第七小節 いつか夢見た憧憬のなか、血に濡れた残照を垣間見る

「ほら、入れ」


 フィディールに背中を押され、ティアはつまづきそうになりながら室内に足を踏み入れた。

 ティアの部屋は、一人で暮らすには広く、家具も少ない。

 冷え切った寝台。火かき棒の傍、空虚に燃え立つ暖炉。色褪せた長い敷物の上、古びた白木のテーブル。食器棚には最低限の銅鍋、かご、地味で野暮ったい白磁の器しか置かれていない。

 扉と壁を一枚挟んだ隣の部屋は、どこから汲み上げられているのか、鉛の水管からきれいな水が出てくるバスルームとなっている。

 着替えや食材はイリーナが、薪はフィディールが持ってくるため、生活には困らない。そう、何も困らないのだ。

 起きて、食べて、話して、検査されて、寝る。ティアの部屋は、それを繰り返すために機能している。

 詩集も花も絵画も楽器も、楽しみになるようなものはない。それらは意図的に排除されている。もちろん、誰にとは言わないが。

 そのことを、つまらないとティアは思わない。悲しいとも思わない。

 ただ、途方もないやるせなさが、心に垂れ込める。

 まるで、籠の中の鳥のような生き方だ。生きているのではなく、生かされているだけ。なんて、代わり映えのない、無為な時の流れなのだろう。


「……まったく、昨日の今日で脱走とはいい度胸をしているな」


 背後から呆れとも苛立ちともつかない声。

 首だけ捻って振り返れば、苛々と後ろ手に扉を閉めるフィディールの姿があった。


「……ごめんなさい」

「別に謝って欲しいわけじゃない。だが、当然、無断で抜け出したからにはそれなりの覚悟はあるんだろうな」


 覚悟。その言葉に、ティアは腫れが引いた頬のことを思い出した。とっさに両腕を顔面で交差させ、身構える。直後、フィディールの手が振り上げられた。男にしては白く細い手が空を切る。

 遅れて、側頭部に衝撃。手加減も容赦もあったものではない強烈な平手打ちに、ティアはなす術もなく尻餅をついた。

 フィディールが冷然と見下ろしてくる。


「僕は言ったはずだ。部屋から出るな、と」

「……はい」

「ならどうしてそれを守らない」


 ティアは答えない。冷たい石床に手をついてゆっくりと立ち上がり、フィディールに真っ直ぐな視線を返す。


「答えろ」

「答えたくありません」


 瞬間、フィディールが無言で手を振り上げた。

 反射的に震え出しそうになる身体を必死に抑えつけ、ティアは耐える。

 だが、その手が振り下ろされることはなかった。フィディールはティアの握られたこぶしが小刻みに震えているのを見ると、何を思ったのか静かに手を下ろした。代わりに告げてくる。


「……何度も同じことを言わせるな。言ったはずだ。お前は外に出る必要は──」

「外に出る必要はない。お前はここの部屋にいればいいって言ってたのは覚えてますよ」


 やや強めの声でティアは遮る。

 なぜ、と問うようにフィディールの眉が吊り上がった。


「それならなんで──」

「それで納得できるならこんなことしませんよ!」


 たまらず叫ぶ。

 知らないのだフィディールは。この部屋でやることもなく、一日を終えることがどれだけ虚しいか。

 窓の外の景色にあれこれと思いを馳せ、いつか外の世界に出る自分の姿を想像し、空想していた頃はよかった。

 だが、それにも飽きた。

 いつか、とか、もし、とか、わからない将来を夢見て、いつやってくるかわからない未来に希望を抱いて恋焦がれ、いつの日か、あまりにつまらなさ過ぎる妄想に過ぎないことを悟り──最後には虚しくなった。


「何か外に出てはいけない理由があるなら言ってください! そうじゃないと、私だって納得できません!」


 どうすればいいのかわからないのだ。

 理由も教えてもらえない。尋ねても答えてくれない。

 それでも、フィディールが話してくれることを願って、彼女は待った。待ち続けた。

 しかし、それも叶わなかった。

 それなら、後はどうすればいいのだ? 誰か教えて欲しい。

 まさか、希望もないのに希望を胸に抱いて待ち続けよ、と悟りでも開かせるつもりか。

 だが、それは彼女には無理だった。

 ほんの些細な引き金があれば飛び出してしまえるほどの憧憬を、胸を突き動かす衝動を、どうすればいい?


