第六小節 不協和音

「つまり君はこの塔で暮らしてて、部屋から出ないように言われてたけど、ちょっと脱走してみたと」


 白いバルコニーの上、ブランシュは少年と話し込んでいた。

 少年は相変わらずブランシュを部屋に連れ戻そうとしない。恐らく、彼はここの人ではないのだろう。かといってどこの人かはわからないが。

 少年も先の反応の後、なぜか立ち去るのをやめ、ブランシュの話を聞いている。


「ちなみにいつからここで暮らしてるんだ?」

「二年ぐらい前だと思います」

「もしかして、一昨年の春ぐらいか?」

「いいえ。たぶん、秋……だと思います」

「秋、か。なら、その前はどこで暮らしてたんだ?」

「それは、その……わからないんです」

「わからない?」

「覚えてないんです」

「なるほど」


 ブランシュの素直に答えに、なぜか少年は得心がいった顔をして顎を引く。それで少年のなかでは、状況整理ができてしまったらしい。

 穏やかな晴天のなか、二人の影が長く伸び始める。更に薄くなった冬の陽のぬくもりは、心もとない。

 少年は淡白な、見ようによっては変化のない無表情に見える顔で考え込んだ。


「うーん……。で、もう一回聞くが、君は不協和音じゃないんだな?」

「不協和音ってなんですか?」

「わからないんならいい。正直なとこ俺も状況がよくわかってないから。それで、……ええと」


 滞る。似たような高さにある少年の無表情から感情は読み取れない。

 ブランシュは尋ねた。手を擦りあわせ白い息を吹きかける。


「どうしたんですか?」

「名前。まだ教えてもらってなかったと思って。君の名前は?」

「ブランシュ・アファナシエフ」

「アファナシエフ」

「……だと思います。たぶん?」

「多分?」


 所在なくブランシュは虚空を見上げた。今日も空はつまらないほど青い。


「自分のことをブランシュ……だと思ってたんです。でも、昨日、ある人にお前はブランシュじゃないって言われて、それでイリーナさん──あ、私の身の回りのことをしてくれる人です──にブランシュって誰なんですかって聞いたんですけど、教えてもらえなくて。だから、私はブランシュじゃないのかもしれないって」


 と、少年が要領を得ない様子で尋ねてきた。


「なら、本当の名前は?」


 少女はなんだかかっこ悪いような情けないような気分で緩く苦笑した。


「ないんじゃないかなあ……」


 口にした瞬間、ぽっかりとした喪失感が実感を伴って胸のうちに広がる。

 そっか、ないのか。不意にすとんと腑に落ちた。意外なほど、自分があっさりとその事実を受け入れてしまったことに、逆に驚きすら覚える。名前、ないんだなあ、と少女は空っぽな蒼空をぼんやりと見つめた。遠くに見える光はとてもまぶしい。

 きっと、名前というものは、誰かがつけてくれるものだ。

 誰かに求められて、望まれて。ふと、呼ばれたら振り返って。あるいは呼んでくれた相手に微笑んで。みんなが当たり前のように持っている大切なもの。

 それを、自分は持っていない。

 そんな風に心にある虚ろなものを眺めているうちに、今度は底のない感情が心にじわじわと広がってくる。浅く項垂れながら、憂鬱な気分になるのを止められない。

 自分がただここに立って息をしているだけの、曖昧で空虚な存在に思えて、くるしくなる。


 なんでわたし、ここにいるんだろう──


 ぽつり、呟かれることのない声が浮かんできたところで。


「なら、ティア・ロートレック」


 冴えた少年の声が、響いた。


「──え」


 少年はなんてことはないように言ってくる。


「名無しだと話するときに困るからな。今日から君はティア・ロートレックってことで」


 ──瞬間、目が覚めた。世界に色がつく。今まで灰色だった世界が、色彩で満ちるような錯覚。鼓動が高まってはやるような、だが興奮とは異なる、温かな心地よさが胸を叩く。この不思議な感情の名を少女は知らない。持て余し、言葉につかえる。


