第一楽章 前奏曲に集う役者たち
第一小節 はじまりは 白き花が咲き誇る塔の箱庭で
空が、雲海の果てまで続く。
冬らしい透き通った水色の空は、光を吸い込んでまぶしい。
星はない。あるのは空と雲と光と、自分がいる一本の塔だけ。
少女は、窓の木枠に手をついて外に顔を出すと、生まれたばかりのような世界を見上げた。歌う。
「幾億の星屑に馳せた想いを謡い──」
少女の口から、ノスタルジックな音楽が紡がれる。
「降り注ぐ那由多の祈りを風の調べに乗せて」
奏でる旋律を、遠く、もっと遠くへ。そう冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込もうとしたときだった。
へぷしっ。くしゃみが出た。冷え込んだ風が強く流れ込んでくる。寒さのあまり、思わず身震い。少女は寝台の上に座ったまま、風で乱れた金色の髪を手で直し、毛糸のカーディガンの上から肌をさする。
「うぅ……、寒い」
やっぱり冬はだめだ。ずっと窓なんて開けていられない。
そう思って、少女は窓をさっさと閉めた。濁りガラスを通った太陽の光だけが、白いシーツの上、あたたかい陽だまりとなる。
そこへ、こんこん、と扉を叩くノックの音。
音が聞こえるなり、少女は、ぱっと窓辺から離れた。寝台を下りてミュールを履き、厚手のワンピースを蹴る勢いで扉へ向かう。
少女の返事も待たず、室内に入ってきたのは二十歳半ばの小柄な女性だった。
「イリーナさんっ」
女性はエメラルドグリーン色の瞳を艶やかに細めた。清潔な白衣に、編み込んだ銀髪が肩から垂れている。
「いい子にしてた? ブランシュ」
「はい。あのっ、今日は何の話を聞かせてくれるんですか?」
「はいはい、待ちなさいっての」
イリーナは後ろ手に扉を閉めてから、なだめるように少女の頭を撫でた。
ぽんぽん、と軽い手のひらの後、鼻先に大きな籠がずいっと突き付けられる。籠の中には、丸められたシーツといくつものタオル、カボチャ、にんじん、根セロリといった野菜が。あと、少しだけ魚臭い。
「その前に、窓を開けて掃除。湯浴みに検診と、ぜんぶ先にやることをやってしまいましょう?」
「はいっ」
こうしてブランシュ・アファナシエフの一日は始まる。
*
──この部屋から出ないように。
それが、ブランシュと
まだ覚めきらないおぼろげな記憶のなか、金髪の青年が静かにブランシュを見つめていたのを覚えている。
ブランシュを見つめる
──わかりました。
青年の言葉を、ブランシュは受け入れた。命令のようで、願いにも聞こえた
以来、ブランシュはこの部屋から外に出ない暮らしを送っている。
おかげで、こなす家事はすっかりいっぱしのものになっていた。
今日も今日とて、古い鉄製のストーブの前に屈んで薪炊き口の扉を開くと、火の気が残る炭を火かき棒でてきぱきとかき出す。
空っぽになった燃焼炉の中に薪を組み立て、乾いた紙とマッチを放り込めば出来上がり。
寒くて暗い冬、一日中、火を焚き続ける鉄のストーブがじんわりと温まり始める。
「ブランシュー、あんたのスモッグなんか破けてるとこあるようだったから、適当に当て布持ってきたわよ」
イリーナが小さく折り畳んだ生成りの布を投げて渡す。
「あ、はーい」
ちょうどいいから直しちゃおうかな。火が落ち着くまでの間、擦り切れたスモックに裁断した布を当て、糸と針で繕う。
次いで、シンクの水栓を一つひねり、水を吸い込んだ雑巾を固く絞る。
白木のテーブルや小ぶりな木棚などを拭いた後、石の床をモップで水拭きし、ふぅ、と一息。
隅々まで水拭きが終わったところで、ブランシュは手に息を吹きかけてすり合わせた。冬の冷たい水で手がかじかむ。
「はい、少し休憩」
と、頬にほわりと温かい湯気。隣に立つイリーナからカップが差し出された。
「わあ…っ」
甘い香りのする琥珀色のお茶を受け取り、さっそく口に含んだ──瞬間、むせる。
「やだ、何してんのよ」
「苦いんですけど!」
「そりゃあ、アニスの花を煮出したお茶だもの」
この苦味がいいのよねー、などとのんきに言いながら、イリーナは部屋の中央にあるテーブルについた。鼻歌交じりにお茶を楽しんでいる。
これ苦いっていうか渋いって言うんじゃないかなあ、と苦いお茶を嚥下しながらブランシュはちびちびと陶器のフチに口づける。牛乳たっぷりの甘いミルクティーが恋しい。
ふと、イリーナの鼻歌が歌に変わった。美しい旋律に歌詞が乗る。
聴こえてきた優しく牧歌的な歌に、ブランシュは耳を澄ませる。
ミオソティスという花を聞いたことがありますか?