 ぎり、と唇を噛み締めていたフィディールが、血反吐を吐くような声で言ってくる。


「……理解、できるとは思えない」

「どうして──」

「理解もしなくて、いい」


 それはあまりにも一方的な断絶だった。

 交渉の余地すら残させてくれない拒絶に、ティアの中で反発が膨れ上がる。

 フィディールの目は暗く淀んでいた。諦観しきった翡翠の瞳は輝きを失い、もはや虚ろだった。口元が力なく動く。感情を押し潰した低い声。


「……そしていつしか僕を呪えばいい。呪って、恨んでくれればそれでいい。そのために、僕は君をここに閉じ込めているのだから」

「そんなの納得できるわけ──っ!?」


 甲高い声で糾弾しかけたところで、ティアははっと目を見開いた。気付き、言葉を失う。ひとつ分の残滓を置いて、吐息が途切れた。


 そんな悲しそうな顔で自分を見つめる人を、ティアは知らない。

 胸が詰まる。息がぜんぶ止まる。


 だって、そんな顔をさせたいわけじゃなかった。悲しませたいわけでもなかった。なのに、なんで、そんな──そんな泣き出しそうな顔をしているのか。むしろ、泣きたいのはこちらの方だというのに、どうしてフィディールがそんな顔をするのか。先にフィディールにそんな顔をされてしまったら、自分はどうすればいいのか。どうしたらいいのか。もどかしさのあまり、ティアは知らず歯噛みする。


 ──ああ、ずるい。この青年は本当にずるい。ティアは心の底から叫びたい気持ちでいっぱいになった。


 何も話してくれないくせに、苦しくなるほどの切実な瞳でティアを見る。息を潜めていなければ、消えてしまいそうな瞳で。

 声にならない、ただそれでも痛切なフィディールの瞳を見ていると、ティアはたまらない気持ちにさせられる。まだ泣いてもいないのに、自分より悲しそうな顔をされると、つらいのが自分なのかフィディールなのかわからなってくる。

 苦しさか悔しさか、それとも涙か。どうしようもない何かが胸から込み上げてくるのをティアは感じた。ずっと押し込めていた気持ちが決壊し、耐えきれなくなる。

 ティアは白い服の裾を握ると、ついに喉を振るわせ──脳裏に、悲しすぎる翡翠の瞳。叫びがふつりと途絶えて消える。膨れ上がった反発心がゆっくりと萎んでいく。


 やがて。


「……ごめんなさい」

「え?」

「……言い過ぎて、ごめんなさい」


 フィディールが弱い瞳を微かに見開いた。


「ブラ──」

「いいんです。大丈夫ですから」


 ティアは、ぱっと明るく顔を上げた。

 瞬間、表情を歪めたフィディールが何かを言いかけ、だが、ぐっと手を握りしめると、叱られた子供のように声を小さくして呟いてくる。


「……ごめん」


 ああ、こうして見ると、自分よりずっと年下の男の子みたいだ。

 怜悧な顔立ちは青年のそれなのに、ティアにはどうしてか今のフィディールが幼い子供に見えた。先ほどティアを叩いた人物と同一人物にはとても思えない。


「おあいこ、ですよ。私も勝手なことしましたし、ね?」

「ごめん……、ブランシュ」


 ブランシュ。そう自分を呼ぶフィディールはいつだって寂しげだ。

 失ってしまったものを探すように。どこにもいない人を求めるように。


「……フィディールは私のことをブランシュって呼ぶけど、でも本当は私はブランシュじゃないんでしょう?」

「それは……」

「ブランシュって誰なんですか?」


 問いに、フィディールは逃げるようにたじろいだ。だが、ティアの静かな瞳を見ると、逃げ場を失ったように、あるいは観念したように口を開いた。思いの他、しっかりとした口調で答えてくる。


「ブランシュは僕の姉だ。十年前に亡くなった、僕の双子の姉だよ」

「私、お姉さんと似てるんですか?」

「違う。なんだ」

「全部同じ……?」

「見た目だけ同じというわけじゃない。何から何まで君はブランシュなんだ。でも、君はブランシュじゃない。──と言っていいかわからないが、それは、過去の話なんだと思う」

