煌めく街の凡人1話
こんなにも乞うて恋して愛しているというのに、理解されないということがどんなに辛いことかわかりますか?
とある詩人が想い人に送った詩
足元がふらつく。 頭の中はグルグルと回って今にも叫びだしそうだ。
酒に酔ってるわけじゃない。 ましてや薬物でもない。 ただ無我夢中に足掻いた結果の徒労に打ちのめされているだけ。
片手に持った冊子の重さが現実以上に重い。 いっそのこと捨ててしまおうか?
道端のゴミ箱のうえで腕を振り上げるけれど、力なく降ろしてまたフラウラと足を進める。
今日の朝に起きた時はあんなにも気分は高揚していたというのに…。
何日も前から準備をし、人付き合いだって苦手だったというのに無理をして打ち合わせに出て意見を交わした。
手なんて一度だって抜いたことは無い。
今日という日に間に合わせるために文字通り寝る間も惜しんで、構築して書き上げて何度も書き直した。
そうやって完成したものは自分にとって満足のいく作品に仕上がった。
いや…はずだった。 けれど結果は…。
物書きを目指して、大学を卒業してやっとの思いで就職した会社の中でゴミのように扱われながらも努力し続けてきたんだ。
そうして作ったものを沢山の公募に応募した。
だが夢は夢のままであり続け、一度だって現実に変わることは無かった。
せいぜいが1次審査を突破するくらい、その後に続く二次三次を突破したことなどない。
それでも諦められない。 諦めることが出来ない。
まるで呪い。 それしか無いというのに世間から見ればそれはいらないものだと評価されていく。
それに疲れてしまっていた。 だがそれでも呪いは昇華されることもなく、他に目を向けられることもなかった。
ならばここならばと文学フリマに参加することにした。
文学フリマとはアマチュアの物書きの即売会で、毎月日本のどこかで開催されているイベントだ。
そこならば誰かが見つけてくれるかもしれない。
創作の女神に恋して恋焦がれてもうどうしようもない自分という存在に。
だがそれは夢想だった。 妄想といってもいいくらいの勘違い。
誰もが見本の数ページを開いただけで、そのまま置いて立ち去っていってしまう。
公募では見えないところで審査をされるが、文学フリマという対面の場所ではそれを目の前で見ることになる。
その残酷さに気づくことが出来なかった。
いや考えたくなかったということが正しいのだろう。
結局は参加したサークルメンバーの友人が義理で購入してくれた数冊だけが売れて、後に残ったのは絶望と失望を吸収した自分の作品だけだった。
サークルのメンバーは慰めてくれたりフォローしてくれたがそれすらも自分の惨めさがより増してくるので止めて欲しかった。
そのままお疲れ様会を用事があるからと嘘をついてこうやって家に真っ直ぐ帰ることもなく繁華街をうろついている。
今日は家に帰りたくない。 家に帰ればこの在庫を床に置いて座り込んで項垂れているだけだろう。
捨てることも出来ない。 目の前にあっても辛い。 決断することが出来ず、ただ自分の愚かな空想の産物を引きずりながらうごめいている。
駄目だ。 気持ちを切り替えないと。
そういう風に思えたのは歩きつかれて、足が棒のようになったころだった。
酒でも飲もうか? しかし居酒屋は騒がしくて嫌いだ。
ただでさえこんな気持ちなのに他人の笑い声なんて聞きたくもない。
「うん?ここでいいか…」
立ち止まった時にたまたま目に付いたBARへと吸い込まれるように入る。
普段ならばBARに入ることなどない。
ただ今日は…今日だけは静かな場所で酒を浴びていたいと思っただけだった。
扉を開けると店の中には客がごった返していた。
日曜とはいえ、この時間にしては多いな。 いやもしかしたらこれがこの店では普通なのかもしれない。
慣れない雰囲気に多少気圧されながらもテーブル席は埋まっているのでカウンター席に座り込む。
持っていた荷物は隣の席に置いた。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた雰囲気のバーテンダーが声をかけてコースターとおしぼりを置く。
「すいませんスクリュードライバーを」
注文すると静かに頷いてバーテンダーは慣れた手つきで酒を用意する。
一口飲むとウオッカベースの酒精が喉を焼くが、構わず一息に飲み干した。
途端にカッとした熱が胸を通って胃の辺りに灯る。
構わずもう一杯頼み、同じようにまた一気に飲み込んだ。
バーテンがチラリとこちらを見るが、すぐに他の客の注文を聞きにいく。
意外にBARも悪くないかもしれない。
居酒屋のように騒がしくなく、店員も必要以上に接してこない。
アルコールが脳に回り始めるのを感じながら周囲を見渡す。
店の大きさは二十畳ほどの大きさでテーブル席がひしめき合うように置かれているが、中心部だけがポッカリと開いている。
そこは一段高く作られていて、その真ん中にはピアノが置かれているが今は弾く者もおらず、スポットライトだけがそこを丸く切り取っていた。
ここは演奏もするのだろうか?