一つ、ただ一つ咲き誇る、祈りの花を
もし花束にすることが出来たなら、彼女に伝えてください
いつか必ず、あなたに会いに行きます
ひかり。イリーナの傍に光があふれるのを見た。
冬の穏やかな光が集まり、歌声に溶けていく。
エメラルドグリーンの瞳が細まってあたたかな笑みとなり、艷やかな花色の唇から柔らかな旋律が生まれる。
「うた……」
知らず、ブランシュの口から零れる。
少女が許されている世界はこの部屋一つだけ。
世話をしてくれるイリーナが何者なのかも、彼・がどこに暮らしているかも、自分がどうしてここに居続けなければらないのかも知らない。
停滞した日々が続くなか、与えられたのは、窓の外に広がる空と雲と光と、イリーナが話す数々の物語。そして、たくさんの歌。
光のまぶしさに、ブランシュは目を細めた。どこか遠いところにある景色を見つめる気持ちで、歌うイリーナを見つめる。
イリーナは一曲歌い終えた後、ブランシュの方を振り向いた。緩く苦笑する。
「そんな顔しなくてもあとで教えてあげるわよ」
「そんな顔って……」
どんな顔をしていたのだろう。問いかけるより早く、イリーナが立ち上がる。
「お茶飲み終わった? 次はお風呂の準備してる間に検診と身体の訓練、やっちゃうわよ」
「は、はいっ」
カップを後ろの台所の作業台に置き、ブランシュは隣の部屋のバスルームへ移動した。蛇口をひねれば、鉛の水管を通って温かい水が湯気と共に流れてくる。白く磨かれたバスタブの底、栓がしっかりされていることを確認してから戻って敬礼。
「お湯入れましたっ」
「じゃあ、服脱いでちょうだい」
ブランシュは厚手の白いワンピースを脱いだ。ミュールさえも取り払い、寝台の端に一糸まとわぬ姿で腰掛ける。火はあるものの肌寒い。ふるりと肩を抱く。
「寒いからさっさと終わらせるわよ」
──そうして今日も一通りの検診を終えた後、イリーナがブランシュの額に手を当てた。顔を寄せ、尋ねてくる。
「頭は変な感じするとこない?」
「ないです」
「お腹の調子は?」
「とってもいいです」
「今日も健康でよろしい」
ブランシュの額から手を放し、うむ、とイリーナが頷く。
「じゃ、そのままお風呂いってきなさい」
「はーい」
ほどなくして風呂を終え、ブランシュはほかほかと湯気を立てながらバスルームから戻ってきた。新しいワンピースの上に毛糸のカーディガンを羽織り、台所のストーブ前にやってくる。
頭の上からイリーナの声。
「こらっ。そこにいないで髪の毛きちんと乾かしなさい」
「ここにいた方が、乾くの早いですよー」
「あんたそう言ってそこに座ったが最後、まともに髪の毛拭かないじゃない。ほーら、ベッドに戻った戻った」
そう言われるなり、猫の子でもつかむように首根っこをつかまえられた。寝台の上に放り投げられる。むぅ、と鼻を膨らませながらイリーナを上目で見やり、直後、顔面に畳まれたタオル。
「わぷっ」
「くくっ、いいざまね」
タオルを投げつけたイリーナは楽しげだ。
「イリーナさんはたまに意地悪……」
「はいはい、勝手に言ってなさいな」
