第1章 イスタンブール
第1節 イズミット港横丁
目を瞑っているのと開けているのと、どちらが明るいだろうか。ベッド脇のスタンドライトの光は仄かに、瞼の裏は血の色に灯る。人は完全な闇を体験することができないと聞いた話を思い出す。なるほど、闇は可能性の宝庫だ。
ほうら、また、あの白い影が翻る。
高度の低い朝日の光に誘惑されて役目を放棄しようとするのが鬱陶しくて開け放ったサイド・ウィンドウの向こうに、まだ複雑に絡んだ木立がハレーション攻撃を仕掛けてくる。それらに耐えて見通した広大な空の中心に、その白い鳥は舞っていた。
許された一瞬だけで目に焼き付けた、空力的に全く無駄のないそのフォルム。
太陽に型を当てたくらいに真っ白な機体。
まるで磁石で引かれているかのように滑らかな加速。
発泡スチロールでできているかのような軽やかなピッチアップ。
世界を見下したような圧倒的な強さで瞬く間に二機を蹴散らし、悠然とどこかへ飛び去った。視覚から入ったそれの像が自分の中に浸透し、体内に得体の知れない化学物質をまき散らした。今もまだありありとその光景が瞼の裏に浮かぶ。
「なぜ人は飛びたがるのだと思う?」上に乗ったアンジェが訊いた。漬物石のような心地の良い重さだった。
「飛べないからさ」彼女の背中に手を回し、肩甲骨の縁や恐竜のような背骨を撫でる。刺青はどのあたりだろうか。
「じゃあ、飛べる動物が特別視されてきた?」
「そうじゃないか」
「そうは思わないけどな。陸の動物も、海の動物も、それぞれ何かの象徴とされてきたんじゃない?」
「調べたのか?」
「えっと、調べたというか、知ったの」彼女は右手で布団を手繰り寄せる。眠そうな表情だった。
「それ、違う?」
「修得と体得、かな。それでね、あたしが思うのはね、人って水や土よりも軽いけど、空気よりも重いの。その上に浮かべないでしょ。それはね、神様から禁止されたことなんだよ」
彼女は起こしていた首を寝かせ、肩の付け根に耳を擦った。髪の感触が冷たい。
「それじゃあ、やっぱり、飛べない」
「でも、あんたは飛べるでしょ」彼女はそう言って口元を緩めた。甘い視線だった。
これは想像だった。夢想だった。他の女と寝ているのにアンジェのことを考えているのだ。
シードルは目を閉じていた。
「なあ」と呼んで女の右の二の腕に回している右手に意識を通わせる。
「ニーナ」女は枕に頭を乗せたまま顔をこちらに向け、シードルの視線が来るのを見計らって一瞬だけ口をへの字にした。
「ニーナ」女に従って言い直す。
女は心地よさそうに喉を鳴らし、ベッド横のテーブルに腕を伸ばす。目標に指先が届かないらしく、器用に背中を波打たせて少し向こうへ移動した。それから「はい」と腕を回し、手持無沙汰になったシードルの右手に物を押し付ける。
銘柄はラーク、ライタは安物で、スタンドライトに照らすと黄に発色する。それを琥珀色と思う今は悪くない気分なのだろう、と自分を考察。
「煙草も悪くないが」
「違うの?」
「ああ、喉が渇いた」
女は無精髭の気になるシードルの顎を撫でると、もぞもぞと動いてベッドを抜けた。娼婦にしてはやや細めの裸体を晒し、部屋の隅に置かれた冷蔵庫の前に歩いて行く。開いた扉の中から黄色い光が漏れ、女の白い顔を照らし、耳の後ろに濃い影を落とす。赤に近い明るいブラウンの髪にはウェーブが掛かっている。光はその波の上にこぞって集まった。女は光の中をがさごそと漁り、ソーダ水のペットボトルとグラスを持って足で扉を閉めた。女が水を注いでいる間にシードルは位置をずれて軽く上体を起こした。
「ひゃあ、冷たい」女は先に口をつけ、眉間に皺を寄せたままでそのグラスを差し出したが、シードルの表情を見て動きを止めた。「あら、嫌だったかしら、ごめんなさい」
「いや、別に気になることがあっただけだ。問題ない」受け取ったグラスを煽り、口腔を満たすだけの量を含んで残りをまた女に返す。あまり威勢の良くない炭酸水は大人しく喉を下り、水に生かされる生き物に生きている心地を与える。
「気になることって、なぁに」女は空にしたグラスをテーブルに置き、ベッドの縁に座って布団を纏い、上体をこちらに倒す。
シードルはやはり女の二の腕に手をやって、親指と中指の輪で回るところがないか探してみたり、中指を人差し指に替えて弾性を測ってみたりする。あるいは、そうやって女がどれほど擽ったそうな表情をするか予想を重ねる。