「で、でも……」

「ブランシュでいいんならそう呼ぶが、そういうわけでもないんだろ。それこそ、たぶん?」


 図星だった。

 フィディールにブランシュではないと言われたときから、自分がブランシュではないと知ったときから違和感が拭えない。

 これは自分の名前ではない。本当の自分ではないのだ。そんな意識が、心の奥底にずっと引っかかって消えない。


「まあ、俺はどっちでもいいけど」


 好きに選んでくれ、と少年が付け加えてくる。

 軽く放り出されたような気分で、少女は立ち尽くした。

 今まで選べなんて言われたことがなかった。それだけに少女は戸惑わずにいられない。突然、降って湧いた初めての出来事に、どうしていいかわからなくなる。

 どっち。どうしよう。

 どちらにした方がいいのだろう。あるいは、どちらが正解なのだろう。答えを求めて少年に視線を送るも、彼はのんびりとあくびをしている。

 でも、選んでいいと。彼がそういうのなら。

 一音一音飲み込むように、少女はその名をゆっくりと呟いた。


「……ティア・ロートレック」


 どこか甘く澄んだ響きは、聞いていて心地よかった。

 なんだか自分だけの宝物をもらった気持ちになって嬉しくなる。胸の奥に、じんわりと明かりが灯ってあたたかくなるのを感じながら、少女──ティアは頬を緩ませた。


「いい…名前ですね」


 自然と口元が綻ぶ。

 少女は口の中で自分の名前を転がした。

 ティア。

 ティア・ロートレック。

 嬉しいような、くすぐったいような、胸に満ちるあたたかいものにひとしきり浸った後、ティアはふわりとした微笑みを浮かべた。


「で、ティア」

「はいっ!」


 はつらつとした返事をし、そこではたと気づいた。


「……あ、そうでした。名前っていうんなら、あなたの名前は?」

「ああ、俺はエルス。エルス・ハーゼンクレヴァ」

「エルスさん」

「エルスでいい」

「え? でも初対面なのに……」

「事象に敬称をつける理由が見当たらない」

「事象?」

「俺のは識別番号みたいなものだっていう意味だ。他と区別するため便宜上つけられてる名称であって、個を表す名前とは少し違う」

「じゃあ、あなたの本当の名前は?」

「忘れた」

「それならつけてあげます、変な人!」

「なるほど、悪意がないのが最大の悪意、と」

「悪意!?」


 甲高いティアの声が、透き通った空に響く。


「変な人、っていうのはそれこそ初対面の相手には言わない。好意的な意味でなら、面白い人とか不思議な人、せいぜい変わった人ぐらいに留めると思う。たぶん?」


 エルスの口調はごく一般的なことを言っているもので、彼本人、特に何か思っているわけではないようだった。それでもなんだか悪いことをした気がして、ティアはしゅんとなる。


「そう…なんですか。ごめんなさい」

「まあ俺は初対面だろうがなんだろうが相手に言うが」

「理不尽!?」

「全然理不尽じゃない」


 エルスはクリアに言い切った。


「人を不快にさせることを理解した上で不快にさせる言葉を使うのと、そのつもりがないのに不快にさせる言葉を使うのとでは意味が全然違う。本人にその理解があったのか、なかったのかという点で」


 蒼い瞳は、真っ直ぐで揺るぎない。


「だからといって、理解してるならやっていいと前者が正当化されるとは思わないし、後者は過失も考慮されるべきだと俺は思う。つまり、俺から言わせればどっちもどっち」


 そうからりと乾いた調子で締めくくる。

 なんだか初めて聞くような話だ。こんな話、フィディールともイリーナともしたことがない。


「それに、俺のは確かに名前じゃないが、俺にとっては意味のあるものなんだ。だから、俺はこれでいい」

「意味……。大切とか?」

「どう、だろうな」


 忘れた。そう言って、感情の乏しい瞳が虚空へ流される。

 清らかな冬の風が二人の髪をさらう。ティアは風にかき乱される金髪を手で押さえながら、ここではないどこかを見つめる少年を見た。静かな眼差しは、旅に迷う旅人のような、深い水底を見つめる哲学者のような。ここにはいない者の眼差し。