イリーナはおざなり気味に踵を返し、寝台の向かいの壁にある台所へ歩き出した。
タオルで髪を拭きながらふくれるブランシュ。
「むー」
「あーもー、そんな顔してたら、ご飯作ってあげないわよ」
「え?」
ご飯を作るのはブランシュの役目だ。出会った頃こそイリーナに手伝ってもらっていたが、イリーナが一人で料理をすることは滅多にない。
イリーナが肩越しに振り返ってきた。いたずらっぽく笑う。
「さっきの歌、さっさと覚えたいんでしょう?」
ブランシュはゆっくりと笑顔になった。がばっとイリーナの背中に飛びつく。
「イリーナさん、大好き!」
「こら! 髪の毛乾かしてない状態でくっつくんじゃないの!」
イリーナが鬱陶しそうに叫ぶ。抱きしめたイリーナの白衣からは、薬品の香りに混ざって、麦粉の香りが仄かにした。
*
とんとんとん、と木板の上から規則正しい包丁の音が聞こえてくる。
鍋蓋の合間から、ふんわりとハーブの香りが揺れる。
じゅぅ、とバターの香りがフライパンの上で爆ぜる。
ブランシュは濡れた長い金髪をタオルで拭きながら、そわそわと待ち遠しい気持ちでイリーナの後ろ姿を眺めていた。先程から、おいしそうな音と匂いが溢れている。
イリーナは、室内にある台所の端から端を行ったり来たり。腰丈の高さで揃えられた家具が一列に並ぶ幅の短い台所を忙しなく動いている。
水栓が二つ並ぶシンクの隣、作業台でサーモン色の魚を捌くと、食器棚からフェンネルの瓶を出し、ストーブの上でことこと音を立てて煮える銅鍋に振りかける。
「さっきのやつ歌ってあげるから、あとは自力で覚えなさいよー」
唐突にそう言ってイリーナは歌い始めた。きれいで素朴な歌が広がる。
そうやってブランシュは、料理が出来上がるのを待ちながら、イリーナの歌にゆったりと耳を傾けていた。
やがて。
「はい、できあがり」
テーブルの上に並んだ数々の食事に、ブランシュは手を打ち合わせた。
「わあ……っ」
淡いピンク色をしたマスに、からりと炒ったスライスアーモンドとバターソースが添えられたもの。
ひよこ豆と香味野菜の煮込み料理からは、トマトとハーブの香りが漂っていた。
その隣、薄く切ったジャガイモが、たっぷりのオリーブオイルと玉ねぎとサラミでマリネにされている。
「冷めないうちに食べちゃいなさい」
「いっただきまーす」
ブランシュはテーブルにつくなり、パンを手に取って二つに割いた。
向かいに座ったイリーナといえば、白磁の四角い器に料理を移し替えていた。
イリーナはブランシュと一緒に食事をしない。いわく、
もっとも。
「あ、思ったよりいい感じねこれ。さすが私」
ひょいと、イリーナは木匙で煮込み料理をつまみ食いし、舌鼓を打つ。他の皿にも手をつけながら、自画自賛している。
口元が自然と緩むのを感じながら、ブランシュは尋ねた。
「ところであの、さっきのはなんていう歌なんですか?」
「ん? あれはね、〈ミオソティスの詩〉よ」
そう言って、イリーナは再び歌い始める。
伸びやかで高い歌声が、ノスタルジックな旋律を紡ぐ。
ミオソティスの誓いを知っていますか?
