幕間 王と女王の遊戯

 明るい冬の陽光が、窓辺に降り注いでいた。

 男──ハインツは、窓のすぐ傍の椅子に腰掛け、うっとりと呟いた。


「……ああ、なんて充実した午後の時間なんだ」


 平和な昼下がり、広い部屋には誰もいない。口うるさい上司フィディールも、美人だがおっかない副官カヤも、お小言を言う部下オズウェルも。由緒ある貴族の部屋といった趣のなか、立派な暖炉に薪がくべられ、柔らかい火が爆ぜているだけ。

 静かで優雅な午後のひととき。貴重な時間を味わいながら、ハインツはそっとティーカップに口づけた。紅茶から春の花畑を思わせる香りが漂う。


「これこそ大人の休日ってやつよ。うるさいのにいられちゃ敵わねぇからな」


 しみじみと呟き、白い皿の上、栗の花のはちみつビスケットを囓る。曲線を描く丸いテーブルの上には、白いティーポットの他、温室咲きの花々が透明な花瓶に生けられていた。

 ハインツは、すぐ隣、陽光が差し込む窓ガラスを見た。窓の外を見るつもりで。

 大きなアーチ型の窓には三十路手前の男が映り込んでいた。夜を溶かし込んだ黒髪は精悍な顔に軽やかに流れ、軍服に覆われた広い肩幅と鍛え抜かれた体格は武人のそれだ。

 ガラス窓の外、雲一つない蒼空には、溢れんばかりの光が広がっていた。大きな充足と安息に包まれるのを感じながら、確信する。間違いない。世界は自分とこのひと時を祝福している。

 すぅ、と息を吸い込み、ハインツは叫んだ。


「仕事なんてしたくねええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 と。


「──そういう台詞は、真面目に仕事をするようになってから言ってくださいね」


 背中から聞こえた穏やかな声に、ハインツはぞっと鳥肌立った。反射的に椅子を蹴りつけて逃げ出しそうになるも踏みとどまる。理性で手足の動きを抑制し停止。

 背後にいる優秀な部下は、ハインツが逃げる素振りを見せたが最後、間違いなく矢を放ってくる。しかも急所を、確実に。

 ハインツの首筋にひやりとしたものが伝う。矢の先がうなじに触れているわけではないが、首裏に突き付けられた殺気は間違いなく命を狙うもの。

 ハインツは両手を挙げた。ホールドアップ。


「あー、秀麗で壮麗で美麗で端麗なカヤよ。いつもの温和さはどこへ?」


 女性──カヤの声は、とても優しいものだった。


「お褒めいただきありがとうございます、隊長」

「おうよ」

「では早速、仕事を部下であるオズ君に押し付けて、勝手に逃亡を図って、あまつさえ、ここで呑気にお茶なんかを飲んでいる、ということに対する罰を与えたいと思うのですが」


 優しくて、冷たかった。

 一応、聞いてみる。


「……えぇと、刑を執行する前にあるしかるべき弁護とか裁判とかは?」

「ありません」

「いや、もしかしたら陪審員の方々により無罪判け……いえ、なんでもございません。ごめんなさい」


 いよいよ弓を引きそうな気配を感じ、即平伏。

 ただの弓矢ならともかく、カヤの持っているはいただけない。オルドヌング族の遺産なんて、そんなもの対抗出来るのは、同じオルドヌング族の血を引くフィディールぐらいなものだ。