 一体その瞳は、何を見つめているのだろう。何を映しているのだろう。

 不意に聞いてみたくなった。遠い異国の香りがする彼に。


「エルスは、どこから来たんですか?」


 途端、エルスの深淵のような蒼空色の目にぱちりと知性が戻った。他意のない質問を投げかけたティアを、じっと見つめてくる。


「は、話したくないなら、いいんです!」


 イリーナのような拒絶ではない。フィディールのような嫌悪とも違う。ハインツのような事情を伺わせる様子とも異なる。

 それでもわかったのは、わかってしまったのは、エルスもまた話してくれない人だということだった。


「エルスはここの人じゃないのかなあって思って、それならどこから来たのかなって思ったんですけど…でも、話したくないんならそれでいいです。……大丈夫、大丈夫ですから」


 大丈夫。それは一体誰に対して向けられた言葉なのだろう。弱々しく口にするたび、わからなくなってくる。

 エルスは何も言わない。何かの一線を前に、踏み越えるか踏み越えざるかを冷静に見定めるような目でティアを見つめている。

 やがて。


「エガス・ベレニス」

「え?」


 唐突に言ってきた。続けてくる。


「オスティナート大陸の中央、リュンヌ湖に面した交易が豊かな港町だ。対岸の商業都市メアンドレと同様に、東西南北に列車が走ってて交通の面でも利便性がいい」

「湖のそばにある港町……」


 口にするなり、その風景が目に浮かんだ。

 水が輝く湖のそば、大勢の人でにぎわう港町。船着き場では荷物の陸揚げが盛んに行われ、魚の市場では虹色に光る魚や貝が次々と売られていく。


「他には?」

「え?」

「聞きたいことがあれば答えるぞ。答えられる範囲にはなるがな」


 ティアの瞳が大きく開く。


「ううん、うん……!」


 抑えきれない喜びに、ティアは何度も何度も頷いた。嬉しさのあまり、そわそわと落ち着かない心地になる。


「じゃ、じゃあ、エガス・ベレニスってどんなところなんですか。街並みとか、風景とか、あるものとか、どんな人が住んでるとか……」

「白い家と赤い瓦屋根の町並みだな。鐘楼や市庁舎、広場を中心に整然とした建物が並んでる。大陸横断鉄道とは別にトラムが郊外まで伸びてて、郊外にいくとオーブオリースの白い花が咲く畑があるな」

「しょうろう……、こうがい…とらむ……」


 知らない言葉を拙い発音で繰り返していれば、エルスがさらっと補足してきた。


「鐘楼は鐘のある塔。郊外は町周辺のちょっと田舎っぽいとこ。トラムは路面電車」

「……! はいっ」

「人は……多いかっていう意味なら多いな。〈ミオソティスの詩〉の時期には観光客も大勢くるし」

「〈ミオソティスの詩〉って歌のことですね!?」


 そう言ってティアは歌い出した。澄んだ歌声が響く。


「そっちはブラーナ童話の方だな」

「違うんですか?」


 歌うのを止め、ティアはきょとんと目を瞬かせた。


「俺が言ってるのは花宴はなうたげの方。君が言ってるのは、歌そのものの方」

「はなうたげ?」

「花の祭り」

「お花のお祭り!?」

「ここにも〈ミモザの花調べ〉があるな。ミモザ……ええと、黄色い…なんか、小さい葡萄の房みたいな形したふわふわな花を、家とか街灯とか看板とか建物に飾るんだ。街全体が黄色になる感じ」


 ミモザの花で町が黄色に染まる──どんなものだろう。エルスの言葉を引き金に、頭の中に風景が描かれていく。

 ふわりと綿毛のような黄色い花の房が、風に揺れる。小さな光が舞うように黄金色の花が咲き、優しい花の香りが街角に広がる。石畳の上のトロ箱も、亜鉛板の慎ましやかなアパートメントも、運河をまたぐ大きな橋も、全てが黄金色の明るい花で輝く風景。

