私の支配者

前河涼介

プロローグ

 あの空が見えるか。そう言って男は腕を擡げた。躊躇いや怯えではなく沈着さを持て余した心の表出のためにその肘や指といった関節はまっすぐではなかった。

 彼は男の指先を目で追った。空が燃え、繊細そうな大きな雲がそこにのたうっている。男は目を細め、願いを叶えてくれそうだな、と言った。

 誰かに叶えてもらうのが願いではない。それに、どうして願いが叶いそうだなんて思うのか。彼は疑問だった。

 仲間を捜す鷺の鳴き声を聞いた男は肩を弛緩させ、揚々としてバラストを踏む。その片方、左の靴紐が解けていた。向かって左足だ。男は彼を撫でる。冷えた首筋、薄い肩だった。

 おまえは美しい。まるで夢のようだ。目を瞑っていてもお前のことが見えるのだ。男は呟く。

 それは違う、何か別のものだ。

彼は男に何か言ってやりたかった。不思議だ。自分は誰かに何かを伝えようとしているのだろうか。けれど彼はそれをよく表す言葉を見つけることができなかった。

 呼び止めることのできないまま男は遠ざかった。そしてふとしゃがみ込んだ。男は丁寧に靴紐を結んだ。立ち上がって向き直り、一時の別れを惜しむ気持ちだけを伴って片手を挙げた。無垢な微笑が男の唇に宿った。男にもはや望むものが無いことを彼は案じたが、それはやはり言い出せない感情なのだった。



 冷たい風の夜だ。

 コッキングレバーを少しだけ引いてみて薬室に弾が入っているか確かめる。覗くのはちょっと怖いから、左手に返ってくる手応えで。たぶん、入ってない。

ここは味方の基地なのだから、即応状態というのも逆におっかない。ほんの出来心で背後からドッキリを仕掛けられたら、不意に人差し指が跳ねてしまうかもわからない。境界の中というのも怖ろしいものだ。境界とはすなわち、戦場とそれ以外の場所。戦争とそれ以外の時間。河と海の混じり合う汽水に揉まれて息苦しいところ。一息に見送られる側に置いてもらえれば、兵士として私はどれだけ気が楽だろうか。ヘレンは思う。

「ウルフ・リーダーよりニュクティ、ポイント・アルファに到達」

 隊長さんの声が聞こえた。二十三時二十二分を確認し、その左手を無線機のヘッドセットに添える。さりげなく視界を蝕むヘルメットの縁を上に押しやり、司令部施設の屋上から空港の全景を眺める。滑走路を縁取る光、誘導路の走り方を示す光、航空機たちがここに居るよと自己主張する閃光。飛行場はさながら光の島だ。今入った無線は闇の海を越えたずっと西の方から送られてきている。借り物のバンに分乗して移動した陸戦課の隊員たちが、今頃は徒歩で展開を始めているだろう。

「ニュクティ、了解。ウルフチームの次の報告は配置完了後。セラフは出撃まで二分」

 コーネリウスの声。今日のニュクティは彼が直々に務める。

「ウルフ・リーダー、了解」と隊長さん。

「セラフよりニュクティ」続いて、歌うようにリズムの良いエデュアルドの声。「レディ・トゥ・タキシィ」

「了解。作戦計画に変更なし」

 短い時間に仲間たちがそれぞれの愛称で呼び合った。

 滑走路の手前、左手に広がる眼下のエプロンから一機、大柄な機体がするすると動き出す。上から見て三対の翼を持つSu-30。一番の荷物はエンジンの間に抱えるM400偵察ポッド。作戦エリア上空から拾った電波や地上の可視光データをニュクティにリアルタイムで送信する。

「作戦計画って、社長、面白いことを言うねえ。計画なんて言ってもまるで完璧じゃないっていうのに」やや間があって再びエデュアルド、Su-30セラフから。

 航空管制無線は作戦用の周波数と別なのでこちらの回線には割り込んでこない。

「何か穴があるってわかっているならそこを言ってくれ。すぐにその通り修正しよう」ニュクティことコーネリウスが答える。

 セラフのパイロット、エデュアルドはコーネリウスより年上だけれど、コーネリウスには上司としてのプライドや意地がある。

「俺をセラフに乗せたこと」

「はあ、それは困ったな。ターミナルを複座に改造するくらいの予算なら何とか捻り出せるかもしれないけど」

「いいえ、なんでもありませんよ。自由に越したことはない」

 セラフが誘導路に入ると無線はぷっつりと静かになって、入力が無い時の耳鳴りに似た微かな音を恒常的に発生させる。皆が黙っているだけで故障ではない。

 ヘレンは屋上の縁の一段上がっているところに腰掛けてぐるりと辺りを見渡す。敵の気配は無い。殺気も無い。SV-98のレールに取り付けたPN16K暗視スコープで緑の世界を覗くまでもなく、そうと察せるほどに空気の成分が薄く澄んでいる。