 ややあって。

 キィンッ、と水晶を打ち合わせたような澄んだ音が聞こえた。うなじの辺りにあった圧迫感が消え失せる。

 ふぅ、と安堵の息。ハインツは肩越しに後ろを振り返った。


「お前、だんだんオレに対する対応の仕方がフィディールと似てきてね?」

「あら、それは光栄ですね」

「褒めてねぇっての」


 ハインツの背後に立っていたのは、とび色の髪を肩口で切りそろえた二十代半ばの女性だった。気配と音を殺して室内に入ってきたらしい。

 ハインツはげんなりと肩を落とした。


「ったく、お前なあ。いつ入ってきたんだか知らねぇけどよ、その有能さ、オレを驚かすのに使ってんじゃねぇよ」

「隊長を本当に驚かせられられるんでしたら、願ったりかなったりなんですけどねぇ」

「なんだそれ。思うんだが、カヤお前たまにオレのことを目の敵にしてね?」

「そんなことはありませんよ」


 ハインツの部下である女は和やかにおどけてみせた。綺麗に詰められた襟の間、ダフネの花が彫金された鉄細工はかけらも動かない。

 着ている服こそハインツたちと同じ物々しい軍服だが、カヤのグレーグリーンの瞳には柔和なものが浮かんでいる。こうして淡い微笑みを浮かべている分には、軍人より教師の方がよほど似合いそうだ。筆記用の薄紙を子どもたちに配り、教壇に上る姿が容易に想像出来る。

 その昔、王都グラ・ソノルの敬虔な聖火騎士にでも転職したらどうだろうか、とオズウェルが真顔で提案していたことを、なんとなく思い出す。

 そんなことを考えていれば、カヤは椅子を引くと、床に置いていたらしい何かを持ち上げた。ハインツの向かいに腰掛けてくる。


「それで、こんなところでなに暇してるんですか?」


 どんっ、と白い塊がハインツの目の前、テーブルの上に叩きつけられた。


「………カヤ」

「なんですか?」

「これなに?」


 ハインツはカヤがテーブルの上に置いた白い塊──もとい、紙の束を指差した。

 カヤはしれっと言ってきた。いかにも真面目な部下らしい口調。


「隊長がオズ君に押し付けた企画書、報告書、反省文、その他もろもろです。代表自著なので絶対にサインをお願いします」

「昨日の今日でこれかよ。こっちは昨夜の件で寝不足気味なんだぜ?」

「お疲れ様です。どうやら、無事に終わったようで」

「いんや、の間違いだろ。既にうちのトップが亡くなったって情報は、もう外にも出回ってんだろ?」

「ええ。もちろん、国民にも、ですが」

「そのあたりは、長老サマ方の手腕もあって、ある程度は落ち着くだろ」


 言いながら、ハインツは一番上にある紙を取った。胸から万年筆を取り出し、上質紙にペン先を走らせる。


「問題は、あの嬢ちゃんの存在を公表するタイミングと、その間、他国から前執政官サマの死亡理由について質問攻めになるだろーから、それの対応ってとこだろ。あと、崩落についてのごだごだもあったか」

