第三小節 小さな部屋の外で、少女と騎兵と王と

 ブランシュの目の前、小さな部屋の外には、厚い石壁を四角くくり抜いた窓があった。そこに引き寄せられるよう、知らず窓に近づき、灰色の石に手をつく。

 溢れんばかりの光を吸い込んだ空がどこまでも広がっている。

 冬の冷たい空気は澄み渡り、肺を、胸を、鼓動を、心を満たしていく。

 小さな部屋の外から見た光と空はあまりにも美しく、生まれて初めて見るもののように新しい。鼓動が淡く高鳴るのを感じながら、ブランシュは蒼い空を眺めていた。

 まるで知らない世界に巡り合ったような、透明で新鮮な気持ち。

 フィディールやイリーナが訪れた際、扉の向こう側の景色を見ているのだが、こうして出てみると全く違う景色に見える。毎日見ているはずなのに、こんなにも景色が変わる。不思議だ。

 と、ブランシュは右に聳え立つ壁に気づいた。ひんやりとしたそれに触れる。


「これ……」


 恐らく、ここは塔の最上階なのだろう。上に続く階段はなく、狭い螺旋階段が下に続くばかり。

 下から誰かやってくる気配はない──ブランシュは素早く階段を下りていった。はやる胸を抑える。身体が心なしか固いのは、緊張かそれとも冬の冷気か。

 そうやって、どこまで続くのかわからない螺旋階段を下りていたときのことだった。


「あ」

「え?」


 途中、階段を上がってきた栗色の青年とばったり出くわし、お互い目を丸くする。

 見た目、ブランシュより少し年上、フィディールより少し年下。二十歳ぐらいだろうか。

 軍服に身を包む体躯は成長した青年のそれだが、顔立ちはどこかまだあどけなさを残している。

 青年は湖水色の瞳に驚きを乗せたまま、ブランシュを見上げている。


「え、あ、あの……私……」


 迷い、それでも何か言わなければ、という気持ちに突き動かされ、口を開く。


「あ、あの……っ」

「ここで、何をしているんですか?」


 先制パンチ。

 もちろん、脱走してきました、と言えるわけもなく、言い淀む。

 だが、ここで怯んではいけない。今日、自分はあの部屋から出ると決意したのだ。気を強く保ち、ブランシュは背筋を伸ばす。


「私は──」

「どうしたんですか。何か問題でもあったんですか」

「わたし……え、と……」

「何か用があったり、話があるようでしたら聞きますよ」

「あの…そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて?」


 決意は冷静な威圧感の前にあっさりと萎んだ。黙り込む。

 青年は固い無表情を崩さず、事務的な口調で言ってくる。


「……あるいは、道に迷ったんだったら、僕が部屋まで案内しますので、お戻りください」

「で、でも!」

「お・も・ど・り・く・だ・さ・い」


 一音一音はっきり言われ、ブランシュはきゅっと口を引き結ぶ。戻れと言われたところで、大人しく従えるわけもない。せっかく外に出たのだ。フィディールとの約束まで破って、あの小さな部屋から出てきたのだ。そう簡単に引き下がれるものか。

 そう思いながら真面目な顔の青年と無言で睨み合うことしばらく。

 結局、先に折れたのはブランシュだった。


「……わかりました」


 しゅんと肩を落とし、来た道を引き返そうと後ろを振り返る。

 そんなブランシュを見た青年が安堵する気配が──確かにあった。背中越しに、青年のほっと気の抜けた息が聞こえた瞬間──


「な!」


 ばっとブランシュは振り返った。不意を突くつもりで、青年の脇をすり抜ける。

 階段上の青年がブランシュに手を伸ばした。


「ま、待て──っ、て、わ!?」


 無理な体勢で手を伸ばしたせいか青年の上半身が傾き、バランスを崩す。

 構わずブランシュは階段を駆け下りた。


「ごめんなさい!」


 口だけの謝罪を残して大急ぎで階段を下りていく。

 そうして辿り着いた先、扉のない入り口をくぐると、ぽっかりとした円形の空間があった。

 灯りも窓もない、狭く薄暗い部屋の天井は、細長い円筒形のように高く吹き抜け。下りてきた螺旋階段は、どうやらこの部屋を中心に巻き付いていたらしい。

 部屋の中央に四角い檻のようなものを見つけ、ブランシュはこわごわと近寄った。

 檻についた木枠のガラス扉の上、時計針式の計器らしきものを見上げながら呟く。


「これって……」


 昇降機?という疑問は口の中へ。

 おそらく、これを使えば塔の下へ行けるはず──だが。


「ど、どうやったら……っ」


 動かし方がわからない。扉の脇、真鍮製のプレートに埋め込まれた二つのボタンを適当に押してみるも、反応らしい反応は返ってこない。


「ブランシュ!」


 背後の入り口に迫る慌ただしい足音と声に、はっと意識を奪われる。

 だから、ブランシュは気づかなかった。檻の下から上がってくる昇降機と、昇降機に乗った男の存在に。


「くああ……、ねみ。ったく、フィディールのやつ、オズが行ってんなら別にオレまで駆り出さなくてもいいだろうがよ」

「え──」


 ふと正面、ガラス扉の奥、蛇腹の格子扉が横に開かれる。カラカラと機械仕掛けめいた音。もう一枚、ガラス扉を引いた男が、あくびをかきながら昇降機から降りてきた──ときには時遅し。