「考えごと?」
「いや、思い出しごと」
女はシードルの手をちらりと見やり、唇を薄く開いて優しそうな表情を作る。女性としては頬や顎の関節のところに柔らかさが足りないけれど、相当に整った、男に好かれる顔立ちだ。
「思い出すって、何を?」
「さあ」
女はまた一瞬だけ唇を曲げる。
「ねえ、あなたどこから来たの。港にはロシアの船は来ていないって。もう十何年も来てないんだって、支配人さんは言ってたよ」
「俺は港から来た」シードルは微笑した。内心で浮かべた笑みを百分の一に希釈して表情に出した。
「えー? でも、私だって見たんだよ。港の前は毎朝自転車で通るんだもん」
「空の港」
「嘘!」女はシードルの肩に手を突いて起き上がり、顔を正面に向ける。右手から照らすスタンドライトのかすかな光がその顔の半分を白く照らした。「空港って、でも、遠いじゃない」
「遠くても、俺の知っている店はここしかない」
女はさっきと同じ優しそうな顔をして、シードルにぎゅっと抱きついて「嬉しいな」と呟いた。
「よせよ。常連じゃない。おまえ、ニーナがまだガキの頃に来てたくらいのもんだ」
女は二十歳くらいに見えた。前に自分がここへ来た時彼女が何歳だったにしろ、その時の彼女はガキだったに違いない。何しろ自分にとってみれば二十歳でもガキなのだから。
しかし、そう言って、おまえはガキとセックスするのかと野次を飛ばされるのも気に食わない。この女はガキである以前に女なのだ。この概念は屁理屈ではなくて、認識的に重要な効果がちゃんとある。単にガキか、あるいは女かで扱いを変える必要のあるシーンだ、ということだろう。
「とにかく、落ち着いて、俺の横に寝ろ」
シードルは女の背中に腕を回し、肩を持って自分から引き剥がす。そのまま抱く形にして、軽くキスをしてやる。
「俺は十日前、ノヴォジェヴィチの軍人墓地に居た。わかるか、モスクワだ。俺の後ろには、熊みたいな体と鼻の高いブルドッグみたいな顔をした恐いジジイが軍服を着込んで立っていて、俺の踵がコンマ一ミリの誤差無く揃っているか目を光らせている。名前はアルトゥール・エーリン、海軍少将」
女は愉快そうに笑う。やはり喉の奥に引っ掛けた仕方であるのは、大きな音を出すのを嫌っているからだろうか。男を誘う手口の割に小心者なのかもしれない。「面白い。でも、なんでお墓の話なんか?」
「だめか?」
「いいえ、別に」
特定の話題を探していたわけではなかった。女が質問攻めにするので、自分の素性か経験、あるいは間の取り方や発声方法といった話し方に興味を持たれているのではないかと勘違いして、適当な近況を口にしたに過ぎない。
「聞き飽きた話かもしれない」
「いいの、話して」女は笑顔で繕う。蝋で固めたように虚ろな感情表現に見えた。
「じゃあ、いいか。目の前には黒い墓石。ご丁寧に聖書の一節まで彫ってある。山上の垂訓ってやつだ。俺はその前に白い花を供えて、手を組んで目を瞑る。そこで、後ろのジジイが唐突に訊く。何か言っていたか、とね。俺が振り向いて首を傾げたら、ジジイはふんと鼻を鳴らして、体の向きを変えて歩き出す。まるでテストの通知表を渡し終えた教師みたいにさ。でも、俺は本当にわからなかった。何も聞こえなかったんだ。なにせ、その墓には誰も入ってない。ここに眠る、なんてフレーズは気休めだったんだ」
正面の窓から辺りの建物に緑や赤の光が照っているのが見えた。一階店先のネオン看板がやかましく輝いている。
「ねえ、それって誰のお墓なの?」
女の目の付け所は意外だった。誘導が良くないってことか。
「パイロットだよ。だから俺もジジイも見舞いに行った」
「あなたもパイロットなの?」
「だとしたら、さっきみたいに騒ぐか」シードルは渡された煙草のことをふと思い出して、心当たりのある辺りを手で探る。「騒ぐのはやめてくれよ」
「もちろんです、お客様」
「まあ、空港から来たとは言ったからな」
急に接客業に従事していることを思い出した女の所作を軽くあしらい、さして腑に落ちないことでもないと思いながら、ケースから一本抜いた煙草を咥える。下手なクラムチャウダを食べる時のような不吉な音を立てるライタだった。その火でラークの先端を炙る。薄暗い煙が立ち上り始めるのは陽気な幽霊が出没したみたいだった。