 想像しているうちに、言い知れない興奮が胸に膨れ上がる。我慢できず、ティアはエルスに詰め寄った。


「他には!? 他には何があるんですか!?」

「他には、って言われても」

「なんでもいいからエルスが見てきたものを教えてください!」

「なんでもって言われても」

「なんでもいいですから!」

「ええ……?」


 反応こそ気が乗らない者のそれに見えるが、嫌悪や拒絶の色は感じられない。勢いに押されて困惑しているだけらしい。

 よしいける。ティアはもう一押しした。


「なんでもいいから!」

「ならせめてもう少し話題を絞れ」

「いたっ」


 再び額を手刀で軽く叩かれた。





* * *





 潮の香りのなか、目が覚めるほど青い海と白い家並みが広がる景色を知った。

 夜明けの丘のふもと、朝露に濡れた庭でゆっくりと満開になるバラは、夢のように美しいのだろう。

 鉄とガラス張りの屋根の下、何十もの店が肩を寄せ合う大きなブティック街を自由に駆け巡ってみたいと思った。

 数千という引き出しがついた薬棚が並ぶ、博物館のような薬局を見たら、きっと息を呑むに違いない。

 一攫千金の夢に秘めた野望。新天地への憧れや不安。人の欲に情熱。清濁併せ持ったあらゆる感情が集まる、煌めく都市の喧騒。

 白い波が寄せては砕ける波打ち際の先、帆の張られた船や貨物船が行き交う水平線。

 色々な野菜やくだものが彩りよく並び、たくさんの人が集まる青空市場。

 他にも様々な景色を教えてもらい、ティアははしゃぎっぱなしだった。


「すごいすごい……!」


 ティアは思わずバルコニー端の柵に向かって走り、白い手すりに手を置いた。

 その先には、蒼空と雲海が果てまで広がっている。

 だが、この雲の下、見果てぬ空の下に、エルスから聞いたものがあるのだ。

 聞いたこともない名前、見たこともない色、触れたことのない感触。少女の知らないたくさんのものが、この同じ空の下のどこかに広がっているのだ。

 そう考えるだけで、本当に、ただ本当に心から胸が踊った。


「ところで」


 わざとらしい咳払いが背後から聞こえた。


「俺は時間があるから別に話してても構わないんだが」

「はい」

「君の方は、逃げなくていいのか?」

「あ」


 ぽっかりと口を開き、思い出す。思い出したついでにティアは駆け出した。


「そ、そうでした。私そろそろ行きますね」

「ああ。……壁沿い、裏側に行くと、塔の中に入れる扉がある。今ならたぶん誰もいない」


 手すりに背を預けたエルスがそっと言ってくる。


「え?」

「ほら、さっさと行った方がいいぞー」

「は、はいっ」


 急かされ、ティアはぱっと走り出す。それでも身を翻す直前、ティアはエルスに頭を下げる。


「それじゃあ、エルス。ありがとうございました」

「どういたしまして?」

「またどこかで!」

「ああ。近いうちに、な」

「え? それって一体──」


 どういう意味、と尋ねようとしたところで。


「──ブランシュ!」


 聞き慣れた鋭い怒鳴り声に、ティアはぎくりと肩を強張らせた。

 恐る恐る後ろを見やる。案の定、長い金髪を束ねた翡翠色の瞳の青年がこちらに向かってつかつかと近づいてきている。美しく整った顔に尋常ではない迫力を感じ、ティアは身を硬くした。