 月が円く、黄色く光っていた。


 トルコ軍参謀部のセヴィン・トゥランが契約の変更と追加を持ち掛けてきたのは今朝のことだ。白い頭が半分ほど禿げ上がった初老過ぎの恰幅の良いその男が言うことには、数日後に控える黒海沿岸国安全保障会議に対して妨害犯行を仄めかす文書を送りつけたグループがあった。が、文書に親切な自己紹介の記述は無く、指紋鑑定等でも効果は上がらなかったため、軍部は警察に委託する形で水面下で部隊を動かして捜索を始めた。すると昨日、立ち入り検査を行ったある施設の家主の反応がどうも怪しいという報告が上がってきたので、再び直轄メンバーで訪問したところ、やはり何らかの武器を隠しているらしいことがわかった。その場で差し押さえようとしたものの、なりふり構わぬ強い抵抗に遭って対抗できずに逃げ帰ってきた。さらに悪いことに突入専門の部隊は東部に出張中で、引き戻しているのではその間に逃げられてしまうかもしれなかった。それでたまたま会議に使われるホテルの警護を任されていたエルフリンクにお鉢が回ってきたというわけだ。いわゆる裏任務だ。問うたところ、報酬の額は大きい。トルコが会議に懸ける思いの表れだった。

 こういう経緯だけれどいかがですか、という電話をヘレンからもらって、コーネリウスはすぐにイスタンブール行きの用意をした。諸事情あって唯一の手隙であったエデュアルドを説得して愛機のターミナルから引っぺがしてセラフの操縦席に乗せ、手間取りつつも国際民間航空機関への照会を終えて離陸、こちらに到着したのが午後四時。軍部と顔合わせして追加契約分の細部を決着し、その間にエルフリンクの面々には作戦の立案をさせておいた。午後六時過ぎには夕食を摂りながらの詰めが行われ、ここで作戦はほぼまとまった。事の運びは急だが、頼まれた任務自体は易しいものだ。

 そうして今、飛行場の管制塔建物内に設けられた戦闘指揮所には例のトゥラン大尉が居る。軍服ではなく黒地に朧なストライプの入ったスーツで纏めており、片手にはワイングラスを支えている。体裁上コーネリウスが彼と異なるのは、上着とネクタイを外している点。それに、醸す雰囲気が緊張ではなく沈然である点。

「飲まれないのですか」トゥランは訊いた。彼は二〇〇一年もののジスクールの置かれたテーブルに寄り掛かり、コンソール上の大画面ディスプレイをじっと眺めていたが、一瞬だけ横目を寄越した。

「いえ、飲みますが」コーネリウスはグラスに口をつけて傾け、唇に冷たい液が触るのを確かめてから再び離す。「低血圧なので」

 この状況で酒など飲めるはずがない。社員たちが勤務中なのだ。社長だからといってこの状況下で富と権力の塊には成り得ない。

「それと何か関係が?」トゥランは眉を顰めてこちらに振り向く。

「いいえ、何も。どだい無駄話です」

 蓄えられた口髭に、その上の腫れたような鼻。トゥランの呆気に満ちた顔を一瞥してグラスをテーブルに戻し、壁から一つ通路を挟んだブースでパソコンの相手をしているブルーノの横まで歩く。彼の前のディスプレイのうち、左には統合状況図が、右にはセラフから送られてくる映像データがそのまま映されている。

