第八小節 鳴る筈のない開幕の鐘

 ひやり、と。

 周囲の温度がいきなり下がったような気がして、ティアははっと目を覚ました。毛布を跳ね除けながら上半身を起こし、自分の部屋を確認する。

 真夜中の部屋はしんと静まり返っていた。

 水音のしないシンクの傍、熾されたストーブの火はぬくもりを残している。片付けられた火かき棒や薪にも特に異常らしいものは見当たらない。ティアはほっとして息をつく。

 と──


「……ぅ」


 突然、謎の冷気に当てられ、ティアはぶるっと身震いをした。窓も扉も締め切られている。にもかかわらず、外に放り出されたような寒さ。

 ティアは奇妙な胸騒ぎに引かれると、寝台から足を下ろした。白い半月に照らされた石床をひたひたと進み、扉の前までやってくる。

 どうせ鍵がかかっているに違いない。こんなことをしても意味なんてないのに、何をしようとしているのだろう。半ば諦めた心地でティアは扉を引き──


 ──鍵は、かかっていなかった。


 思考が止まる。

 その隙に、乾いた冬の空気が扉を押し開き、ぶわりと室内に流れ込んでくる。


「なんで、鍵が……」


 呟くも答えてくれる者はいない。胸騒ぎを描いたように風が乱れ騒ぎ、長い金髪を煽る。

 これが平時なら、喜んで外へ飛び出していたところだが、今は不審感の方が勝った。部屋の外の窓の先、星のない不吉な闇空を見ながら立ち止まる。

 ……何かの異常事態が発生している。

 ティアは直感的にそう判断すると、ばっと、室内に駆け戻った。素早く着替え、手提げランプを掴んでがむしゃらに火をつけ──後は早かった。揺れる微かな油煙と灯りを手に、寒々しい螺旋階段へ飛び出す。

 左手、階段の下には濃密な闇が沈んでいた。時折、生き物のような風の唸り声が聞こえてくる。

 ごくり、と息を飲み、ティアはランプをかざした。灯りを手に、注意を払いながら進む。

 一段一段、階段を下りていくたび、何か嫌な予感が膨れ上がっていくのを止められない。取り返しのつかない方へ踏み出しているような──気づき、はっと首を横に振った。浮かんだ不安をぱっぱと追い払う。


 そう、だって──

 だって、いやなことなんて、夢の中でしか起こらないんだから。

 そう、嫌なことなんて、そう簡単に起こるわけがない。

 きっと、いつも見る夢みたいなものだ。

 幼いフィディールが、自分の名を呼んで、死なないでと泣き叫ぶ夢──あれだって、夢だった。

 染みるほど美しい新緑の中、自分ブランシュをお姉ちゃんと呼ぶフィディールの声。

 夢の中のフィディールは、大粒の涙をぼろぼろと流しながら、自身が血で濡れていることなんて構いもせず、何度も何度も自分ブランシュの名を繰り返す。

 いやだと、死なないでと、どうしてと。

 そんな風に泣きじゃくる弟(フィディール)を見ながら、自分ブランシュはどうしてそんなに泣いてるのかわからなくて。

 ああ、自分ブランシュの血で汚して、悪いことしちゃったなあ、ごめんねって言わないと、と思いながら。

 服を汚したら母様に叱られるなあ。母様ったら、フィディールのことは滅多に怒らないくせに、自分ブランシュのことはよく注意してくるからずるいなあ、と思いながら。

 でも、そんなことより、大好きだよって。

 笑顔で、フィディールに言いたかったのに。


 ──でも、それは、わたしだったっけ。あなただったっけ?


 と、自分と同じ女の子の声が頭を叩く。

 女の子は人懐っこい笑い声で。


 ──だって、あなたは、わたしなんだから。


 受信者不明のノイズが聞こえ、記憶はぶつりと通信途絶。


 一体、何を考えていたのか記憶があやふやになり、ティアは立ち止まった。

 見上げれば、時計のような計器を備えた昇降機。いつの間に、ここまで下りてきたのだろう。怪訝に思いながら昇降機の脇にある、真鍮製の細長いプレートのボタンを押す──反応はない。

