをしていたかもしれない。

「煙草吸ってもいい?」大学の敷地を一歩踏み出したところでロゼは半分振り返った。

「どうぞ」先輩の不機嫌を察してか、学生は青空みたいな無表情だった。感情を隠しているのではなくて、何も思っていない。そういった感触は好みだった。彼は他の学生の中で見ると幾分道化っぽい印象だったのでその点は意外だった。例えば昼食パシリ決めのくじ引きに負けて行って帰ってくると、自分の分だけ買うのを忘れていたりするのだ。否、その後でもう一度走ってくるということは、相当な頑固者である。自分の欲しいものをどうしても他人に取られたくないのだ。

 大きく吸ってその分の煙を吐き出す。気分が落ち着いた。

 なんというか、自分がこの世界を汚している実感が湧く。

 内燃機関が排ガスを吐き出すように、私も生きているんだって思える。

 私だけが清潔のはずがない。

「どういう経緯なの」東の駐車場に向かって歩きながら訊いた。

「この依頼ですか?」

「そう」

「それはちょっと。会社の事情が」

 ロゼは今度こそ舌打ちした。もう機嫌が悪いのではない。そういう答えを予期していなかったから出たものだ。

「ああ、そうかそうか、なるほどね」

「えっ」と学生。

「なに、違うわよ」

 ロゼが煙を吐くと、学生もふぅと胸を撫で下ろした。会社の企みを露見してしまったのかと思ったらしいけれど、そんなことは強引に彼から聞き出さなくったって、当の会社のデータベースが素直に語ってくれることだ。それが私の才能。彼にブリュンヒルトのような諜報員の才能は無いようだけれど、平静で私に付き合っていられるのが、まあ、それに匹敵するものだろうか。

「ボルボですか」ロゼのリモコン操作に対して愛嬌たっぷりにハザードランプで応えた車を見て学生が言った。

「ボルボだと何かな?」

「スポーツタイプは珍しいんです。僕の中では」

「詳しいの?」

「いえ」学生はメモ紙の時の愛想顔をして、「意外です」と呟いた。

 それに続いた「助手席でいいですか」という問いには、許可の意味で何も答えなかった。車に乗り込み、シートベルトをする前に灰皿に煙草を押し付ける。今回の一本が比較的長く吸ったものであったことを確認してから、次はいつ吸うかを考えて蓋を閉じる。学生はその手元を見ていたが、結構吸うのですね、などとは言わなかった。それなら運転している間にもう一本くらい吸っておこうかとも思ったけれど、さすがに意地が悪すぎると思ったのでやめておいた。

「ファッション誌とか読むの?」通りに出て一つ目の赤信号で訊いた。

「あ、いや、女性ものはさすがに。でも、表紙とかポスターとかに写っているのはよくお見かけします」

「へえ、そう。でもね、私は自慢したいんじゃないの」ロゼは笑う。おかしな男だ。

 彼のファッションセンスは評価に値するけれど、私は自分が評価する立場にある人間であることも自覚しているってこと。本日はダークレッドのケーブル編みカーディガンを中心にした組み合わせだ。「君自身のファッションだよ」

「ああ、そっちか」学生は赤くした顔を俯け、口と鼻を両手で隠す。「読んでません。テレビも見るし、街も歩きますし」

「へぇ、体得なんだ」

 それから十分程度、家に着くまで何も話しかけずに運転した。彼から話しかけてくることもなかった。右腕をドアのアームレストに載せてダッシュボードとコンソールの間に視界をほとんど限定し、あとは信号を過ぎる時に目を上げるくらいだった。本当にメモ紙の依頼だけが用件らしい。

「マンションなんですね」これが彼の次の発言。エレベータの中だ。

「住所については口外無用だから」

「もちろん、言いませんよ」

 別に言ってもいいのではないか、と自分で思う。こちらも商売なのだ。色々事情のあるPC関係の相談は基本メールで受けるけれど、必要とあればオフィスに招くこともある。そのはずなのに思わず突っぱねたのは、特に二十歳前後の不安定な感触に対して不信感が強いからかもしれない。

 十四階、オフィス、というか、応接間。自分の生活空間に隣接しているし、ショートカット用のドアも部屋の中にある。三×五平米くらいの細長い部屋で、奥の壁に南向きの窓がある。その前に愛機ウルズを乗せたデスク。西側の壁にキャビネット。東に応接セット。ショートカット用のドアは東の壁。

 キャビネットに置いたソニー・プロピクシーの電源を入れて、聴きかけだったオウテカのアルバム、キアスティック・スライドをそのまま再生する。荷物をベージュのソファに投げ、愛機も起こす。

「座って」

「失礼します」

「じゃあ、聞きましょうか」自分のバッグを拾ってロゼもソファに座り、ほとんど無意識に仕事のためのセリフを言った。内心では全然無関係な相手の髪の色に気が行っていたのだ。天然物の真鍮色らしい。

 十分弱を費やして一通り話を聞いたところ、どうやら彼は飛行機を作りたいらしいとわかった。直接そうは言わないけれど、欲しいのが高度な流体力学演算のできる物理エンジンとそのモデルデータということになれば、かなり悪質な技術盗用である。

 ところがそれを咎めることはできない。ロゼの仕事は情報を盗むことだった。憎い立場だ。

 それに、技術盗用、なんて露骨な言い方をしなくても、インスピレーションを得るとか、オマージュするとか、もっと体の良い表現はいくらでも可能である。実際、こちとら、そんな汚いことができるかと吠える猛犬の繋がれている鎖の短さを見てほくそ笑むような職業なのだ。

 学生は去った。彼には後日また会うことになるだろう。結果を伝えると同時に成果と報酬を交換しなければならない。さて、じゃあ、どっちからやるか。先に連絡が入ったら面倒そうなのはブリュンヒルトの方だな、と考えて方針を立てつつ、ウルズに繋いだディスプレイのうち左の一台に自作のウェブ・ブラウザを立ち上げる。

 ヴァーチャル・ディメンジョン・スターラ。それはネット世界に潜るための最適ツール。

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