まあそんなことはどうだっていいか。 もうニ、三杯だけ飲んだら店を出てしまおう。
その頃にはアルコールが優しく頭を惚けさせてくれてこの惨めな気分を多少は忘れさせてくれるだろう。
さて、次は何を頼もうか?
手元のメニュー表を引き寄せたところで急に店が静まりかえった。
別に耳がきこえなくなったわけじゃない。 店の客が一斉に黙り込んだのだ。
なんだろうと振り返ると、店の中心。 ピアノがあった場所に誰か立っていた。
背中が大きく開いた赤いドレスを着た女が居る。
中々に美しい。 年齢は二十代半ばだろうか?
彼女はゆっくりと周囲を見ると、一度頭を下げてピアノの椅子へと座り込んだ。
ああ今日が演奏のある日だったのか。 それにしてもなんて絵になる光景なのだろう。
スポットライトは優しく彼女とピアノを薄暗い店内でまるでそこだけに光りがあるかのように照らしている。
ピアノの伴奏が始まる。 決して早くもない、穏やかな始まりだ。
女がゆっくりと口をあけ、歌を歌い始めた。
その瞬間、魅了された。
自分だけじゃない。 その場に居る全員が呆けたように彼女を見ている。
その歌声はとても綺麗で、音響など考えられていないはずの店内の隅々まで染み渡っていく。
響くのではなく染み渡っていくという表現が正しいと思えるほどに彼女はせつなくて優しくて、ささくれだった心をフワリと包み込んでいくようだった。
まるで空間ごと作り変えるような圧倒的な歌唱力だった。
やがて一曲が終わると、それを待ちかねたように拍手が店の中に広がった。
気が付けば自分も同じように手を叩いていた。
本当に素晴らしいものに出会ったとき人はただただ感動するだけだ。
言葉を失い、でもその才能の賞賛を惜しまない。
それがこの場では拍手であるが、もう少しくだけた場所だったなら歓声だったかもしれない。
とにかく圧倒的な歓喜にしびれるようにその場の全員が彼女を見ていた。
彼女がまたピアノを弾き始める。 今度は跳ねるようなリズムでジャズ調な曲で自然とリズムを取ってしまうような曲だった。
いや歌だった。 そしてそれを歌い終わると先程よりも大きな拍手と歓声が湧き上がる。
凄い。 彼女はなんて凄いんだ。 こんな人間が居たなんて…。 けれど…。
また彼女の演奏が始まった。 だがそれ以上見ることが辛くなってきた。
彼女が悪いわけじゃない。 ましてやその理由はひどく独りよがりで恥ずべきものだ。
その才能に僕はすっかり威圧されてしまったのだ。 それと同時に嫉妬を隠せなかった。
やっていることは違うのだが、彼女には才能がある。 素人の自分でもわかるほどの、誰もが納得してしまうほどの本物の才能が。
ひるがえって自分はどうだろうか?