 ティアはうなだれた。都合よく、エルスでも現れてくれないか。

 すると、突然、計器の針ががたがたと震え出した。急速に、機械的な音が下から上がってくる。


「えっ?」


 異質な針の動きと音の後、昇降機は下から現れた。ガラス扉と蛇腹扉の向こう側、天井からぶら下がった裸電球が、昇降機の中でぶらんと勢い余って跳ねている。

 昇降機の中は空っぽだった。誰も乗っていない。

 からからから、と。からくりめいた音を鳴らしながら、触ってもいないガラス扉と蛇腹扉が開く。

 ……きっと自動で開くものなのだ。

 自らにそう言い聞かせ、ティアは昇降機の中に進んだ。裸電球の下までやってくる。

 そのときだった。

 がこんと、大きな揺れが下から貫いた。勝手に蛇腹扉が閉じ、昇降機が下降する。

 見れば、壁のレバーが、勝手に上下にがたがたと動いていた。


「な……に……?」


 声が震える。得体のしれない恐怖がせり上がる。

 昇降機は下へ下へと下りていく。一体どこまで下りていくのか。エルスと話したバルコニーより更に下、底知れない深淵へ連れて行かれるようで、ますます恐ろしくなる。


 ──まったく、もう、寝た子は起こすものじゃないって言うじゃない。その子が本当に目覚めたら、あなたの方にも影響が出るんだから。じゃあ、昇降機は動かしてあげるから、あとはがんばって……


 突然、誰かの独り言は、頭に響いた。


「だ、誰ですか……?」

 ──え? って、あら、これ聞こえてるの?

「聞こえてるって……」

 ──あーあー、マイクテス。マイクテス。音量音質はいかがしらー?

「ひゃあ!?」

 ──やだうそ、本当に聞こえてたわ。んーん、境界が思ったよりあの子の方に寄ってるわねぇ。あなたはあなたなんだから、あなたはわたし、なんていうあの子の言葉に耳を傾けるのも程々にしなさい?


 先程から頭に朗々と響くのは、妖精のように愛らしい子供の声。だが、子供という割には口調は老獪でしたたかだ。


「あ、あなたは誰なんですか…?」

 ──誰? うーん、そうねぇ、今のあなたに名乗れるようなものはあいにくと……あ、あったわ。


 ぽん、と手を打つ音の後、こほんとわざとらしい咳払い。


 ──光のごとき閃きによって、未来を見通す稀代の預言者。


 謡うように、高らかに、意識を呼び覚ますような声で。


 ──〈光詠み〉。ここ、帝都カレヴァラじゃそう呼ばれてるわ。じゃ、あとはがんばりなさい。

「ええ!?」


 終着駅だった。昇降機が急に止まり、扉が開く。


「あのっ」


 ティアは背後の昇降機の中を見渡した。やはり誰もいない。オレンジ色の電球が不安定に揺れているだけだ。


「そんな……」


 呟きながら後ろ歩きの格好で昇降機から出──靴のかかとに硬い何かがぶつかった。


「ご、ごめんなさい、よそ見してて──!?」


 慌てて振り返り、ティアは目を見開いた。

 暗い石床の上に、黒い服を着た男が倒れている。


「あ……の……?」


 こんなところで寝ているのだろうか。ティアは戸惑いながらも仰向けに寝ている男の傍らに膝をついた。起こそうと、その手に触れ──直後、声にならない悲鳴とともに、ばっと手を離す。


「……っ」


 男の手は、石でも握り締めたように固くなっていた。生き物と思えないほど冷たく固い手に血の温かさはない──死んでいる。

 瞬間、頭が真っ白になる。

 よく見れば、倒れた男たちの周りには、黒い水たまりのようなものが広がっていた。

 まさか、と思い、ランプで照らしてみると、それは赤黒い血だまりだった。


「──ッ!」


 がしゃん、とティアは派手にランプを取り落とした。寸前で悲鳴を噛み殺す。

 ふと顔を上げ、ティアは気づいた。

 足元から通路の奥まで倒れている人……人、人、人。大勢の人が、月明かりが暗く伸びる通路に倒れている。彼らはみな、仰向けやうつ伏せの格好で倒れたまま、ぴくりともしない。

 異様な光景を前に、ティアの動悸が嫌な意味で加速する。


「まさか、これ…みんな…死ん……?」


 ぞっと、氷水を背筋に流し込まれたような悪寒が走った。

 倒れている人たちが全員死体だとわかった途端、急に彼らが不気味な存在に見えてきて、身体に震えが走る。


 こわい。


 手足がかたかたと小刻みに震える。

 こんなことなら部屋から出ずに大人しくしていればよかった。

 何もしないで、何も見ないで、何も考えないで、寝台に戻って寝てしまえば、きっといつもどおりの朝がくる。イリーナが微笑みかけてくれて、フィディールに睨まれる。

 そんな、いつもの生活が脳裏を横切り──

 ばしぃっ!