「ひゃあ!?」

「あ?」


 激突した。ブランシュだけ身体のバランスを崩す。足がもつれる。

 だが、倒れる寸前、その手を掴まれた。ぐいっと、力強く引っ張られる。


「っと、悪ぃ。大丈夫か?」 


 見れば、長身の男がブランシュの手首を握っていた。粗野な見かけとは裏腹の、絶妙な力加減で、男は軽々とブランシュを立ち上がらせる。


「あ、ありがとうございます」


 フィディールやイリーナより更に年上だろうか。精悍な顔は三十路に近いかもしれない。広い肩幅に夜を溶かし込んだ黒髪の男を見上げ、そんなことを考える。

 しっかりとした男の体格と骨を覆うのは、これまたフィディールや先ほどの青年と似た黒い軍服だった。ただし、二人と違って一番上のボタンは外され、着崩されていたが。


「あれ? 嬢ちゃんって……」


 と、男がブランシュをまじまじと眺める。だが、すぐさま合点がいったように、おお、と手を打った。ついでによそ行きの紳士的な笑顔になる。


「これはこれは。こちらこそ、よそ見をしていて申し訳ありません。レディ」


 男は恭しくブランシュの手を取ると、のんびりと手の甲に口づけた。


「えっと、ごめんなさい! 私、急いでて!」

「おや、どちらにお向かいですか? よろしければご一緒しますよ」

「え?」


 男は取った手はそのままに、もう片方の手でブランシュの肩を抱いた。悪戯っぽい笑みを浮かべ、片目を閉じてウインク。

 その好意的な雰囲気に、さっきまで凝り固まっていた焦りが和らぐのをブランシュは感じた。なんとなく心打ち解け、素直に口にする。


「あの……じゃあ、私、下に行きたいんですけど」

「オーケー、レディ。この不肖ハインツ、お供させていただきますよっと」


 やった。これで先に行ける。顔を明るくしてブランシュは期待に目を輝かせた。

 と。


「ちょっと待ったあああああっ!」


 派手な砂埃を立てながら、背後の青年が昇降機の入り口に追いついてきた。

 男──ハインツが手を上げる。旧友に対するような気軽さ。


「よっ、オズウェル」

「よっ、じゃありませんよ隊長!」


 オズウェルと呼ばれた青年が、ああもう、と苛立たしげにかぶりを振った。つかつかと二人に近づくなり、ばばっと、手を払い、ものすごい形相でハインツを睨む。


「一体何をするつもりだったんですか?」

「んなの、レディのエスコートに決まってんだろ」

「彼女が誰だかわかってますか?」

「ブランシュ・アファナシエフだろ?」


 何を当たり前なことを。そう言外に付け加えるハインツに、オズウェルはふらりとめまいでも起こしたようだった。が、なんとか倒れずに踏みとどまる。


「だったら、どうしてどっかに連れて行こうとしてるんですか!」

「おいおい、女性の前で怒鳴るのはマナー違反だぜ?」

「今、そんな話してませんけど!?」


 そう言って肩を怒らせたオズウェルが、ブランシュの手を乱暴に取る。


「とにかく、お手を煩わせてすみませんでした。後は僕が責任をもって、彼女を部屋まで連れて行きますので、隊長もお戻りください」


 ぐい、とオズウェルに引っ張られ、無理やり歩かされる。


「わわわ!?」

「オズくーん」

「何ですか」


 オズウェルが肩越しにハインツをきっと睨む。

 ハインツは大げさに肩を竦めてみせた。


「おお、こわこわ。ちょっとね、女性に対する扱いとしてそれはどうなのよって」


 そう言えば、オズウェルが少しだけブランシュの手を握る力を弱めるのがわかった。それでも、しっかりと手は離さず、渋々と聞き返してくる。


「……じゃあ、どうすればいいんですか」

「そりゃ、こうっしょ」


 いきなりブランシュの足裏の感覚が消え失せる。

 気づけば、ブランシュはハインツに横抱きにされていた。


「へ?」


 すっとんきょうな声を上げるブランシュに、ハインツが小さく笑いかける。


「おっと失礼。お姫様抱っこというものは初めてだったかな?」


 からかうような笑みを浮かべたハインツが、オズウェルへ向き直る。


「ほら、女の子はデリケートな生き物なんだから包み込むように優しく接しなきゃあかんだろーが。今度、特別授業で女性のエスコートの仕方を伝授してやろうか?」