「ねえ、先輩さん」灰皿を取って、私にもちょうだいと言ったあと、女は呼んだ。
瞬時には誰のことを呼んだのかわからなかった。彼女はさっき自分のことをニーナと呼んだから、彼女自身のことではない。この部屋に、この空間に二人しか人間が、あるいは他のペットにするような動物も居ないのだから、それは明らかにシードルのことを呼んでいた。
「俺のこと?」再びラークのケースを開き、ひょいと一本のシガレットの頭を出し、女の前に翳す。彼女は倦怠な動作でろくに対象物も見ずに抜き取って口に咥えた。
「そうよ。あなたの後輩、一緒に来た若い人、あの人もパイロットなの?」
シードルはまた窓の外の空虚で賑やかな気配に目を向ける。この店に来たのは他でもない、その後輩のひよこが童貞だったからで、女とのスキンシップもパイロットとしての器量に影響するかもしれない、と思ってわざわざ連れてきたのだ。もちろん科学的な根拠は無いけれど、男女経験の無い同僚など居なかったし、ここで一つその臆病さを叩き直しておく必要も感じていた。いわゆる教官魂と云うやつだ。別に俺は彼の教官ではないが。
「ああ」と曖昧に答える。後輩のひよこが本物のパイロットかといえば、それは疑問符付である。
「いがーい」若さゆえに許される口調で女は言い、ふぅと煙を吐き出す。「どうしてイズミットなんかに来たの?」
「イズミットじゃない。イスタンブールだ」
「でもここはイズミット。海峡からは五十キロも離れてるのよ」
「だから、ここに来た用事はもう言ったろう」
「まあね」
しゅんとなった女の肩に手を移し、さりげなく骨の線を撫でる。密度が同じなら強度は断面積に比例する。あくまで感覚だが、骨太だ、と思う。普通の女ならこれくらいなものなのだろう、とも。
「そういうのって、軍事機密?」女ははっとしたように訊く。
「さあ。俺は何も確定したことは言っていない」
「目的とか作戦とか?」
「そう。話すつもりはないけど」
自分の名前がシードル・ラジーシチェフで数年にわたるブランクから復員した海軍の上級中尉であるとか、女に後輩と呼ばれた男の名がユーリ・フィリシンで教育隊上がり立ての新米であるとか、一緒にイスタンブールに来た謎のアメリカ人が女であるとか、そういったコンクリートなことを話すつもりはなかった。
シードルは女の用意した灰皿に短くなったラークを押し付けて鎮火し、名残りの煙を見上げる。部屋の中高度から高高度にかけて二人の吐いた煙が交錯し、互いの機動の間に割って入って、薄闇の中に淡く複雑な軌跡を描く。ストリージの機動飛行の航跡を再現した3DCGもここまで複雑ではなかった。
「パイロットは?」
「もちろん、あるよう」女はレベルの高いジョークでも言われたみたいに笑った。「でも、ロシアの人は初めて。私はね」
「へえ」
「なに、へえ、って」女は肩を触られているのが嫌になったらしく、左の肘に体重を乗せて右半身を上にし、こちらに正面を向ける。シードルは空いた右手を女の腰に回す。
「いいや、感慨深くないわけじゃない」
「ありがとう、わかってくれるんだ」
女は人懐っこい笑顔を売り叩く。彼女は部屋に入った最初に、支配人から自分がこの店で一番だと言われたことを誇らしげにしていた。かといってお高く留まっているふうでもなく、なるほど多くの男が惚れ込むわけだと納得が行かないではなかった。しかし、同情は苦手だった。同情されるのではなく、同情することが。他人は他人、自分は自分。別にわかってやろうとしたわけではないんだと思いながら女の顔の横に視線を走らせて、暗く沈んだ壁紙に焦点を合わせる。幾何学模様を整然と並べて、終始のない世界においでおいでをしていた。陰鬱な壁紙だ。
「私、自分がロシア語話せてよかったって思ったの、今日が初めてよ」
女はセリフ通りの温かい雰囲気でシードルの腕に抱きつく。彼女のロシア語はあまり訛がない。アンジェより綺麗なくらいだ。人種など知ったことではないが、ロシアで身につけたロシア語を話せるロシア人が彼女の肉親の中に居るのかもしれない。
女は頬に力を入れたままの表情で体を起こして灰皿にラークの灰を叩き落とし、続けてぎゅっと押し付ける。二つの健気な蛇腹の載った灰皿は定位置のテーブル上に戻される。