「言っている意味がよくわからないんですけど……」


 そう言えば、なぜかフィディールの方が釈然としない顔をした。


「正直なところ、僕もどうしてこんなことになったのか、わからない部分でもあるんだ」

「え?」


 フィディールが今までとは毛色の異なる様子でティアを見つめる。


「世のため人のため誰かのためなら、奇跡さえも起こす万能の秘術──魔法、か」

「魔法?」


 落ち着きを払ったフィディールの翡翠色の瞳に、首をひねるティアの顔が映る。


「……原則原理はそう覆るものじゃないはずなんだがな」

「うん?」

「なんでもない」

「言うだけ言ってそういうのはずるいなあ」

「うるさい。話は終わりだ」


 一変、冷たく跳ね除けられる。殊勝な態度はどこへ消えたのやら。

 構わず、ティアはぽむ、と両手のひらを打ち合わせた。


「ってことは、やっぱり私はブランシュじゃないってことですよね?」

「……まあ、そういうことになるな」


 渋い反応。


「違うんですか?」

「違……わなくもない」

「どっちなんです?」


 聞けば、今度は黙り込んだ。感情が遮断された無表情。だが、エルスと違って意図的にその顔を作ってるせいか、思ってることが丸わかりだ。言いたくないらしい。

 エルスには自分の名前はブランシュではないと言ってしまったが、フィディールの反応を見ていると、違うような気もしてくる。


 ──好きに選んでくれ。


 黒髪の少年の声が、追い風となって響く。


「なら、今度から私のことはティアって呼んでくださいよ」

「え?」

「だって、私はブランシュじゃないんでしょう? だったらいいじゃないですか。私の名前は、ティア・ロートレック。さっきもらったばかりの名前なんですけど、いいと思いません?」