「どうだろう」

「展開完了まであと二分ってとこでしょうね。セラフはもう待機に入ってます。遊弋ですね」

「そうだ。サークル旋回だ」

「しかし、ちょいとややこしいですね。ジルさんはヘリの教導で来られないんでしたっけ」

「ああ。大変だったよ、エドは後ろに人なんか乗せたくないってね」コーネリウスはブルーノの肩を叩く。「ほら、油を売ってないで仕事だ」

「セラフよりニュクティ、地上にオブジェクト。方位300から車列」

 噂をすれば何とやらということか、と思いながら無線の干渉を避けるためにブルーノの背中から離れる。

「了解、フライパスの後、引き続き周囲の警戒。解析はこちらでやる」

「了解」

 振り返ったブルーノに人差し指でディスプレイを示してやり、会話内容に従うように云う。ブルーノはにこりと親指を立てるとすぐ画面に向き直った。

 コーネリウスはエデュアルドを呼び出す。「それにしてもよくわかりましたね」

「ヘッドライトだよ。敵だとしたら随分呑気だな」

「なるほど」

 敵だとすれば欺瞞というわけだ。こんな深夜に車列とは見るからにおかしいが、心理戦を仕掛けているつもりなのだろうか。

「しかし、不可解ですね」これはトゥランに言った。

 彼は先ほどから変わらない姿勢をして大画面とブルーノの背中を交互に眺めていた。「何がですか」

「いえ、どう思われますかと伺ったまでです」

「いえいえ、どうと訊かれましてもね」トゥランは渋面を作った。半日放置しておいた紅茶を飲み切った時のような感じだ。「わかりかねます」

「私も同意見です、大尉」コーネリウスは背筋を伸ばして立ち、部屋の隅の誰も居ない闇を見やる。

「ウルフ・リーダーよりニュクティ、行動を開始する」

 オリバー隊長の声にコーネリウスは袖を捲くってブライトリングの腕時計を確かめ、「了解」と返答する。

 ややあって「トリミング終わりました」とブルーノが呼んだ。「これは怪しいっすよ。テクニカルの可能性は高い」

 トラックタイプの自動車が画面に映し出される。荷台は幌で覆われ、その中身が機関銃やロケット・ランチャーならテクニカル、空か積み荷ならただのトラックだ。同じようなシュレディンガー・トラックが五,六台連なり、引っ越しや夜逃げにしてはちと台数が多い。

 コーネリウスはブルーノの横でうーんと唸り、ふとトゥランの方を仰ぐ。興味津々の眼光でこちらを見ていたが、コーネリウスの視線の向いてくるのがわかると顔ごと背けた。

「ブルーノ、あのでかい画面に出してもらえるか」

「お安いご用です」

 大画面の映す画像が切り替わる。場の空気感が一瞬で張り詰める。

「どうです」

 コーネリウスが訊くと、トゥランは片頬に力を入れて首を傾げ、両腕を広げた。

「ニュクティよりセラフ」コーネリウスは軽く息を吐く。「車列の動きを確認してくれ。そのままターゲットに向かっているか」

「セラフ。その模様」予想よりずっと早くエデュアルドからの返答があった。ベテランパイロットの空間把握能力というのは計り知れない。

「わかった」

 トゥランはまだ眉間に皺を寄せている。けれど、こちらが掛けているプレッシャに対しての萎縮とは別の感情があるようだ。そう察して「あれはたぶん敵ですよ」と言ってやると、彼はちょっと満足げな顔をして画面を仰いだ。「ならばそうなのでしょう。私はあなたほど戦場に詳しくはない」

「ニュクティよりセラフ、攻撃だ」

「了解。121だな?」

「そうだ」

 9K121ヴィキールは航空機プラットフォームの対戦車ミサイルだ。規模は西側のヘルファイアやブリムストーンと同程度。母機からのレーザー誘導で目標を追尾する。紛争地に蔓延る乗用車クラスの敵を相手にするにはこれくらい小さなミサイルでないと釣り合いが取れない。今回こうなることを見越してわざわざポーランドから持ってきたと云っても過言ではなかった。


 腹に響く着弾音が続き、だだっ広い畑地の広がる向こうで黒煙が天を目指して突き上げるのが見えた。炎の明るさも見える。こっちの戦闘に関連していることは間違いないし、その為手は頭上を旋回する味方の支援機セラフに思えたが、今は気にしている暇はない。一見インスブルックにでも建っていそうなこの高級別荘紛いの建物から一人たりとも逃してはいけないというのがこの任務の骨子だからだ。手始めに遠距離から二組の狙撃班が特に重要とみられる人物を選んで殺し、それを戦端に残りの突入班がグレネードを打ち込んで燻り出す。もぐら叩きの要領で確実に仕留める。

 中に爆弾用の可燃物なんかがあれば、グレネード斉射時とっくに大爆発を起こしていたはずで、一応周りをぐるりと回って確認はするが、異常無しと認めていよいよ建物の中に入る。付近で張っていたトルコ軍の監視役の情報が確かなら、こまでで敵の大半を始末できているはずだが。