揺られ、風に揺られる優しき花を
忘れることのない歌を覚えているのなら
いつかあなたに必ず会いに行きます
ブランシュはイリーナの歌を大人しく聴いていたが、二番、三番と同じ旋律が繰り返されるうち、イリーナの歌声に合わせて口ずさみ始める。
二人の歌声が、石造りの部屋に染み通る。
食事をするのも忘れ、ブランシュは歌った。夢中で歌い続けた。
「……っと、そろそろ時間ね」
イリーナが胸元のポケットから古い懐中時計を取り出した。ついでに立ち上がる。
時刻はぴったり十三時。イリーナが部屋から出ていく時間だ。
毎日、同じ時刻にイリーナは帰る。昔も、今も、これからもずっと変わらない。
変わらないということを嫌というほど思い知っている──はずなのに。
「……あの、もう帰っちゃいますか?」
ふっと水が溢れるように口にしていた。気づき、はっと後悔する。
「ご、ごめんなさい! なんでもない……なんでもないですから……」
ぎゅうと服の裾を握りしめ、俯く。
答えなんてわかっている。今まで毎日、繰り返されてきたことだ。
名残惜しさに糸を引かれ、口にしてしまった言葉は取り返しがつかず、あとは、断られるのを待つだけ。叶わないことを思い知り、虚しさのまま諦観する。感情が穏やかに壊死し、気持ちが沈んでいくのを感じながら、ブランシュはイリーナの答えを待った。
「……しょうがないわね」
ふわり、と柔らかい苦笑が空気を包んだ。
顔を上げる。イリーナは椅子を引き、もう一度腰掛けようとしていた。
「今日は特別。フィディールが来る時間もばらばらなとこあるし。ほら、歌ってばっかりしてないで、食べなさい」
「……はいっ」
たまらず笑顔になった。
*
ブランシュが食事をしている間、イリーナは歌のほか、様々な話をしてくれた。
鏡のように磨かれた氷壁で作られた自然の迷宮。
清らかな河が流れる渓谷の上、高架橋を渡る蒸気機関車。
ひづめの音高く、馬車を走らせながら、ありのままの暮らしを求める芸術家。
そういった話を耳にするたび、ブランシュはまだ見ぬ世界に期待と憧れを膨らませる。
次は、次は、と物語をねだっていれば、そのときは唐突にやってきた。
ノックの音が響く。
はっと我に返ったブランシュは、扉の方を向いた。
足元に薪束をゆっくりと落とし、室内に入ってきたのは
「……部屋にいないと思ったら、まだこんなところにいたのか」
「ふぃ、フィディール!」
思わずブランシュはテーブルに手をついて立ち上がった。
扉の前に立っていたのは、長い金髪をうなじで一房に束ねた二十歳過ぎの青年だった。ブランシュと同じ翡翠色の瞳に白い肌。すらりとした目鼻は美しく整い、男にしては細い身体を黒い軍服で覆っている。
フィディールは、美麗な顔をしかめると、二人を鋭く一瞥した。
肘をテーブルにつけたままのイリーナが、忌々しげに舌打ちする。
「ちっ、今日は早かったか」
フィディールの黒い靴底が石床を進む。詰められた襟の間、ダフネの花が彫金された、盾形の鉄細工が軽く揺れ──彼はイリーナの顔を無造作に叩いた。
ぱん、と乾いた音。
「フィディールっ」
ブランシュが声を上げるも、フィディールは冷え冷えとした眼差しでイリーナを見下ろすだけだ。
イリーナが座ったままフィディールを睨みつける。
「……痛いわね。何すんのよ」
「ブランシュの世話が一通り終わったら、さっさと部屋に戻れと命じたはずだが?」
「ちょっとぐらい、いいじゃない。この子だって暇でしょうし」
「そういう余計な世話は焼かなくていい。今すぐ戻れ」
「はいはい」
軽くあしらうイリーナ。フィディールの視線の鋭さが増す。
しかし、イリーナは意に介した様子もなく、組んでいた足をすらりと解くと、立ち上がった。テーブルの下に置いてあった籠を拾い、部屋から出て行こうとする。直前、ひらひらとブランシュに手を振ってきた。
「それじゃあブランシュ、また明日ね」
「はい……、また明日」
ブランシュも手を弱く振り返す。
ぱたん、と扉が閉められ、細く尖ったヒールの音が階段を下りていく。
毎日あの女性は、どうやってここまで来て、どうやってここから帰るのだろう。イリーナの足音が遠ざかるのを聞きながら、今日ばかりは、そんな疑問が浮かんだ。
しんと、とした静寂が落ちる。
今度はフィディールが音もなく踵を返した。
「フィディ……」
「お前もお前でイリーナを巻き込むな」
ぴしゃりと封殺された。反射的に肩を小さく縮こまらせる。
「それと、わかっているとは思うが、部屋から出ないように」
部屋から出ないように。それが
いつからか、その言葉を口にするとき、フィディールは翡翠色の目を合わせてくれることはなくなった。
それでも、たった一つの約束を、少女は守り続けている。
──何のために?
