第ニ小節 籠の中の金糸雀は飛び立つ
一針一針、ブランシュは白いテーブルリネンに赤い糸を刺していく。
丁寧に刺繍を入れた後、今度は一粒のくるみボタンと毛糸のカーディガンを一緒に膝へ。
ちらり、とブランシュは横目で右を見やった。
ブランシュが座る寝台の脇。あるいは、部屋の中心から外れた隅。そこで、フィディールが本を読んでいる。
陽の当たる椅子に腰掛け、黒い装丁がなされた小さな本を片手に持ち、優雅にページをめくる金髪の青年の姿は絵画めいていて美しい──ではなく。
……やりづらい。
フィディールが部屋にいたところで邪魔でも迷惑でもなんでもないのだが、なんとなく落ち着かない気分になる。
すると、ふと、フィディールの紙片を滑る白く細い指が止まった。伏せがちな長い睫毛が、面を上げる動きに合わせて微かに揺れ──
瞬間、ブランシュは、ぱっと顔を下に向けた。慌てて針を運び、ボタンに糸を巻き、玉留めする。
顔を上げたフィディールはブランシュを数秒見ていたが、何も言わずに本へ視線を戻した。その怜悧な横顔から、感情は読み取れない。
ほう、とブランシュは内心で息を吐くと、刺繍用ハサミで糸の端をゆっくり切った。ぱちん、と音が弾ける。
と、部屋の中央のテーブルについていたイリーナが苛々と食ってかかった。
「あのぉ、やりづらいんですけどねぇ? 代理執政官さま?」
フィディールは、手元の本から顔を上げもしない。
「お前は特に何もしていないだろう」
「訂正するわ。あんたがいると鬱陶しい」
「それはお前にやましいことがあるからじゃないのか?」
「なんですって?」
カッと艷やかな紅の爪がテーブルを鋭く叩く。
この二人、こんなに仲が悪かったのか。二人が一緒にいるところなど見たことがなかったため、知らなかったと言えばそうなのだが。それより、代理執政官って何なんだろう。
ぎすぎすと張り詰めた空気のなか、ふん、と鼻を鳴らしたのはイリーナだった。フィディールから顔を反らし、勢いはそのままブランシュへ。
「ブランシュ! 入浴の準備して検診!」
「は、はい!」
言われた通り、隣のバスルームに向かう。金色の猫脚がついた白いバスタブに湯を張り、ぱたぱたと戻ってくる。
それから、服の裾に手をかけ、がばっと衣服を持ち上げた。
「……なっ!?」
ぎょっとした顔でフィディールが椅子から立ち上がった。すかさずブランシュの腕を無理矢理つかんで止めにかかる。
「え、え、え?」
ブランシュは服の端をつかんだ中途半端な状態で固まった。目を白黒させる。
見れば、フィディールは白い頬を紅潮させていた。羞恥を抑えるように口の端を引き結び、声にならない声で何かを訴えている。
それは初めて見るフィディールの表情だった。
ブランシュが知っているフィディールの表情といえば、冷然としたものか、嘲笑めいたもの。
──もしくは、ひどく寂しげなものぐらいで。
見たことのないフィディールの反応に、呆気に取られて立ち尽くしていれば──
「いきなり人の目の前で服を脱ぐな!」
怒鳴られた。困惑しかない。ぽかんと半開きの口をなんとか動かす。
「え、……え。え? ええ?」
「ええ?も何もない!」
「でも、いつもイリーナさんの前でこうやって……」
「っ、イリーナ!?」
フィディールが身を捩らせて背後を振り返った。
だが、イリーナはくつくつと楽しそうに笑いをかみ殺しているだけだ。
「検診だもの、脱いでもらわなきゃ始まらないでしょう?」
あんたも一緒に見る?などとイリーナが軽口を叩けば、更にフィディールの頬に朱がさす。
「そういう意味ではなく、お前はどういう教育をしているという話だ!」
「どういう教育って、あら、
意地の悪い笑みを浮かべるイリーナ。
フィディールは何かに耐えるように肩を震わせると、左手の扉をびしっと指差した。大音声で叫んでくる。
「いいから隣の部屋でやれ──!」
そうして、二人は追い出されるような形でバスルームにやってきた。一転、静になる。
隣に立つイリーナといえば、何がそんなに楽しいのか、しきりにこみ上げる笑いを必死に堪えているようだった。
「あー、いいもの見れたわ。すっきりした」