「そんなことばっか言ってるからカヤさんに怒られるんですよ。隊長……」

「あ、あの私!」


 じたばたと足を動かし、ブランシュはなんとかハインツの腕の中から下りようと試みる。

 だが、ハインツはブランシュの抵抗をものともせず、昇降機とは反対方向に歩きだしてしまった。


「悪ぃな嬢ちゃん。今日は大人しく部屋に戻ろうな。デートはまたの機会ってことで」

「そんなこと、させませんからね」

「へーへー」

「本当にわかってるんですか?」

「ほんとほんと。わかってるわかってる」


 へらへらと適当に笑うハインツの後ろから、疑わしげな目をしたオズウェルがついてくる。

 そうやってブランシュはハインツに抱えられたまま下りてきた階段を逆戻りし、自分の部屋に戻ってきた。丁寧に冷たい石の上に降ろされる。


「はい、どーぞ」

「……ありがとう、ございます」


 弱く沈んだ声で、代わり映えのしない空っぽな部屋を見渡す。

 清潔な寝台。暖炉で赤々と燃える火。真っ白なリネンが敷かれたテーブルの上には何も乗っておらず、あとは小さな台所があるだけ。

 戻ってきちゃったんだ。正面、見上げるだけの空を見つめながら、不意に思い至る。せっかく外に出たのに──そう思ったら、なんだか物悲しくなって、ぎゅっと胸が苦しくなる。

 ほんの少し部屋の外に出ただけで、ただもといた部屋に戻ってきただけ。たったそれだけのはずなのに、こんなにも悲しく、空虚な感情が満ちる。

 すると、何気ない、だがブランシュにとっては思いがけない質問が降ってくる。


「しっかし、嬢ちゃんが部屋を出るなんて、どうしたんだ?」


 とっさにどういう風に説明したらいいかわからず、ブランシュは言葉を探した。


「あの……その、私いつもこの部屋から出ちゃいけないって言われてて」


 ハインツとオズウェルはブランシュの話を聞いてくれている。


「でも、外ってどんな感じなのかなって思って、それで知りたくて……」


 言いながら、だんだん声が尻すぼみになっていく。最後には、自分ですら聞き取れないほど小さな声になっていた。

 ブランシュはぎゅっと白いスカートの裾を握り締めた。込み上げてくる悲しさに耐えきれず俯く。


「どうして私はこの部屋から出ちゃいけないんですか? なんで、みなさんは外に出ることができるんですか? なんで私だけ──なんで」


 なんで、この部屋にずっといなくちゃいけないんですか。

 続くはずの台詞は最後まで続かなかった。どうして。なんで。そんな気持ちばかりが胸の奥から溢れて止まらない。

 悲壮な顔で黙り込んだブランシュに、ハインツは軽く戸惑ったようだった。オズウェルと顔を見合わせた後、言いづらそうにぼやいてくる。


「あー……」


 ハインツは頬をかくと、すっと膝を折り曲げた。俯いたままのブランシュに視線を合わせてくる。その表情は、粗野な印象からはまるで想像もつかない優しげなものだった。


「ごめんな。それはオレたちが教えてはいけないことになってんだ」

「どうしてですか?」


 ハインツはなんだか困ったように苦笑した後、眉を下げたブランシュの髪をくしゃりと撫でた。とっておきの秘密を打ち明けるように、耳元で囁いてくる。


「教えてしまうとだな、こわーい上司がかんかんに怒って、オレの首を斬っちまうんだ」

「首、を」


 ブランシュの顔から血の気がみるみる引いていく。

 明るく笑う男の首なし姿を想像してしまい、唇が青ざめる。両手を胸の前で軽く握り、ブランシュは半歩後ろに下がった。

 すると、オズウェルが縁起でもないという風に声を潜めた。


「ちょっと何言ってるんですか」

「あ、もしかして、オレ様のこと心配してくれてる? いやーん、そんな真剣に心配されるなんて隊長冥利に尽きるなぁ」

「隊長の首はいいとして、ブランシュが怖がってるじゃないですか!」

「うん、お前は女性のエスコートの前に人様へのフォローの仕方を覚えような」


 と、その時だった。


「──で、この件に関しては、一体誰が弁明してくれるんだろうな?」


 冷厳で鋭い、ブランシュがよく知る声。

 突然、割って入ったその声に、その場の三人が目を丸くするのは、ほぼ同時だった。

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