「ふぃ、フィディール」

「まったく、お前ときたら手を焼かせてくれる。……ここで何をしている」

「えっと、あ、あの!」


 言い訳を探し、はっ、とエルスの存在を思い出す。


「そう! 今ここに男の子が──」


 指差しながら振り返り。


 ──誰も、いなかった。


 こつぜんと。

 それこそ何の前触れもなく、手すりの傍にいたエルスの姿は消えていた。もともとそこにいなかったかのように。化かされたような気もする。

 ただ、冷たい冬風だけが、少年がいた場所を吹き抜けていった。


「あ……れ?」


 ティアはあたりを見渡した。

 白い柱を連ねた柵と手すりは乾ききり、幅広なバルコニーに塔の大きな影が落とされている。

 しかし、少年の姿はどこにも見当たらない。


「……誰かいたのか?」


 フィディールが訝しげな様子で周囲を眺める。


「はい……、男の子がいたんです。私と同じぐらいの男の子が」

「こんなところに子供が入ってこれるわけがないだろう」

「でも、本当に……」

「もういい。とにかく戻るぞ」


 遮って、フィディールが背を向ける。さっさと歩き出してしまった彼は、ティアのことを見向きもしない。

 なんだか見捨てられた心地で、ティアはフィディールの背中に手を伸ばし──途中でやめた。ゆっくりと手を引っ込める。代わりにフィディールを追いかけようとする。最後、走り出す直前、もう一度、背後を振り返った。やはり、誰もいない。空が、冬の落日に向かって淡青色から白金に移ろいつつあるだけだ。

 誰だったんだろう。ティアの心の中に一つの予感めいたものが渦巻く。


「ブランシュ」


 既に遠ざかりつつあるフィディールが、早く着いて来るよう視線を送ってくる。


「は、はーい!」


 ティアは今度こそ走り出した。

 空が夕暮れ色に染まり、暗い冬の夜が訪れようとしていた。





* * *






 ティアと、フィディールと呼ばれた青年が、バルコニーから去ってしばらくした後。

 がらんとしたあたりに人影はない。西空が暮れなずみ、白い塔と白いバルコニーが、夕暮れの日を浴びて、徐々に赤い濃淡に染まっていく。

 と、空間に不規則な揺らぎが走った。透明だった空間に人ひとり分の大きさの揺らぎが生まれ、波紋となって広がる。二度三度。自然ではありえない現象。

 波紋が消えた後、すぅっと音もなく姿を現したのは、肩に金色の小動物を乗せた黒髪の少年だった。

 エルスは心の中で声にした。


(バレたかな)


 俺が不法侵入者だってこと。焦るでもなくそう考えていれば、フェイからそっけない、だが明るい声が返された。


『ティアを追って来た人については、その心配はないみたいだよ』

(なんで)

『あの人は部下から話を聞いてここに来ただけだから』


 やり取りを始終見ていた風な物言いで答えてくる。既に先の青年の記憶を視た後なのだろう。


『でも、エルスもいるってとこまでちゃんと話を聞かないで飛び出してきたみたい。だから、さっきの人は、ほんとに気づいてないと思うよ』

(せっかちか……?)


 むしろ今度は別の意味で心配になってきた。


『ま、バレてることには変わりないけどね。ティアもエルスのこと言っちゃったし』

(なら、警備隊の捜索に火がつかないうちに一回逃げるか)

『だね。それより、あの子の話に付き合ってあげるなんて優しいじゃん。どういう風の吹き回し?』

(心外だな。俺は常日頃から他人に優しく、自分に厳しくを心がけてるぞ)

『よくいう。可愛い女の子だったしね』

(そうか?)

『そうか?って、あのねぇ』


 美醜の感覚がいまひとつ人とずれているらしいエルスに言わせれば、ティアという少女には魅力をあまり感じない。

 翡翠色の大きな瞳に白く透き通った肌。確かに、明るく繊細できれいな少女を、美しいと思う人もいるのかもしれない。そういうものなのだろう。そういうものらしい。とりあえず納得しておく。


『エルスの美的感覚とやらは一回、矯正された方がいいと思うんだよね。造形に興味がないのは個人の勝手だからいいんだけどさ、美人を見て褒めるぐらいの高等技術は処世術として身につけといて欲しいな』