 そう言って、ティアはほんのりと胸を張った。

 すると突然、フィディールが真顔になった。寝耳に水とばかりに。


「もらったって、誰から?」

「フィディールが来る前、話してた男の子から」


 数秒の沈黙。


「は!?」


 大声。驚いたティアは肩を跳ね上がらせる。

 フィディールは即座に表情を厳しくして聞いてくる。


「あの場所に他の人物がいたのか?」

「え? ……ええ、男の子が」

「格好は? その人物は僕たちと同じような黒い服を着ていたか?」

「ううん、紺色の外套コートを着てたよ」


 ティアがそう言えば、こめかみでも痛むのか、フィディールは指先できつく押さえている。

 そこへ。


「お、フィディールいたいた」

「ハインツさん?」


 突然、ノックもなく部屋に入ってきたのは、夜を溶かした黒髪の男だった。軽い足取りでティアに近づいてくる。


「おかえり、嬢ちゃん。少年と話せて楽しかったか?」

「え? あ、はいっ」


 どうしてハインツがエルスのことを知っているのだろう。口に出さずに疑問に思っていれば、そりゃ良かった、とティアの髪をくしゃくしゃに撫でた。

 ゆらりと低いフィディールの声。


「……待て、ハインツ」

「ん?」

「今の発言はどういうことだ」

「え? そりゃあ……」


 言いかけたハインツが、フィディールのどす黒いオーラを見るなり、視線を明後日の方向に泳がせた。


「あー、あー、えーとだな。これには海よりも山よりも人間の存在意義よりもふっかぁい訳がだな。って、お前、カヤから報告受けてねぇのかよ!」


 てっきり、既に報告受けて、第一次火山噴火終了したタイミングだと思ったのによ!と騒ぐハインツ。


 フィディールがハインツに詰め寄った。均整の取れた長身の男を鋭く睨む。


「つまり、お前はその不法侵入者とブランシュのことを見て見ぬふりをしていたんだな?」

「ふっ、これも教育の一環だ」

「教育?」

「おうよ。ちなみに、オレ様は個人の自主性と主体性を限りなく重んじた自由教育をモットーにし──どぐわ!?」


 一閃、銀色の軌跡がハインツがいた場所を鮮やかに切り裂く。

 間一髪で直撃から逃れたハインツが、びしぃっ!とフィディールを指差した。


「何しやがる!」

「お前が職務怠慢してるからだろうが!」


 フィディールが剣の切っ先をハインツに向ける。いつの間に抜き放ったのか、フィディールは宝飾品のように美しい剣を手にしていた。


「いーじゃねーか! 嬢ちゃんだってこんなじめじめ薄暗いとこばっかいたらカビが生えてきてしまいにはキノコが生えてくんぞ!」

「そういうことを言ってるんじゃない!」


 叫ぶが否や、フィディールがハインツに斬りかかる。

 そのまま雪崩れ込むように、二人は乱闘を始めた。ぎゃあぎゃあ言い合いながら、斬る、避ける、斬る、かわす、斬る、逃げる──

 ぽかん、とティアは口を開いたまま呆気にとられ。


「ふふっ」


 笑った。精彩を欠いていた室内に、少女の無邪気な笑い声が響く。

 お?とハインツが声を上げる。眼前、迫るフィディールの剣を両手のひらで挟み、受け止めた鍔迫り合いの状態で。

 ふとフィディールが剣から力を抜くのがわかった。変なものでも見るような目をティアに向ける。


「……なんだ」

「ううん、フィディールも冷たいだけじゃないんだなーって思って」

「おーおー、こいつこう見えてめちゃくちゃ抜けてるんだぜ?」

「そうなんですか?」

「聞いて驚け。なんとこいつは今朝通路の柱に激突してそれに向かって『おはようございます』と挨拶をおぉぉうおぉぉっ!?」


 フィディールは踏み込みと同時、ハインツの逆袈裟めがけて剣を振り下ろした。寸前でハインツが横に飛び退く。


「いつみたこのストーカーっ!」

「ふっふーん、このオレ様の情報網にかかればこの程度ちょろいってなもんよ、はーっはっはっは!」

「待てハインツ!」

「待たねぇよ!」


 二度、三度、鋭い銀光が弧を描いて閃く。だが、ハインツはひょいひょいと冗談みたいな軽いジャンプで躱すと、部屋から逃げ出してしまった。勝者の高笑いが遠ざかる。


「……全く…っ、あいつは…っ!」


 扉の前で、息切れしたフィディールが肩を大きく上下させている。

 やがて、完全な静けさが残されたところで、フィディールは剣を鞘に戻した。疲れた溜息を吐いたかと思えば、今度は眉を不機嫌にひそめてティアの方を振り返ってくる。


「それで、話は戻るが、その侵入者とはどこで会ったんだ?」

「さっきいたバルコニーです」

「なんですぐ言わなかったんだ」

「言ったじゃないですか。でも『誰もいないじゃないか』って言って、さっさと行っちゃったのはフィディールじゃないですか」


 途中、フィディールの声真似をして遊んでみる。

 フィディールの眉根が更に寄った。今度は困惑しているらしい。