 ワイアームは分隊長のオーランドに従って勝手口から室内に足を踏み入れた。暗くてわかりづらいが、そこらじゅうの壁が血濡れになって、今だってちょうど、無造作に四肢を投げ出した死体が足元に転がっているところだ。開いたままの目が窓から入った光を映して時折危機感を煽る。悪いがこっちも任務中なので寝かせてやることもできないし、最後は爆死に偽装しなければならない。勉めてドライな思考を呼び起こしながら、まだ生きている敵の匂いを探す。

「怖いか、坊主」オーランドが独り言のように訊く。しかし坊主と言われればワイアームのことだった。

「そっちこそ」ワイアームはむっとして言い返す。

「まあ、下手なお化け屋敷よりはスリルがあるよなあ」オーランドは抜き足差し足で歩きながらも、忍び声でとぼけた調子のジョークを飛ばす。

「客が銃持ってくるなんて最高にアグレッシブだな」舐められるのが嫌だったので軽口を言った。

「それだけじゃないぜ」

「ああ」

 違う。ここがお化け屋敷でないのは、手加減がないからだ。

 やがて表の玄関から入ったオリバー分隊と合流し、二階と地下室に人数を割く。間取りがわかるのは政府の後ろ盾があるから。

 折り返し型の下り階段で階下に繋がっており、踊り場の手前からスタングレネードを放って反応を観る。光と音で相手をびっくりさせる兵器だ。といっても技術屋が本気でびっくりさせようとして作ったので、よほどの訓練を受けていなければパニックで悲鳴を上げたり走り回ったりするはず。けれど今度は効果が無かったみたいだ。下に敵は居ないと考えていいだろう。懐中電灯を目の横に構えて息を整え、踊り場を過ぎる。訓練通りに物陰に気を配り、レストランの食品庫といった風情の地下室の制圧を終える。

「ほら、やっぱりここだ」

 部屋の中央に山積みになっている木箱の一つを選んで蓋をそっと開け、隙間から光を差して一人が言った。開けずともこれらが武器だということはわかる。

「おい、こっちにも扉があるぞ」

「何? 地下はこの部屋だけじゃないのか」

「そうは言っても――」

「わかった。安全確認してからだ、開けてみよう」

 オーランドの指示で、階段の下り口から正面にある木製の扉は開かれる。中はコンクリートを打ちっ放しただけの下り階段で、数段しかない。すぐにフロアになっている。

「なんだここ」ワイアームは懐の寒さに呟いた。

 部屋の規模はより小さく、壁が近いためか一層薄暗い。何よりも不気味なのは、同様に部屋中央に置かれた木箱の山だった。

 さらに右へ、振った懐中電灯の光に照らされて浮かび上がったのは、壁面いっぱいに描かれたリアルな絵。間もなく、足の小指から冷たい虫が這い上がってくるのが感じられた。


 ちょっと花火の試し打ちでもしてみようか、といった感じの音が聞こえてから西寄りの風が冷たい。乾いているのに纏わりつく。首筋に入って血を冷やす。そんな不気味さに抵抗を示すつもりで地平線から俯角を取って水平に睨み回し、意識の上に覆い被さった紫のマーブル柄のヴェールを切り裂いていく。

 建物の縁で壇になったところに肘を突いてしばらく風に当たり、もう一度下界を見る。今度は鋭く一点、暗視ゴーグルで覗く。飛行場の敷地の外、緩衝帯の設けられた林の中。

 ヘレンは素早くライフルを構える。

 敵の殺気と自分の殺気とが混じり合って目の前が急速に混沌とし始めたその瞬間、左目の直前に黒い渦が飛び出してきて槍状に尖るのを見る。

 咄嗟に左足を踏ん張った直後、左肩で戦闘服の繊維が飛んだ。銃弾の成す円錐状の衝撃波が耳を打った。

 ヘレンはとにかく床の上に仰向けになった。敵は下に居る。上から撃たれることはない。例えば、あの黄色い満月から狙ってくるようなことがなければ。

「オランピアよりニュクティ、付近に敵。おそらく単独。距離…一キロ超。西南西」

 壇に掛けたままのSV-98を見上げ、敵の殺気が正面から来たことを思い出す。銃だけはまだ敵の方を向いていた。これは使える。ストックを精一杯握り、牽制目的でトリガを引く。