(一般的に幼い子供が可愛いっていうのと同じ理屈で考えろっていうんなら、あれは可愛いに区分されるんだろうが)

『中身のことは言ってないし。あと言い方がなんかもう他人事だよね。主観になってないっていうか』

(実際、主観じゃないんだから仕方ないだろ。なんか色々足りてなさそうでもあったし)

『足りない? 頭が?』

(頭も)


 足りない。与えられた知識や使える言葉も、考え方の厚みも、人としての深さも、あるいは胸も。色々、全てが足りない。


『……で、彼女が例の目的のものだったの?』

(どうだろうな。話してみたら何かわかるかと思ったが、余計にわからなくなっただけだった)


 そう言って、エルスは革手袋をはめた自身の手に視線を落とした。

 ティアがエルスの外套に触れたとき、エルスの身体にも走った強烈な共鳴音は、今も残響として身体に薄く残っている。

 と、エルスはしみじみ息を吐いた。


(それにしても、アファナシエフ……。よりにもよってアファナシエフ)

『オルドヌング族の名家じゃん。とっくの昔に滅んでるけど』


 かつて、この大陸にはオルドヌング族という種族がいた。いた。過去形。つまり今はいない。滅んだ。消えた。オルドヌング族と呼ばれた彼らは、四百十年前に、〈極夜の灯火〉という光の柱と共に消滅した。

 オルドヌング族は疑似的に世界に干渉し、超常の現象を起こすことができた。世のため人のため誰かのためなら、奇跡さえも起こす力──通称、魔法。

 また、魔法の力も、オルドヌング族の消滅とともに消えた。

 今は人間種族でありながら、法則世界に干渉し変革することができる技術士が残っている。例えば、法則世界から音や物質を感知し、人の心、思考、あるいは奥深くに眠る記憶さえも視ることができるフェイのように。


(ああ。ここコキーユ研究所に収容されていたアファナシエフ家の生き残りも〈極夜の灯火〉のときに亡くなっている)

『なら話終わってるじゃん。アファナシエフの姓だけ与えられたんじゃない? リーゼロッテ・ローゼンハインみたいに』

(その線はティアの方はありそうだが、もう一人の方がな……)

『フィディールってやつ?』


 ティアがフィディールと呼んだ金髪の青年を思い出す。束ねた長い金髪を軍服になでつける二十歳過ぎの美麗な青年。

 エルスは頭の奥で埃被っていた記憶を引っ張り出した。

 フィディール・アファナシエフ。帝都カレヴァラの代理執政官。

 執政官であるディディウスと血の繋がりはない。養子だ。代理執政官という肩書きこそ大層なものに聞こえるが、執政官がいる限り直接的な権限を持つことはない。その役目は精々、執政官の秘書か補佐程度で、地位は帝都カレヴァラの各地を取りまとめる長老以下。ゆえに、お飾りと揶揄された。否、お飾りでは終わらなかった。

 帝都カレヴァラの防衛を担う警備隊員に見劣りしない実力を持ち、前線で切った張ったもこなせば優れた指揮官として頭も回る。外交をこなしながら培われた見識は深く、おまけに交渉も巧みと評判だ。

 結果、現在におけるフィディールの実質的な発言力は長老に比肩するらしい。

 という、噂話はさておき──

 エルスはぶつくさぼやき始めた。


(アファナシエフっていうんなら、あいつの方がアファナシエフだろうなあ)

『フィディールさんとやらとお知り合い?』

(いいや、まったく)


 エルスはあっけらかんと否定した。


 ──フィディールについて、不確定な情報がある。 


 オルドヌング族と人間種族の混血児である可能性。

 可能性の域を出ていない。情報によれば、フィディール本人は魔法が使えない。ましてや、四百年以上の時を経て、滅んだオルドヌング族の生き残りが現れるなんて、眉唾物もいいところだ。

 いいところ、なのだが。

 エルスはぽつりと声に出して呟いた。


「……こっちの世界のと会いたくはなかったんだがなあ」


 言葉の意味を知るものは、いない。

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