「それは誰の真似だブラ──ティア」


 ティアはにっこりと笑った。イリーナがフィディールをわざと怒らせる理由がなんだかわかってきた気がして、面白くなってくる。


「フィディールの真似っ!」

「おーまーえーはー」


 あ、まずい。やりすぎた。怒鳴られる。ティアは耳を塞ごうとし。


「──さっきからやっかましいわよ、そこの兄妹きょうだい!」


 ばん、と扉が派手に開け放たれた。銀色の髪を編み込んだ白衣の女性が眦を釣り上げて立っている。


「い、イリーナさん!?」


 ティアが肩を大きく回して振り向いた。


「昼間っぱらぴーちくぱーちく、雛鳥じゃあるまいし……」


 そう言って、イリーナはどすっと白い寝台に腰を下ろした。じろりと下からティアたちを睨んでくる。


兄妹きょうだいならもう少し仲良くしなさいっての」

兄妹きょうだいじゃないっ!」

姉弟きょうだいじゃないっ!」

「あらタイミングぴったり。ますます兄妹きょうだいじゃない」

「ち・が・う」


 いきり立つフィディールを見たイリーナが、ふと険を和らげた。意外なものでも見るように瞬きする。


「というか、今日は随分と仲がいいのね?」

「……っ!?」


 フィディールがひどく動揺した。いきなり冷水を頭から浴びせかけられたような様子で愕然と瞳を見開く。

 イリーナがうっそりと笑みを深めた。


「……ますます興味深いわねぇ?」


 すぅ、と、フィディールの眼光が冷えた。がらりと切り替わる。


「要件はなんだ、イリーナ」

「あら、戻っちゃったかしら。つまんない男ね」

「質問しているのは僕の方だ。答えろ」

「はいはい。この子に本を持ってきてあげたのよ」

「本!?」

「本?」


 ティアとフィディールが同時に声を上げる。


「そ、本。なあんで、あんたがいんのかは知らないけど」


 フィディールは辟易したようだった。


「お前はまたそういうことを。ただでさえ脱走とかしているのに、これ以上、外に興味を持つようなものを持ってくるな」

「その話をここでしちゃうあんたもどうなのよ」

「……外に出せない理由を説明できないことはさっき少し話した」

「ふぅん? 本当に仲良くなっちゃって──って、冗談よ。そんな怖い顔で睨まないでちょうだい」

「本は必要ない。持って帰れ」

「いやよ」


 イリーナは明け透けな態度を崩さない。


「この子をここに閉じ込めてる理由を説明するつもりがないんなら私は構わない。でもそれなら、少しばかりの好奇心ぐらい満たしてあげなさい。この様子じゃ、またこの子、脱走するわよ。それこそ次は、窓から飛び降りちゃったりとかして。それはあんたも困るし避けたいでしょ」


 明るくも真面目な、頭の芯に突き刺さるはっきりとした声。フィディールが微かに身じろぎするのをティアは目ざとく見逃さない。フィディールは目を閉じたまま長考し、迷い、やがて葛藤の末、長い、とても長い息を身体の奥底から吐き出し。


「……ティア」


 名を呼んでくる。慎重に、あくまでティアを見ずに。


「……外に出たいときは僕に言え。少しだけなら許可してやってもいい」

「本当ですか!?」

「あら、意外と素直ね」

「うるさい! 先に言ったのはそっちだろうが! いいな、だから勝手に部屋から出るなよ!?」

「はいっ!」


 瞬間、フィディールの瞳が、また傷ついたように歪んだ──気がした。


「フィディ……」

「僕は先に戻る」


 そう告げるフィディールの瞳はもう揺れていなかった。怜悧な顔に感情らしい感情は見当たらない。見間違いと思うぐらいに。


「イリーナ。お前もほどほどにしろ」


 フィディールは硬質な一瞥をイリーナへ送った後、返事も聞かずに扉を閉めて出て行った。

 まあいいか、とティアは寝台に腰掛けるイリーナへくるりと振り返った。


「あの、イリーナさん、本って……」

「ああ、そうだったわね。はい、どうぞ」


 イリーナが脇の下に挟んでいた本をティアに差し出す。

 真紅の革表紙に、金銀の箔が輝く古い彩色写本。それを受け取るなり、ティアは宙に掲げて見せる。


「わあ……!」

「ま、私から取り上げていかなかったんだから、いいんでしょ、あいつも」

「うん……っ!」


 大判の本をティアは腕の中に抱きしめた。本は読ませてもらったことはあるが、もらったことはない。


「中身見て、わからない単語があったら先に聞いてちょうだい。かなり古い本だから、古語とか入ってるかも」

「はーい!」


〈ぬいぐるみになったくま〉と手書きで書かれた表紙をティアはめくる。

 糸で綴られた羊皮紙をめくるたび、草花の美しい装飾と色彩豊かな挿絵が、文字と一緒に紙に広がる。

 ラピスラズリの青とバラの赤。プラタナスの緑にサフランの黄。都市に風景。少女とクマ。たくさんの色と言葉が溢れる本を夢中でめくり、やがて冒頭に戻ってくる。そこにはこう書いてあった。