空虚な自問が返る。鮮明な自答は返らない。
空っぽだ。何もかも。そう思う。
フィディールは扉を閉めるときも、ブランシュの方を見もしない。気にもしようとしない。存在しないものとして扱っているわけではない。むしろその逆だ。ブランシュが存在していることをこの上なく認めているからこそ、過度に意識しないように強く意識している。その理由はわからないけれど。ブランシュはそう解釈していた。
意識しないための意識なんて矛盾している。閉じられかけた扉の隙間から見えたフィディールの背中を、感情が抜け落ちた表情で見送る。
小さな部屋に一人残されたブランシュは、すとんと椅子に腰かけた。
テーブルの上には、まだたくさんの食事が残っている。
ブランシュは手近なパンを手に取って千切ると、すっかり冷めてしまった煮込み料理に浸した。もくもくと食べる。
ふとブランシュは〈ミオソティスの詩〉を鼻で歌い始めた。一人で歌い続け──なんとなく歌うのを止める。意味のないことのように思えたからだ。胸のなかにぽっかりとした虚ろなものが満ちる。
ブランシュは食べる手を止めると、テーブルに額を当てて突っ伏した。
ごろん、と首を横に向け、空々しいぐらい明るい窓の外を見やる。
見上げるだけの空に、鳥はいない。
「……つまんない、な」
ぽつり、と。
静まり返った部屋に、ブランシュの小さな声が残された。
*
翌日、ブランシュは寝台に寝転がり、〈ミオソティスの詩〉を歌っていた。
透き通った歌声が、淡いはちみつ色をした石造りの部屋に響く。
ミオソティスの誓いを覚えていますか?
愛しく、愛おしく咲き誇る慈しみの花を
また一つ部屋に手紙が届きました
あなたに会える日を今日も夢見ています
寝台の脇の窓からは太陽の光が降り注いでいる。暖炉に残った火と、窓から差し込む冬の日差しは大人しい。
イリーナはまだ来ない。台所の上、古ぼけた壁掛け時計の針は九の数字を刻もうとしているから、もう少しでやってくるはず。
と、こつこつと、誰かが階段を上ってくる小さな足音。
その音を聞くなり、ブランシュはぱっと顔を上げた。歌うのをやめ、寝台から降りてミュールを履き、扉の前に急ぐ。
ぎぃ、と開かれる扉にブランシュは笑いかけた。やってきたイリーナを歓迎するつもりで。
「いらっしゃい、イリーナ、さ……」
が、立っていたのは、金髪の青年──フィディールだった。
フィディールもにこやかな笑顔のブランシュに不意を突かれたようだった。だが、すぐさま表情を切り替えると、ちくちくとした視線を向けてくる。
「悪かったな。イリーナじゃなくて」
無遠慮に扉を後ろ手に閉め、フィディールが部屋に入ってくる。
「ど、どうしてフィディールが?」
フィディールは美麗な顔をにこりともしない。
「昨日の今日だからな。見張りとして来ただけだ」
「見張りって……」
「あーら、代理執政官さまはお暇でいらっしゃること」
割って入ったのは、嫌味ったらしいイリーナの声だった。
いつの間にか再び開かれていたらしい扉の向こうに、白衣の女性が立っていた。いつも通り、しっかり編み込んだ銀髪を肩から垂らし、一抱えもする大きなカゴを持っている。
フィディールは表情一つ変えずに返した。
「どこかの誰かさんが勝手なことをしてくれるおかげでな」
「直々に見張りに来てくださるなんて、嬉しいわあ~」
刹那、フィディールとイリーナの間に殺意に似た視線が走った。
……この二人、ひょっとしなくても仲が悪いのだろうか。蚊帳の外、ブランシュは緊張した面持ちではらはらと見守る。
沈黙の末、口火を切ったのはフィディールだった。
「……こいつの世話をしに来たんだろう。さっさとしろ」
「それはもう仰せのとおりに」
イリーナの芝居がかった口調。フィディールの瞳が剣呑に眇められる。射すくめるような鋭い眼差しに、ブランシュは内心で竦み上がった。
だが、イリーナはそんなフィディールの反応がお気に召したらしい。とても満足気に〈ミオソティスの詩〉など歌いながら、ブランシュの前にやってくる。
イリーナはにっこりと笑いかけてきた。
「じゃあ、今日もやることやってしまいましょうねー」
「はい……」
不機嫌極まりないフィディールと。
なぜか上機嫌のイリーナと。
こうして、いつもとは少し違う、ブランシュ・アファナシエフの一日が始まった。
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