「そういうのも兼ねて議案や要請が来ているので、ちゃんと目を通してくださいね」

「はいはい」

「それから前みたいに、サインするとこだけ見てサインするのはやめてくださいね。未踏の平原に放置された凶暴な生物を討伐する、なんていうのはもうごめんですから」

「ぐ」


 ハインツが押し黙る。

 その後、特に会話はなかった。ハインツは、男にしては綺麗なサインを書類にさらさらと書いていった。

 時折、気まぐれのように、騒がしい足音が部屋の外から聞こえてくる。普段は退屈なほど静かな最上層にしては珍しい。


「……そういや、なんかさっきからどったばったしてるみてぇだが、なんかあったのか?」

「ああ、例の彼女が部屋から逃げ出したらしいですよ」

「逃げ出した?」

「ええ。なんでも、フィディールの目の前で。それで今、警備隊の一部を動かして捜索してるんです」

「ふぅん」


 昨日の今日で脱走とは、あのお嬢さんもなかなか大胆だ。

 などと感心しかけたところで、ふと思い出した。そのまま疑問にする。


「って、嬢ちゃんの部屋って昨日から鍵つけたんじゃなかったけか?」

「つけましたよ。つけましたけど、フィディールが扉を開けた隙に逃げ出したそうです」

「相変わらず脇が甘ぇなあ、あいつ」

「何楽しそうに笑ってるんですか」


 カヤが呆れとも叱責ともつかない息を吐く。

 ハインツは笑いをかみ殺しもしない。


「いんや、あの嬢ちゃんを探してるあいつの姿は、さぞかし見ものだろうなって」

「非常事態に何言ってるんですか」

「だって、想像してみ? 面白くね?」


 物語に登場する王子もかくやといった美麗な顔をこれ以上にないぐらい歪め、血相を変えて少女を探すフィディールの姿──愉快なことこの上ない。普段は周囲に冷徹に振る舞っているため、恐れられている節がある彼だが、存外、甘い。各方面様々な意味で。

 ここだけの話、ハインツはフィディールのことを箱入りのお坊ちゃんだと思っていた。本人が聞いたら激怒しそうだが。

 カヤが、不謹慎ですよ、と落ち着いて非難してくるが気にしない。

 やがて、一人合点がいったハインツは、ゆっくりと窓の外、正確には窓の下を意識した。


「なるほどねぇ。だから、さっきからんなとこにいるわけか。どうやってたどりついたんだか知らねぇけど」

「……それは、どういう意味です?」

「ん? ああ、だから──」


 言いかけ、ハインツは、げえっ!と口の端を引きつらせた。

 正面、いつの間にを召還したのか、微笑みながら弓を構えるカヤがいた。

 しかし、その目は笑っていない。むしろ据わっている。


「や、待て! 落ち着け!」


 ハインツは大慌てで手を突き出した。白銀の弓は、美しいとか美しくない以前に危険な輝きを帯びている。理不尽なまでの暴力的な力。戦慄しながら必死に叫ぶ。


「別に嬢ちゃんのことは見逃してるわけでも放置してるわけでもねぇって!」

「報告の義務を怠っている時点で同じです。どこですか。どこで彼女を見たんですか。そういう風に言うってことは、当然どっかで見たんですよね」

「だから今もきっちり監視してるって!」

「信じられません」


 居住まいを正したカヤがきっぱり断言してくる。

 だがハインツは、にやにやと人を食った笑みをカヤへ返すだけだ。

 そんなハインツの反応を見たカヤが、訝しげに眉根を寄せる。

 ハインツは無言で窓の外を示した。下を見るよう顎で促す。

 カヤがそっと窓の下に視線を落としたところで、ハインツはテーブルの上の古い双眼鏡オペラグラスを投げた。一瞥もくれずにカヤが空中で掴み取り、流れるような動きで窓を開いて覗き見る。

 窓の真下、遥か下方に白い塔の外壁に沿う円形のバルコニーがあった。そこで黒髪の少年と捜索中のブランシュが楽しそうに話をしている。


「……ブランシュの所在についてはわかりました」


 カヤの手にある白銀の弓が澄んだ光の粒となり、音もなく消えた。


「もう一人の少年ですが、こちらは不法侵入者ということでいいんですよね?」

「ああ」

「それで、彼が何なんですか? 隊長がわざわざ放置しているからには、何かあるんでしょう?」

「いーや、面白いヤツがやって来たもんだなぁって。よく見ろ顔」


 カヤが、双眼鏡オペラグラスを使って少年の顔を再度眺める。ここからだと鋭角なため、顔は分かりづらいだろうが。

 やがて、つぅ、とカヤの瞳が針のように細められた。少年が誰なのか、カヤも気づいたらしい。毎年、古都トレーネが公表している上級法術士の資格取得者と、諜報班が調べた本人の顔と略歴は、きちんと頭に入っているのだろう。

 ハインツは、悪ガキめいた笑みを浮かべた。


「……な? 面白いだろ?」

「ぜんっぜん面白くありませんよ」


 カヤが力いっぱい否定してくる。


「彼に手を出したら、向こう十年の休暇が取り消しになるでしょうね。ああ、あと古都トレーネとのいざこざは確定ですね。お願いですから、ちょっかい出すのだけは絶対にやめてくださいね。でないと国際問題になりかねませんから」