イリーナは笑いながら目尻の涙を指先で拭っている。
いまひとつわからない。ブランシュは聞いてみた。
「あの、フィディールはどうしちゃったんでしょうか」
「──あんたがどうして、
エメラルドグリーンの瞳が、一瞬で深く濃い色へ変貌を遂げる。濃くて水底が見えない。核心に触れられない。
「でもまあちょうどいいわ。フィディールを含めて男の前では服を脱いだり着替えたりしないことね。面倒ごとを避ける意味でも」
「どうしてですか?」
「それは十年後覚えてたら教えてあげる」
「長いです!?」
「ガキのあんたにゃまだ早いってだけよ。ほほ、がんばって大きくなるか自分で気づくことねー」
高い声で楽しげにころころと笑ったあと、イリーナはブランシュの頭を撫でた。
「それじゃあ、さっさと終わらせてしまいましょう。服を脱いで」
言われた通り、ブランシュは衣服を脱ぎ、本日分の検診を終えた。
*
水音が、静まり返ったバスルームの中に落ちた。
ブランシュは泡立てた乳白色のお湯を掬うと、手で肌をこすった。泡とお湯からは清廉なハーブの香りがする。
「……イリーナさん」
「なぁに?」
イリーナは部屋の隅で壁に背を預け、万年筆を指先で回している。
聞いていいものか迷い、それでもブランシュは尋ねた。
「どうして、私はこの部屋から出ちゃいけないんですか?」
それは以前からブランシュが抱いていた疑問だった。
ブランシュはこの部屋から出ることを禁止されている。それはフィディールとの約束でもある。
だが、強制されているわけではない。
その証拠に、部屋に鍵はかかっていないし、逃げ出そうと思えば、いつでも逃げることが出来る。
「聞いたところでどうするの」
そこには明らかな拒絶の響きがあった。
思ってもみなかったイリーナの反応に、ブランシュは顔を上げた。音もなく水面が揺れる。
「どうって言われても……、ただ気になっただけです」
「どうでもいいじゃない、そんなこと」
「そんなことって……」
とっさにブランシュは湯から身体を起こした。
イリーナはいかにも他人事といった調子で、さらさらと上質紙にペンを走らせている。
今まで味方だと思っていた女性に冷たく突き放され、ブランシュは軽いショックを受けていた。水を含んだ長い金髪が背中に貼り付き、バスルームの湿った空気がみるみる身体の熱を奪っていく。
「何してんのよ。ちゃんと浸からないと身体冷えるわよ」
あっさりと心配するイリーナは、普段と何も変わらない。変わらず、優しい。
「……っ」
ぐっと喉元まで迫り上がった言葉を飲み込み、ブランシュは、はい、と大人しく頷いた。
*
入浴を終えたブランシュは、いつもの白い厚手のワンピースに袖を通すと、イリーナに言われた通り、先に寝台のある部屋に戻ってきた。
そこで見たものに、翡翠色の瞳を瞬かせる。
「フィディール……?」
光が緩く差し込む冬の部屋。暖かな火が燃える鉄ストーブの傍で、フィディールが椅子に腰掛けたまま、うつらうつらとうたた寝をしてる。
ブランシュは、そうっと眠っているフィディールに近づいた。
冬の静かな陽光を浴びたフィディールの髪は、小麦畑のように柔らかく輝いている。黒い軍服に覆われた薄い肩は呼吸に合わせて規則正しく上下を繰り返し、伏せられた瞼が開く気配はない。こうしてみると、美麗というより精緻なつくりの人形のようにも見える。
「……やっぱり似てると思うんだけどなあ」
じーっとブランシュはフィディールの顔を見つめた。
自分と同じ髪の色、同じ目の色、同じ肌の色。
「おまけに、姓だって同じだし」
小さく付け加える。
ブランシュ・アファナシエフ。
フィディール・アファナシエフ。
──自分とフィディールがどのような関係なのか、ブランシュは知らない。
以前、家族なのかと尋ねたことはある。しかし、そのときのフィディールは、物憂げにまぶたを半分ほど閉じ、静かに首を横に振って否定した。
それでも、ただの他人ではないのだろう。そもそも、こんなにも似ているのだから、血の繋がりが何もない方が不自然だが。
もしかして、本当に血の繋がった
フィディールが兄。
──兄?
