煌めく街の女王。
中田祐三
煌めく街の女王の娘
蝉がけたたましく鳴いている。 そっと目を閉じると浮かぶ九十九里の浜。
それが私の一番古い記憶。
それが私のもっとも幸せだった頃。 綾坂 花梨という一人の少女であった頃。
「お母さんに本当にそっくりね」
「こりゃ大人になったら美人になるぞ」
そう笑う大人たちの言葉に素直に微笑み返すと、また同じように周囲の大人たちがまたどっと笑う。
それを見ている母も酒の入ったグラスを傾けながら満足そうに頷いていた。
でもいま思えば母の内心を思えば、この頃からある種の怯えがあったのかも知れない。
それに気づくことなど出来るはずが無い。 まだ子供だったのだから。
父親のことは知らない。 母に聞いてもはっきりとした答えはとうとう聴けることはなかった。
酒に酔ったときを見計らって聞いても時にはバーテンダー、あるときには政治家、またあるときにはヤクザ者、聞くたびに父親が変わっていた。
もしかしたら母でさえ、知らなかったのかもしれない。
母の交友関係を見れば、まだ小さかった私にだって想像できた。
だからいつの間にか自身の父のことを聞くことは無くなっていた。 代わりに私が見ていたのは母だった。
母は歌手だった。 繁華街のあちこちの店と契約をして日替わりで店ごとに歌を歌っていたのだ。
私が産まれてしばらくは母の祖母に引き取られていたが、祖母の死によって急遽私は母に引き取られた。
迎えに来た母が私を見ての第一声は、
「嫌になるくらい私の子供の頃に似てるわね」
当たり前だと思うが、気まぐれにしか祖母の元にやって来ない母と一緒に暮らせることと母に似ているということはまだ幼児の私には嬉しいことだった。
最初に着いた一言は聞こえていなかった。
いいえ、聞こえていたけれどその意味を理解することはなかった。
ただただ近所の子供のように母親と一緒に居られることがまだ純粋であった私にはとても幸せなことだったのだ。
母の生活は中々に大変だった。
まず帰ってくるのが深夜から朝方で、ほぼ毎日といっていいほど泥酔しての帰宅だった。
時には男性と帰宅して共に居間で一緒に寝ていた。
そんな母の世話をするために私は小学生の頃から炊事や洗濯といった雑事をこなせるようになっていった。
というよりは、必然的に覚えていったということが正しいだろう。
母は子供の母としてはとても立派とは言えず、ずぼらでいい加減だった。
そういえば亡くなった祖母が『あの子には何度教えても身の周りのことが出来なかった』と愚痴っていたことを思い出す。
子供心に私が理想としていた家庭像とは程遠かった。
それでもそれら欠点を全て補うほど…いいえ、そんなことなんて大したことじゃないと思えるほどに母には魅力的な部分があった。
ざわざわとした室内。 薄暗い中でポウっと照明が点る。
その先には母とピアノがあり、母がピアノに向き合うと、誰もが黙り込んで、その先を楽しみにしていた。
一つ目の和音が鳴り、一泊遅れた後の母の歌声はとても美しく、どんなにひどく酔っ払ったお客でさえ、誰もが聞き惚れてしまっていた。
ステージの端、時には私の為に用意された席で私は一番近くでそれを見続けていた。
月明かりのようなスポットライトの下、歌う母親はとても綺麗で、年齢も性別も関係なく魅了される姿だった。
誰もが母をこう呼称した。
煌く街の女王と。 あるいは歌姫とも言われていた。
事実、母は皆に慕われていた。 気前がよくさっぱりとした性格で、美貌もあったので皆が母のことを好いていた。
そんな母を見ていたから?
それとも血筋だろうか?