 ティアは両手で自らの頬を叩いた。

 弱気を叱咤し、己を奮い立たせるため、何回か顔を叩く。

 そんなこと言ってる場合じゃない……っ!

 昇降機脇の柱を支えにティアは立ち上がった。ただの強がりだった。そんなことわかっていた。それでも今、ここで立ち上がらないわけにもいかなかった。

 何が起きているのかはわからない。だが、良くないことが起きていることには違いない。


「急がないと……」


 ティアは走り出した。点々と死体が転がる通路を駆け抜ける。

 フィディールかイリーナ、あるいはオズウェルでもハインツでも、何なら通りがかりの人でも、それこそ──エルスでも構わない。とにかく、この事態を誰か、誰かに伝えなければ。強い使命感がティアを突き動かす。

 右か左か。正面、突き当り、立ち止まる。円筒形の塔をぐるりと囲う回廊を交互に見やり──ティアは右へ曲がった。


「誰か! 誰かいませんか!?」


 走りながら叫ぶ。だが回廊に音はない。薄雲に隠された月の光が流れ込んで、白い床石が独自の色合いに染まるばかり。宮殿めいたアーチ型の窓が規則的に並ぶ通路に、扉のようなものは見当たらず、どこもかしこも静まり返っていた。

 と。


「あ……!」


 ティアの表情が明るくなる。

 緩やかなカーブを描く回廊の先、銀髪の女性の姿が見えた。よく見知った白衣。

 女性の隣には、もう一人別の誰かが立っているようだった。良かった。他にも無事な人がいたらしい。緊張が和らぎ、頬が緩む。


「イリーナ──」


 イリーナさん、と言いかけ。

 ぱん、と小気味よい音が、夜のしじまを震わせた。

 赤い血飛沫がティアの目の前で舞い散る。

 ティアの瞳に、石床へ倒れ行く男の姿が目に映る。額から血を流し、異常なほどにゆっくりと倒れ行く、男の姿が。

 倒れた男は、一度大きく痙攣し──そして、絶命した。

 イリーナに微笑みかけようしたティアの口元が閉ざされる。上げられていた手が力なく下ろされる。

 ……足は、自然と止まっていた。

 すると、うるさい羽虫でも見つけたように、イリーナが振り返ってきた。ティアの顔を見るや否や、表情が柔らかくなる。


「あら、ティアじゃない」

「……イリーナ、さん」


 出た声は、自分のものとは思えないほど、ひどく平坦なものだった。




 半分顔をなくした月がアーチの窓の外に浮かび、星のない闇夜で凍えた光を放っている。


「何を……ここでしてるんですか」


 ティアが問う先に、イリーナが立っていた。緩やかな弧を描く回廊の途中、昇降機を右にして。外套は着ていない。白衣の下は血のごとき真紅の毛織物のみで、細い手には今しがた男の額を撃ち抜いたモノが握られていた。凶器めいた光を放つ──拳銃。

 ティアは信じられない心地で聞き返した。


「……これ、まさか全部イリーナさんが?」


 イリーナの背中から漏れ出た月の光は、足元の床に冷たい陰影を落としている。

 そこには、数人の男が血を流して倒れていた。もちろん、全員動かない。亡くなっている。一体、誰が彼らを殺したのか。答えなど考える前からわかっていた。理解したくなかったが。


「そうよ」


 そう言ってイリーナは白衣を竦めると、わかりやすく落胆してみせた。


「あーあ、計画が台無しじゃない。大人しく部屋で寝ててくれればよかったのに」


 イリーナの明るい調子と、目の前の凄惨な光景が結びつかない。現実感は遠のくばかり。


「なんで……? どうして、こんなことを?」

「あなたを外に出すためよ」


 決まってるじゃない、とでも言いたげに。


「ティアだって外に出たかったんでしょう? ちょうどいいじゃない」

「で、でもこんなことまでして外に出たかったわけじゃない……」

「あら、文句言うの? ティアのくせに」

「イリーナさん……?」


 生まれて初めて出会った人と会話しているような気分でティアは聞き返した。


「ま、ちょうどいいわ。私もそろそろ限界だったし。ティア。いい機会だから教えてあげる。実はね、ずっとあなたのことが憎くて憎くてしかたがなかったの」

「え……?」

「憎いの。嫌いなの。目の前から消えて欲しいほど」


 ありったけの嫌悪が込められたイリーナの目に、ティアは傷つくよりも先に困惑していた。


「……そんな、どうして」

「どうして? 誰かを憎むのに理由って必要かしら? 嫌いとか憎いとかそういうのって理屈じゃなくて感情でしょう?」

「それじゃあ、どうして今まで私に優しくしてくれたんですか」


 聞きたいことはそんなことではなかった気がするのだが、今のティアはそう尋ねるのが精一杯だった。


「カワイソウだったから」

「可哀想?」

「そう、部屋から出してもらえず外にも行けないあなたが可哀想だったから。同情したの。憐れんだの。私がいなかったら、一人ぼっちで何にもすることなくて暇で暇で退屈だろうって思ったから、しょうがなく付き合ってあげたの。それだけ」