 ずらずらとまくし立てた後、カヤは椅子を戻した。予想外の反応。

 ハインツは、白い皿の上に残っていたレモンピールの砂糖漬けをぽいっと口に放り込みながら問いかけた。


「おいおい、どこ行くんだよ」

「古都トレーネに親書を出すよう長老会にとりなしてきます。それから、フィディールにブランシュの報告を」

「ええー? ひっさびさに楽しそうなのが目の前にいるのに、引き取りに来てもらうよう連絡すんのかよ?」

「当たり前です」


 厳しく一蹴される。

 ハインツは年甲斐もなく、ぶー、と口を尖らせた。すかさずカヤが睨んでくる。おっかねー、と小声で呟けば、グレーグリーンの瞳が静かな圧を増した。オズウェルといいカヤといい、どうして自分の部下は揃いも揃って真面目で怖いことこの上ないのか。

 カヤが普段以上に真面目な顔をして言ってくる。


「どういう理由で彼がここにいるかはわかりませんが、彼でなくとも公的な手続きなしに古都トレーネの法術士、しかも上級法術士があそこにいる時点で問題です」

「まあな」


 別段、興味なく同意する。


 帝都カレヴァラより遥か北。オスティナート大陸の北方を支配する国がある。

 深く眠るような雪が降り積もる永久樹氷の森の奥、美しい氷に閉ざされた〈氷幻鏡の迷宮〉の中、女王によってとこしえの春が約束された魔法の国。

 名を、古都トレーネ。魔法の力を引き継いだ法術士による法術士のための楽園。

 異国人である古都トレーネの法術士が、立ち入りが禁止されている白樹の塔の最上層にいる。控えめに言って大問題だ。


 カヤが窓の下にいる少年に用心深い視線を送る。


「……一体どこから入り込んだんでしょうね」


 エルス・ハーゼンクレヴァ。カヤの色のよい唇から、声にならない名が聞こえた。


「さあな。境界面も壊れてねぇみてぇだし、わかんね」

「上級法術士ぐらいに突破できる包囲網ではないはずですが」

「そこは上級法術士関係ねぇだろ」

「……そうですね」


 カヤが深々と嘆息した。

 真面目なやつは大変だねぇ。ハインツはそう軽く言いながら、少年の外套コートのフードの中、毛皮に包まれて寝ていた黄金色の小動物を思い出す──ま・さ・か・、ただの小動物ではないだろう。噛み砕いたレモンピールの苦さが、砂糖の甘さのなかにじわりと広がる。


「それでは。私はこれで失礼します」


 カヤはそう言って礼儀正しく一礼した。踵を返す直前、釘を刺してくる。


「隊長も、サボりはほどほどにして働いてくださいね」

「へーへー」


 適当に手を振り、優秀な部下を追い払う。


「まあ、古都トレーネに連絡するしないは任せるけどよ、多分、あいつに関しては向こうは干渉してこないと思うぜ。むしろ放置しとくんじゃね?」

「……どういう意味ですか?」


 カヤが足を止めた。靴底の縁が黒く光る。

 ハインツは手のひらを上下に振った。食いついてきたカヤを丁寧に手招きしてやる。


「まーまー、座れカヤ。じっくり説明してやるから」

「……簡潔かつ明瞭にお願いしますね」


 渋々と再び腰を下ろすカヤに、ハインツはにぃっと狡猾に笑った。


「簡単に言やぁ、古都トレーネには、あいつをどうこうする権限がない」

「なぜ?」


 端的な問い。

 ハインツはあっけらかんと返した。


「──エルス・ハーゼンクレヴァが上級法術士の資格を取った暁には、古都トレーネはあいつの行動に一切口を挟まないっつぅ取引をしたからさ」


 その言葉の意味を数秒かけて咀嚼したカヤは。

 なんて難儀な、と、頭を抱えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る