「今の仕事は望ましい仕事かしら。楽しい?」
「ああ、楽しいさ」
シードルは女の説教を聞くために体を倒した。ベッドは涎を垂らした犬と同じくらい人の背中を待ち構えていた。
「私は、好きじゃないなあ。なんだかね、籠に入れられているみたいで」女は起き上がり、ベッドの上に座り直して体に掛布団を纏う。
シードルは頭の後ろで手を組み、顎を少しだけ退いて目を女の顔に向ける。ちょっと期待していないふうで斜めに見下ろす女とちょうど目が合った。
「本当は、私、もっと自由なんじゃないかって。だからね、いつかお金が溜まったら、シベリア鉄道に乗るんだ。モスクワの…ヤロスラヴリ、だっけ、からずっと、ウラジオストクまで、一週間と一日かけて……。なんてね」
ニーナは顔を背けた。目線の先のベッドの縁、そこから先には地球の底まで続く縁がぽっかりと口を開けているのではないかと思わせるほどの暗い目だった。
「わかるよ」と言いかけてやめた。自分が無駄な同情をしかけていることに気付いたからだ。例えば、女とアンジェは同一ではない。例えば、本当に空を飛んだことのない人間というのは誰しも、空と自由とをただならぬ関係の中に捉えてしまうものなのかもしれない。
「なに?」女はシードルをまっすぐに見つめた。
「いや、悪いな。同情をするつもりはないんだ」今度はシードルが目を背ける。ベッドの下は、見たとおりの床だった。足を下ろせばスリッパに届くだろう、というくらいの。
女は吹っ切るように鼻から息を吹いた。「いいのよ、ごめんなさい」
「でも、まあ、人それぞれ願いはあっていいんじゃないか。俺が仕事を楽しめるのは、そういう理由だろうしな」
シードルはベッドを抜けて服を着る。願望成就、つまり、望みとか叶えるとか、自分がそれを言ったのかと思うと鳥肌が立ちそうだった。女がどう反応したかは見なかったけれど、良い顔をしているに違いないという確信はあった。
店の二階の廊下はL字型で、外側に部屋のドア、内側は吹き抜けに面した手摺が取り付けられている。その手摺が曲者で、見かけはアンティーク調で貴人然としているが、うっかり寄りかかろうものなら寿命が数年は縮む。釘が材を掘っているというよりは鳩尾の嵌りが甘い感じで、凄まじくぐらついた。それを心得て身を乗り出して下階を窺い、ユーリが居ることを確かめる。ここへ来た時の彼は酷く緊張した様子で、支配人の裁量で振り当てられた肉付きの良い金髪の女に肩を包まれて部屋に入っていったが、今の彼はラウンジのソファに座った形で固まり、水だかウオッカだかの入ったグラスを両手で支え、周りを囲んだ女たちに悲愴の文字が見える背中をさすられているという有様だった。随分長らくそうしていたらしい。
シードルは振り返ってローブの腰紐を締めている女にアイコンタクトを取り、案の定の結末であることを伝える。女は軽く手摺の下を覗き込んだあと、眉根を浮かせた顔を見せてそれが大した事態でないことを示してから、先導して階段を下りた。階段はLの書き始めの位置から壁伝いに下りていて、こちらの手摺には何の異常もない。数段置きに踏み板が不吉な音を立てるだけだ。この音が猫の尻尾を踏んだ時みたいじゃないかと上る時に女が話していたが、猫の尻尾を踏んだ試しのないシードルにはピンと来る例えではなかった。
「兄さん、遅いよぉ」
階段を降り切らぬ辺りでそんな呼ばれ方をした。声の主はユーリの相手の女だ。今も彼の隣で世話を焼いている。
「悪いな。世話かけた」
「いいのよ。サービスだから」
それを堰切りに女たちは笑った。ユーリはソファに座って固まったまま、押し黙ってグラスの水面を見つめていた。
「帰ろう」シードルは言う。微妙に優しい口調になってしまった。
シードルが目の前に立って影を作ると、ユーリは斜めに顔を上げ、薄い視線をこちらに向けた。顔は赤いが、変に血色がない。「はい」とほとんど息だけで応じて脚に力を入れるが、よろけるのを見越したシードルは先に手を貸した。この、エネルギーの授受がある感じは嫌いだった。
「また来てね」女たちが後ろで手を振っていた。女――ニーナは階段の手摺に凭れかかって、独り割り切れないような顔をしていた。少なくとも去り際の客にもう一度来るのを期待して向ける顔ではなかった。