 蔑むような口調は冗談ではなく本気でそう思っているようだった。

 まさかイリーナからこんなことを言われる日が来るなんて、夢にも思わなかった。ティアは弱々しく首を横に振る。


「……そんなの、嘘です」

「嘘じゃないわ。演技よ。ぜぇんぶ単なるお芝居だったの。ね、だから──」


 刹那、イリーナの背後の窓で赤い光が膨れ上がった。塔の回廊が、これ以上ないほど激しく照らし出され、次の瞬間に爆音と化す。


「……もう、終わりにしましょう」


 何もかもを諦めきったようなイリーナの微笑みが、静かに揺れ──次の瞬間、イリーナは、がっ、と、ティアの手を掴んだ。


「来なさい!」

「え?」


 語調の強さに驚く暇も与えられない。イリーナは右の昇降機を片手で開くと、ティアを中へ投げ込んだ。自らも乗り込み、レバーを操作して昇降機を動かす。

 訳もわからないまま、更に下の階に連れて行かれたティアは、イリーナに手を引かれて走る。

 窓が、景色を流れていく。

 目に止まり、走りながら凝視する。地平まで続く雲海が、窓の外にない。

 代わりに、平べったい白いものが空のところどころに浮かんでいる。あれは──


「雲、じゃない……?」

「上層区画を抜けたからよ。今まであなたが雲だと思ってたものはすべて幻。……面倒くさいわね」

「え?」


 最後の台詞は、ティアに向けられたものではない。

 目の前、ばったり出くわした黒い服の男が、イリーナを見るなり、あっと声を上げる。


「貴様なぜここに──」

「邪魔!」


 イリーナが発砲。軽すぎる銃声が響き、放たれた弾丸が警備隊員の手を打ち抜く。

 男は手に持っていた剣を取り落とし、血の流れる手をもう片方の手で押さえた。


「ま、待て……っ」


 イリーナは痛みにうめく男に見向きもしない。脇目も振らず、ティアの手を引いてその場から走り去る。


「い、イリーナさん…待って……待っ……」


 そう何度か懇願するも、イリーナは立ち止まらない。


「──っ、お願いだから、イリーナさん、待ってください!」


 ついに大声で叫んだ。


「もうついたわよ」

「ここ……は……?」


 二人は両開きの扉の前に立っていた。イリーナの細腕が扉を押し開ける。

 ギィ……と、重たい音に反して、扉は意外にもあっさり開いた。

 室内はひどく暗く、そして広かった。入口の両脇、彫刻を施した燭台に火はない。左右に並ぶ高い書架の上、採光窓から月明かりが差し込んでいる。

 ぱちり、と背後のイリーナの手元から機械仕掛けの音。

 等間隔に並ぶ壁際のガス灯が、ぽつりぽつりと端から奥へ向かって灯り始める。

 イリーナは何も言わずに歩き出した。ティアも後ろから着いていく。

 薄暗い中、埃っぽい空気が貯まる床の上、古い書籍や家具が目に入る。シンプルな平机と木製の長椅子、閲覧席キャレルのため仕切られた区画──ここは図書館か何かだろうか。

 部屋の最奥、イリーナは一際豪奢な本棚の前で立ち止まった。これでいいかしら、とうなずき。


「入りなさい」

「え?」

「入りなさいって言ってるの」

「ええ!?」


 イリーナはさっさと棚の下の扉を開くと、中に入っていた書籍と棚板を適当に取り出してティアを押し込んだ。大人一人分のスペースに、細いティアの身体がすっぽりと収まる。


「ちょ…っ、イリーナさん!」

「いい? どんな音がしても絶対に出てはダメ。声を出してもダメ。ここで待ってれば、あなたが昼間会った人が迎えに来てくれるから。それまでここから出ないこと。約束できるわね」