私も将来の夢を歌手に見定め、学校でも一人で家に居る時でも母の真似をして歌を歌うようになっていた。
そんな私の歌を邪険にすることなく、黙って母は聞いてくれた。
とくにアドバイスも腐すこともせず、無言で私の歌う姿を母は黙って見ていて、機嫌が良ければ「上手いわね」と褒めてくれたこともあった。
生活は大変だったが、それなりに楽しかったともいえる。
けれどそれはいつまでも続くことは無かった。
私が中学に上がる頃には母の歌の仕事は目に見えて減っていった。
大都会の繁華街では他に若くて才能のある歌い手がいくらでも湧いてくる。
その中でいつまでも昔のように歌うことは難しかったのだろう。
また母のその自堕落な生活と加齢によってその美しさと肉体的な能力も衰え始めていることも一番近くで見ていた私にはそれがわかっていた。
それでも私の中の一番は母だけだった。
確かに私も聞き惚れてしまほどの歌い手も居たが、それでも母の実力を越えるというほどの歌い手は居なかったように思う。
決して娘としての想いや肉親としての情ではない。
いまだかつて母を越えたという歌い手には出会ったことが無いのだ。
それでも、徐々に陰りが見えつつあるその栄光に誰よりも敏感だったのは母自身だった。
毎夜毎夜飲み歩くことが多くなり、休みの日にさえ酒を飲むようになった。
それまでは仕事の前や前日には喉の調子がおかしくなるからとアルコールは取らないようにしていたのに。
よく入れ替わっていた母と共に帰ってくる男も段々と同じ人間になり、そしてその質も落ちていったように見える。
そして加速するように母はますます駄目になっていった。
この頃になると数日帰ってこないこともあった。
その中でも私はいずれ母はこれを乗り越えてくれると信じていた。
はっきりと思う。
それは娘として、肉親としての情だったと。
客観的に見れば母は昔ほどのように歌を歌えなくなっていたのだから。
そのうちに母は男に依存するようになっていった。
かつての気高く、誰もが憧れていた女王ではなく、もはや凋落したその姿は哀れですらあった。
その思いを察してか母は段々と私にさえ苛立ちをぶつけるようになってきた。
ある日、ひどく泥酔した母と喧嘩をした。
理由も思い出せないほどに大したことの無い理由だったのだろう。
そのときに言った母の言葉は忘れられない。
「あんたなんて大っ嫌い!私にそっくりなのに私より若くて、ひどく惨めな気持ちにさせるあんたなんて…」
そのまま母は机に突っ伏してしまった。
酔いつぶれてしまったのだ。 私はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて思いなおして母の肩に毛布をかけてそのまま寝た。
母は私のことをそう思っていたのか。
それはショックではあったが、むしろ小さな頃から感じていた違和感の正体を確かめて腑に落ちた。
母は私を娘としては愛していたが、反面、自分に似ていることにある種の憎しみを抱いていたのだ。
それは嫉妬だった。
衰えていく自身のすぐ横にかつての輝いていた自分がそこに居るのだから、平凡な生活を忌避してそのツケをいま払わされつつあった母にとってはそれは耐え難いものだったのだろう。
そう理解して、私はそれでも母のことは嫌いにはなれなかった。
母が歌に、女王として振る舞って周囲の人々に憧憬を抱かせることに夢中になっていたことは事実であるけれど、私もまた周囲の人々と同じなのだから。
ただあの強くてプライドの高かった母が酔っていたとはいえそれを言ってしまったことには些かショックを受けた。
もう母は私の憧れた煌く街の女王では無くなりつつあるのだと認識したことで。
次の日、母は昨夜のことはさすがにバツが悪かったのか、しばらくは私に優しくしてくれた。
その振る舞い自体が母の衰えと気力の萎えを表していたが、同時に母として娘のことを思っていることを表していたので私は努めてそれを隠していつものような態度で接し続けた。
やがて私も成長し、中学を卒業する時期が近づいてきた。
とりあえずは進学を志して、地元の公立高校を受ける。 ひとまず合格をしたが、私にとってはそれはどうでも良いことだった。
無事に高校に合格したことを喜んだ母は珍しく酒も飲まずに私の帰りを待っていて、お祝いに食事に行こうと誘ってくれた。
向かった先は近所の場末のラーメン屋。 それでも私は嬉しかった。
ただ気になることを言えば、これであなたも一人前ねとやたらしつこく強調して私に語りかけていたことだ。
いま思えばそれは贖罪であり、そう言い続けることでこれから行うことへの罪悪感を精一杯誤魔化そうとしていたのだろう。
場末のラーメン屋での食事がそれだということがすでに母がもはやかつてのような存在ではなくなりもはや戻ることも出来ぬほどに追い詰められていたことを示しているのだと思う。
そしてそれから数週間後、卒業式から帰ってきた部屋に母の荷物は一つもなくなっていた。
書置きすらない。 ただ母の物だけが無くなった部屋の中でポツンと立ち尽くしながら、毎週金曜日に来ていた男の人とどこかで暮らすのだろうと思った。
私は泣く事もなく、ああとうとうその日が来たのだと一人納得する。
そして私の耳にはかつて祖母の家で聞いた、セミの幻聴が喧しく鳴いていた。
結局高校は退学し、私は母と同じ様々な店と契約して歌を歌う歌い手となった。
私は思う。
永遠に続くものなどないのだ。
どこかで人はそれに折り合いをつけていかなければならない。
母も衰えていく中で女王と自称していくのに疲れて、それを降りたんだろう。
一人の女として生きるために女王の座を。
その意味を知り、またいずれ来るそのときがきたときに私はどうするのだろう?
電車が止まった。 沢山の人たちが吐き出されるように出て行く。
思考を中断して私もおなじように。
降りたプラットフォームに書かれた新宿の文字を一度見上げたあと、私は進む。
JR新宿駅の人ごみを歩いて階段を上り詰めた先の外へ。
むせ返るような夏の香り。 そこは東口。 その先が私の居場所。
大遊戯場、歌舞伎町。 孤独な私の生きる場所。
蝉の声は遠くなってもう聞こえることはなかった。
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