求めて足掻いてやっと出来たと思えた渾身の代物はあっさりと切り捨てられるような無価値のものだった。
そして別の才能を見て、嫉妬してしまうような矮小な自分がひどく恥ずかしく思えてくる。
悪酔いしたように俯いてしまう。
演奏は三十分ほどで終了となり、口々に彼女を褒めそやす客に一通り挨拶をしたあと歌手はしっかりとした足取りでカウンターへとやってくる。
「喉、渇いた…なんかくれる?」
「…酒は出せませんよ」
「ちょっとくらいいいじゃない…固いのよねノボさんは…あれ?そちらは見ない顔だけれど新規のお客さん?」
彼女が話しかけてきた。 僕とは違う別世界の人間が。
「あ、ああ…うん、す、すっごく良かったよ…歌…あんなに綺麗な声なんて…はじめてで…」
一体何を言っているんだ? しどろもどろになって焦っている僕を彼女は珍しそうにパチクリと瞳をしばたかせながら、
「そう、ありがとう」
素っ気無くいって出されたオレンジジュースを飲み干す。 その仕草ですらなにか一つの芸術品に見えた。
「ちょ、ちょっとご、ごめん!」
なんだか間が持たなくて怪訝そうな彼女の横を通り、トイレに駆け込む。
はあ、我ながら情けない。 けれどしょうがないではないか。
たった今まで、感嘆を上げ、愚かな嫉妬を抱いていた存在が話しかけてきたのだ、小心者の僕が逃げ出してしまってもしょうがない。
席に戻ったらさっさと会計を済ませて帰ってしまおう。
トイレから戻ると、彼女はまだカウンターに居た。 自分の座っていた辺りの椅子に座って何かを読んでいる。
「そ、それは!」
駆け寄って奪おうとする僕をヒラリと避されたるのでそのまま頭ごと突っ込んでしまった。
「これ、あなたが書いたんでしょう?本は誰かに読まれないと意味がないわ、歌も同じ…自分とそれ以外の為にするものだもの」
「そ、そうかもしれないけど、それは出来が良くな…」
慌てて口をつぐむ。 いま何を言おうとした?
「…?自分で良いと思ったのなら、そんな卑屈なこと言わなくてもいいと思うんだけどな~、それにこれ…結構面白いよ」
「えっ?ほ、本当に…」
思いがけない言葉に身を乗り出した僕に彼女は真っ直ぐ瞳を見ながら言ってくれた。
「ええ、私、お世辞って嫌いなの」
「あ、ありが…とう」
嬉しかった。 その言葉はいまもっとも欲しかったもので、どうしようもない僕が、そのどうしようもない部分を補おうと必死でかき集めて拵えた物語だ。
しょせん僕のような者が書いたものなんて受け入れられない。 その現実を嫌というほどわからされた今日に、はじめて希望という灯りが点された。
「ちょっと綺麗過ぎる感が鼻につくけど、私はこういうの結構好きだな~、なんだろ?うまく言えないけど足掻いてるって感じが…良いよね」
そんなことを言われてしまったらもう読まないでくれとは言えない。
ただただ僕は彼女が僕の書いた物語を読み終わるまで、酒をチビリチビリと飲みながら彼女の横顔を見続けていた。
年齢はもしかしたら想像よりも若いかもしれない。
化粧で誤魔化しているが近くで見ると彼女の目鼻立ちには幼さが残っている。
その瑞々しさと先程の老獪な歌唱力は矛盾しているように見えるがそれでも確実に彼女という存在の中に同居していた。
歌なんてろくに知らない僕にもそれだけは理解できた。
「ありがとう、うん、やっぱり結構面白かったよ」
読み終わった本を閉じると丁寧に僕に手渡してくれる。
「こちらこそ…ありがとう」
素直に礼を言う僕に彼女は何が面白いのか大笑いした。
「ど、どうしたの?」
急に笑う彼女に途惑う僕が問いかけると、彼女は目尻に涙を滲ませながら、
「だって、そんな泣きそうな顔でありがとうって言うんだもの、なにか可笑しくて」
そういうと彼女はまた笑った。 朗らかに。 楽しそうに。
それが僕、広阪恭司と有坂花梨との最初の出会いだった。
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