 が、リコイルとは別の理由で銃が吹っ飛ぶ。レール上のPN16Kが四散し、砕けたレンズ部品が月明かりにきらきらと輝く。

「オランピア、対処できるか」

「行けます、もちろん」

 ヘレンは身を屈めたまま起き上がり、匍匐でSV-98を取りに行く。

「わかった、気を付けろ」

 ハンドルを掴んで少し持ち上げてみるが、そこで考え直す。こちらには敵の位置はわからないが、敵はこちらの位置を知っている。屋上から降りれば敵を見失うことは必至だから、動けるのは建物の幅の限り。しかし敵がスコープを覗いているなら話は別だろう。スコープの狭い視界の外で立ち上がられては、敵だってすぐに狙いを付けることはできない。

「ウルフ・リーダーより、緊急事態。ターゲットで爆発」

「どうした」

「まずい、怪我してるやつが」

「わかった。救援は要るか。自力で――」

 SV-98を床に戻し、煩くなってきたヘッドセットもついでに放って、壇の下に置いたAK108を取る。初弾装填しながら建物の端へ転がり、体の秒針を呼吸の周期に同調させる。

 夢想する精密機械の中を泳ぐ。

 ギアの頭を飛び越える。

 細いシャフトに足をかける。

 ランデブーが迫る。

 立ち上がる。

 この短時間での敵の移動可能範囲円を暗い青緑の地面に描き、そこ目掛けて舐めるように撃ち込む。できることならば、このまま突撃して至近距離で一気に決着をつけてしまいたい気分だった。

 しかし、なんということだろう。

 敵が自然の障害物を避けながら疾走する姿を見た気がした時には、もう撃たれていた。

 できるのは、とても短い時間の中で、反射的に身を引くことだけ。

 すっとばされて仰向けに倒れ、頭上の黄色い円を眺める。

 ああ、そうか、月を背負ってしまっていたのか。


「依頼達成は確かです。万全を期すなら確認はお宅でやっていただきたい。そのための人員はあるでしょう。騒ぎを収集するために警察が状況を把握する、という段取りでしたから」コーネリウスは静かにトゥランを睨む。

「もちろんです。成功報酬の分は後日きちんと振り込ませていただきますよ」トゥランは部屋の入り口の上に掛けられた蛍光針の時計を仰ぐ「さて、多少の予期せぬ事態はありましたが、任務行動は終わりになりましたので私は失礼させていただきます。明日も朝が早い」

「お疲れ様です」

 腰を叩きながら部屋を出て行くトゥランの背中を目で追いつつ、脇のホルスタに収めたUSP拳銃の存在を強く意識した。

「ブルーノ、医療課にはもう伝えてあるな?」

「はい」

「俺も手伝いに回るから、セラフが戻ってきてエンジンを切ったら非番に入ってくれ」

「了解です」ブルーノは憎たらしいほどにさわやかな青年の笑顔で応えた。

 一階に下りると、駐車場の前に担架を持った医療班十人ほどが集結していた。彼らに聞かれる前に大きなため息を一つだけ吐いておく。

「社長」呼び止めたのはミラ。白衣に着られているような小柄な体の前、臍の高さで手を組んでいる。

「ヘレンの容態は」

「大丈夫です。今は安定しているので」伏せがちな視線をちらりと持ち上げる。「これが済んだら、見に来てあげてください。少しでいいですから」

「ああ、行くとも」

 間もなく慌てた運転の黒いバンが走ってきて、医療課を蹴散らさん勢いで急停止、すぐにドアが開いて二人の重症者を下ろした。オーランドとレオニード。爆発と聞いたが、熱傷などはなく、破片による出血が目立つ。止血、摘出、縫合。この三つは戦場の医者と看護師が特化するスキルだ。

 コーネリウスは積極的に動かず、基本は医療課に任せて手の足りないところへ走る。結果軽症者の手当てに始終したが、どれも陸戦課が各自で処置できる程度のものだった。

 飛行場がすっかり静けさを取り戻してしまった頃になってコーネリウスはミラに連れられて宿泊用の一室に向かった。医療班が貸し切っている区画の一つである。

 何ら特徴の無いビジネスホテルの内装だった。それはいつも足元を不安にするある種不気味な普遍性を持った空間であるけれど、ヘレンの寝かされたベッドの辺りだけは特別だった。

「チョッキに中っていました。幸いにも内臓は無事のようですし、レントゲンを撮ってみないと断言はできませんが、触った感じでは折れ方も思ったほど悪くないみたいです。もう一か所は肩で、こちらは大事ではありません」

 コーネリウスは肯き、痛む胸をすこぶる重く感じながらヘレンの横に屈み、日焼けした頬や淡く金色の髪を撫でて閉じた瞼をじっと見守る。

 それは彼女への贖罪であり、自分自身の浄化であった。

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