店の外に出た途端に空気は刺さるような冷たさになり、ここ数時間のことをすべて忘れてしまいそうになった。〈Romanesque〉の店名が光る赤と緑の虚しいネオン・サインを頭上に過ぎ、石畳の細い下り坂を歩きながら、冷風に散らされかけた記憶のファイルを拾い集める。夢の中の場面を繋ぎ合せる要領で復元していくのだ。店に入る時、空港を出る時、着陸する時、離陸する前。ユーリが初々しい敬礼をしたのはそんなような場面だったなと思い出す。
その時、「すみません」と肩を貸す横からユーリが言った。
シードルは彼の顔を横目でちらりと見る。「無理強いだったな」
ユーリをこんなところに連れてくるべきでなかったという後悔はあったし、何よりその動機はお節介で独善的なものだった。今では、なぜだろう、この冷たい海風がそう思わせるのだろうか。この肩を貸しているのは収支をつけるためだ、という合理的な考えも頭の片隅にはあるのだった。
「仕方ないよ、初めてなんだから、ってみんなが口を揃えて言うんです」ユーリはシリアスモードで囁き続ける。
「慣れる必要なんかない」
「あなたみたいな人なら、きっと初めてだってうまくできるんでしょうね」
「なんだ?」シードルは衝動的に語気を強めたが、根拠はあった。ユーリの口調が卑しくなったからだ。
「俺、悔しいんですよ。センスが無くてうまく生きられないことがあるって思うと」
「そんなもんは努力で補完したらどうだ。教育隊で教わらなかったか」
「わかってますよ。でも、どんなに頑張ったって、やっぱり違うんだって、打ちのめされるんですよ。いつもそうだ。テニスだって、最初にストロークショットを覚えて、センスのある人がいて、俺が頑張ってその人と打ち合えるようになっても、次、サーブの練習ってなった時に、センスのある人はすぐに打てる。でも俺は、勝手がわからないから、一からやり込むしかないんです。体が覚えるとか、なんとなく、こういう感じ。できる人が言うように都合良くなんていかないんですよ」
「それで?」
「え?」
「だから、なんだって?」
シードルは肩を解いてユーリを突き放す。暗く反駁するその目を認め、一度構えてから腹に向かって思い切り右のストレートを入れた。それでも立っていたら蹴りを入れようと思ったが、ユーリは一撃で石畳の地面に倒れ込んだ。
「あのなあ…」シードルは熱り立った。一度パイロットになっておいて今さら何言っているんだ、なんて怒鳴ろうとしたのかもしれない。けれど、やっぱり他人に肩なんか貸すものではないのだ。そう思ってみると「帰るぞ」という言葉が自然と口を衝いて出た。
しかしユーリは聞かなかった。
「俺にはそれしかなかったんだ!」荒く息をしながら言うなりユーリは口に手を当ててから地面に四つん這いになって道の隅に嘔吐した。吐瀉物は粘性が低い。ほとんど酒と水だ。「俺は親父を見返してやりたかった。それだけで頑張ってきたんです。厳しい環境でパイロットをやるなら、俺に選択肢は無かった」ユーリは口元を袖で拭いて、地面に座り直した。「でも、あなたを見てたら、認められるっていうのは、そんな、俺なんか」
「俺が楽をしてきたと」シードルはユーリの前に立ち、ジャケットのポケットに手を突っ込んで言った。
「そんなの――」ユーリは目を開いてシードルを見上げたが、すぐにまた伏せる。「そんなの違いますよ。そんなの、わかってる」
「帰るぞ」シードルはさっさと踵を返してしまってから再び言った。肩を貸す気は失せていた。
自分はこんなに叫んだことがあるだろうか、と少しだけ考えた。これはきっと、多くの老人が若者を見る目に、多くの教師が生徒を見る目に似ているのだろう。瞼の裏では時間の流れを逆行できると信じていて、目の前に記憶の中の自分が現れることを半分だけ願いながら相手のことを見ている。そうして自分がどうすべきだったかを後悔しながら語るのだ。そんなものはきっととてつもなく無意味だ。アルバムのスリットに重ねて仕舞った写真くらい無意味だ。
俺とおまえとは違う。そう言ってやることだけが事実ではないか。ユーリという若いパイロットにとっての自分の存在を考えることは、確かに同情に値した。
彼の前を歩いて見えないように唇を噛んでいたのは、けれど、そんな人間性に対する反抗かもしれなかった。
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