 むかしむかし、あるところに──


「真面目に読み始めるんじゃないわよー」

「は、はーい!」


 夢から覚めた心地ではっとし、今度は黙々と本の中の単語に目を通す。


「そういえば、あなた、さっきからフィディールにティアって呼ばれてるみたいだけど、どうしたの?」

「え、ええと、名前をもらったので、今度からはそれでいいかなあって。……あ、イリーナさん、本、わからない言葉なかったです」

「ん、わかったわ。ちなみに、もらったって誰に?」

「さっきバルコニーで会った人に」

「へぇ?」


 どこか真意が見えないイリーナの笑み。笑むように薄っすら開いた三日月型の口になぜか底しれないものを感じ、ティアは不安になって聞いた。


「だめ……でしたか…?」

「いいんじゃない?」


 けろりと、だが奇妙なほどにあっさりした声でイリーナが言ってくる。


「ただ、ティアなんてなかなか興味深い名前だと思っただけよ」

「興味深い?」

「ティア。確か、古トルヴァトゥール語で“光”という意味よ」

「光……」


 ティアはぼんやりと反復した。まさか自分の名前に意味があるなんて思いもしなかった。それだけに、感慨深いものがある。


「あ、じゃあ、ロートレックの方は? ロートレックにも意味があったりするんです?」

「ロートレック……うぅん、あまり聞かない姓ね。こっちも古トルヴァトゥール語かもしれないけどわからないわ」


 お手上げ、と手を振るイリーナの目には、懐かしむような、それでいてどこか大切なものを思い出すようなものが浮かんでいる。


「……古トルヴァトゥール語って、何かあるんですか?」

「何かって、なによ」

「うんと、なんだかイリーナさん嬉しそうだから」

「……ああ。昔、妹が古トルヴァトゥール語の翻訳者になりたくてがんばってたなって、少し思い出しただけよ」

「イリーナさん、妹さんがいるんですか?」


 何気なく口にしたティアの質問に、イリーナの表情が凍り付いた。同時、部屋の温度まで下がった気がして背筋が冷え入る。ティアは慌てて言い直した。


「や、やっぱり今の質問なしで! あの、あの……それじゃあ──」

「妹はいるわ。いえ、正確にはいた、が正しいわね」

「え?」


 イリーナの様子はいつも通り落ち着いたものだった。嫌々答えている風もない。聞いてはいけないことを聞いた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。


「そう……だったんですか。でも、えっと、いた、って今は──」

「亡くなったのよ」


 その声に抑揚はなかった。顔からは感情が消えている。


「モンレーヴ村。そこが私の故郷で、妹も両親もそこに住んでいたわ。……今はどんな風になってるかは知らない。新市街が出来た後、元々あった村の方はみすぼらしい姿になったと聞いたぐらいで、詳しくは知らないわ。私が知っているのは、昔のことだけ」


 つい、とイリーナが顔を上げた。死人のような無表情からは、感情がまるで読み取れない。


「──そして滅んだ。私が、この国が、私の故郷を滅ぼした」


 ぞっとするほど感情のない声。ティアの肌が粟立つ。

 エメラルドグリーン色の瞳に光はない。窓の外、夕日を浴びたイリーナの白衣は、血に濡れたように真っ赤だった。


「い、イリーナさん……?」

「私の研究が自分の故郷を滅ぼすものだって知らなかった。ただそれだけ。知らないうちに故郷を滅ぼすための手伝いをして、知らないうちに友達も先生も、家族もみんな殺してしまった」


 ふっ、とイリーナが自嘲気味に笑った。艶を失った唇が弱々しく動く。


「……皮肉なものよね。その経過を経て、私とあなたがこうして一緒の場所にいて話しているというのも」

「イリーナ……さ──」


 立ち上がったイリーナの細い手が、ティアの喉元にゆっくりと絡まる。その表情は、慈しみに満ちたものだった。


「こうして、今すぐにでも息の根を止められる距離にいるのに、ね……」


 もしかして、自分は今、目の前の女性に殺されようとしているのだろうか。

 そんな、ありえない、想像もしたことのない、空恐ろしい予感がティアを襲う。

 首に両手を添えられているだけなのに、実際に絞められているような錯覚。息が苦しい。酸素を求めた喉がひゅっと鳴る。塞がれてもいない気道がぐっと圧迫される。

 それよりも何よりも。

 向けられた殺意とは裏腹の、そっと首に触れるイリーナの手の平は相変わらず温かで──その落差がティアの脳を掻き乱す。

 く……、と赤い爪が、ティアの喉に食い込む。


「ぁ……っ」


 助けて。

 そう心の中で叫んだ瞬間──


「なぁんて。冗談よ冗談」


 ふっと不穏な空気が霧散する。イリーナはティアの首からするりと手をほどくと、ころころと鈴を転がすように笑い出した。


「冗談……?」


 ティアは自分の首にそっと触れた。まだ、冷たい熱と生々しい指の感触が残っている。


「本当に? 本当に冗談なんです?」

「ええ」


 ──嘘だ。


 喉まで出かかった言葉を、ティアは口にすることができなかった。

 それを口にしてしまったら、本当に殺されてしまいそうな気がしたから。

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