 それは小さな子供に言い聞かせるような口調でありながら、異の声を唱えることを許さない強いものだった。


「約束って……イリーナさんは? イリーナさんはどうするんですか?」

「大丈夫よ。後で今日脱走したときに会った人が迎えに来てくれるから。それまでちゃんと待ってなさい」

「そうじゃなくて!」


 首を横に振って、がむしゃらに否定する。

 目の前にいるイリーナがどこか遠いところへ行ってしまうような。もう二度と会えなくなってしまうような。そんな漠然とした不安と焦燥。


「イリーナさん…どっかに行っちゃうんですか……?」


 答えはない。ティアはたどたどしい口調で追いすがった。


「ま、また会えるよね……? 会えなくなるのは今だけで、また明日、会え……」


 無言だったイリーナが、なんだか頼りなく苦笑した。

 ひときわ強い衝撃がティアを襲った。


「なんで──」


 叫びかけ、ぐっと強い力で肩を引かれた。


「ティア、聞いてちょうだい。この先、誰に命令されたからでもなく、誰に押し付けられたからでもなく、自分で生きる道を選びなさい。全てを知った上でここに戻ってくるのならそれでも構わない。けれど、何も知らないままここで生きていくのは私が許さない。真実ではなく、事実を知りなさい」

「真実ではない、事実……?」

「ええ。そしてこれは私の賭けでもあり、復讐でもあるの」

「賭けって、復讐って……何なんですか。どういうことなのか説明してください!」

「今のあなたに説明したところで信じてもらえるとは思えないわ」

「っ、それでも!」


 食らいつく。もう散々だった。何も教えてもらえないまま、勝手に蚊帳の外に放り出されて、自分で勝手に諦めて──おまけにイリーナはどこかに行こうとしていて──もう、散々で飽き飽きだった。寂しさのまま諦観するのも、諦めたフリをして大人しくしているのも。


「お願いですから──っ!」


 渾身の思いで、ティアは叫ぶ。

 返ってきたのは、無情そのものだった。


「じゃあ、あなたは最初から殺されるために生まれてきたと言ったら、それを信じて受け入れられるの?」

「え……?」


 呆けた顔を上げ。

 刹那、ぱしん、と鋭い音が鳴った。イリーナがおもむろにティアの頬を軽く叩いていた。ごくごく力加減がされた弱い平手打ちは、けれどティアが怯むにはそれで十分で、何よりもイリーナに叩かれたのはこれが初めてのことだった。あっけにとられて目を瞬かせることしか出来ないでいると、イリーナが、感情のこもらない目で見下ろしてくる。


「……別に、私は難しいことを要求しているわけじゃないわ。これからは自分のことは自分で決めなさいって言ってるだけ。それがわからないの?」


 ──どうして。

 縋る思いで瞳を上げる。

 すると不意に、イリーナの瞳に柔らかな光が灯った。困ったような、どこか泣き笑いにも似た微笑みがイリーナから返される。


「お願いだから、最後ぐらい、私のわがままを聞いてちょうだいよ」


 祈りのような、呟き。

 ……さっきイリーナは、ティアのことが大嫌いだと。

 憎くてたまらないと、言っていたけれど。

 ──そんなの、嘘だ。


「イリーナさ……」

「……もう、いいの」


 そのとき、疲れきった死人のように首を振るイリーナに、何を返せばよかったのだろう。

 ティアはそれがわからなくて、何べん考えてもわからなくて、言うべきことが思いつかなくて。何か言わなければと思ったのだけど、何一つとして肝心の言葉は喉から出てこなかった。

 ふっと伏せがちだったエメラルドグリーンの眼差しがティアを捉えた。見切りをつけるような冷然とした目で扉を閉める。光が細くなっていく。


「待──っ」


 とっさに手を伸ばす。だが、その手はイリーナに届くことなく暗闇に閉ざされた。錠の落ちる音。深い闇が覆う。固く閉じた扉は押しても引いても微動だにしない。ティアは握った拳を叩きつけた。


「イリーナさん! ここを開けてください!」


 イリーナの足音が遠ざかっていく。立ち止まることも振り返ることもしない。

 ティアは苦しさのまま、何度も扉を叩いた。


「イリーナさん、イリーナさん……っ」


 呼ぶほどに音が遠くなる。

 暗い静寂に紛れて、足音も聞こえなくなる。


「いやだ……っ、いかないで。お願いだからいかないで」


 声が届かない。

 二度と届かない。

 もうなにも、届かない。


「イリーナさ……」


 行ってしまう。

 イリーナが行ってしまう。

 二度と会えなくなってしまう。


「っ! イリーナさん──!」


 途切れ落ちる何かを、必死に繋ぎ止めようと叫びかけた瞬間。


「──遊びは終わりだ。イリーナ」


 今までに聞いたことがないほど、冷淡なフィディールの声が。

 ティアの叫びに応えるように響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る