想像し、ブランシュはふるふると首を横に振った。こんな兄はちょっといやだな。秒殺する。どう考えても、フィディールの態度は兄が妹にしてやるような優しいものではない。
と。
「……ブラン、シュ…っ」
目を閉じたフィディールが苦しげに自分の名前を呼ぶ。
ブランシュは、頬に脂汗を浮かべるフィディールの肩を軽く揺さぶった。
「フィディール、起きてくださいフィディール」
悪い夢を見ているのなら目を覚まさせてあげないと。そう思って、呼びかける。
すると、フィディールがうっすらと瞼を開いた。
「ブラン、シュ……?」
ぼんやりとした、どこか焦点の合わない瞳で、フィディールがブランシュを見た。
しっかりとブランシュは頷く。
「はい、私ならここにいます」
フィディールが、カッと目を見開いた。ばっとブランシュの手を振り払い、嵐のような激しさで叫んでくる。
「お前はブランシュじゃない! お前が──お前がブランシュなものか!」
それは、生まれて初めての強い拒絶だった。
ブランシュではない、というのはどういう意味だろうか。
今までずっと彼女はブランシュと呼ばれていた。呼ばれ続けていた。
いつからそう呼ばれていたのか記憶にないが、それでもブランシュは自分がブランシュだと思っていたし、それ以外の何かであるなんて考えたこともなかった。
それだけに、フィディールの台詞は衝撃的で、心の底から戸惑わずにいられない。
とっさに立ち尽くしていれば、フィディールが、はっと気づいたように口を閉ざした。痛烈な失態でも犯したように目線を逸らし、素早く立ち上がる。
「……先に戻る。イリーナに終わったら長く居座ってないで部屋に戻るよう伝えろ」
フィディールははずみで落ちた本を拾い上げると、部屋を出ていった。途中、ブランシュの方を見ることはしない。
直後、入れ替わるような形で、イリーナが隣の部屋から戻ってくる。
「どうしたの? フィディールが何か叫んでいたようだけど」
「……イリーナさん」
「なに?」
「私って、ブランシュじゃないんですか?」
背後のイリーナが小さく息を止める気配。だが、何も言わない。肯定の意。
「……それならブランシュって誰ですか?」
「それは──」
「私がブランシュじゃないんなら、私は一体誰なんですか? 本当の名前は何なんですか? 教えてください」
ブランシュは振り返るとイリーナに詰め寄った。自分が酷く狼狽しているのを自覚する。
だが、イリーナはブランシュの肩に手を置くと、安心させるように微笑みかけてくるだけだ。
「いいじゃない。
「今はって……」
じゃあ、昔は?
反射的に浮かんだ疑問は、口に出来なかった。
結局、心のなかに生まれた小さな陰りはそのまま、その日は過ぎた。
翌日、ブランシュは部屋の扉の前に立っていた。
太陽は中天を過ぎ、イリーナはとっくの昔に帰った後。ついでに、イリーナの後に来るフィディールは今日に限ってなぜか来ない。
扉の前に立つブランシュは、普段と異なる格好をしていた。
白い厚手のワンピースの下に丈の長い服を着込み、踵の浅いミュールの代わりに足首まで深く覆う革靴を。カーディガンの上に風を通さない毛織の外套(コート)を。
どれも、寒いときに着るようイリーナに、あるいはフィディールに言われたものだ。
冬晴れの昼下がり、いっぱいの光が降り注ぐ部屋は静かだった。外と内を隔てる扉も、今日も無言で佇んでいる。
ブランシュの部屋には鍵がかかっていない。そのことをブランシュは知っている。
ブランシュは目を閉じた。
──この部屋から、出ないように。
頭の中に蘇ったフィディールは、やはり背を向けたまま振り返ろうとしない。
ブランシュは意を決し、目を開き──あとはもう迷わなかった。扉を開いて外に押し開く。
風が、目の前から吹いた。
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