乙和よ沈め、もっと深く。

風嵐むげん

結局、人間なんてものはいつの時代も変わらない



 ――とある小説投稿サイトのコンテストに応募する為、私は作品の題材ネタを探す旅へ出た。



 新潟県佐渡市。荒々しくも透き通るような紺碧の海に囲われ、絶えず気持ちの良い風が吹き込む自然豊かな島である。朱鷺トキが飛んでないだろうかと見上げるも、染み一つ無い空に残念ながら見つけることは出来ないようだ。

 佐渡に来るのは二度目だった。一度目は、小学校の修学旅行で。当時子供だった私には、少々退屈な場所だと感じたのを覚えているが。こうして大人になってから改めて足を運んでみると、しみじみと感じ入るものがある。

 ジェットフォイルで一時間。それだけの距離しか離れていないのに、新潟市とは空気が全然違う。初夏の陽気に汗ばんだ額を拳で拭うと、私は早速目的地へ向かう為にレンタカーを借りて車を走らせた。

 海から街中、そして山奥へと向かうこと一時間弱。看板が見えた為に、そこはすぐに見つかった。


 乙和池おとわいけ。池の中央部に植物が生い茂る浮島を持つ、県指定の天然記念物だ。辺りも深い緑で囲まれており、煩わしい雑踏からとても遠い。

 風で揺れる木々や葉。小さく揺らぐ水面に、鳥や虫の鳴き声がするだけの空気はとても静かだ。……でも、それだけだった。

 普段は街中で生きている身にとっては珍しく新鮮な景色ではあるが、他に感じることは特に無い。船内から見た海の方がまだ感動したかもしれない。


「なんか、期待外れだなぁ」


 思わず、呟いてしまう。雰囲気があって綺麗ではあるが、想像していたものとは全く違っていた。小説家になるという夢を叶えるべく、誰よりも面白く何かに刺さる作品を書くためにここまで来たのに。

 まあ腐ってても仕方がない。せめて写真だけでも撮って、次の場所へ行こう。上着のポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動させてシャッターを押そうとした。


 その時、だった。


「そうね。でも、ほとんどの観光地ってそんなものじゃない?」

「……え」


 驚きの余り、思わずスマートフォンを滑り落としそうになってしまう。慌てて端末を胸に抱え込むようにして持ち直すと、声の出所を探す。すぐに見つかった。

 数歩先の、池のほとりにしゃがみ込むようにして『彼女』は居た。いつからそこに居たのだろう、今の今まで気が付かなかった。


「最近の技術はとても進化していて、特に写真なんてとても綺麗に見えるじゃない? あれはもう詐欺と言っても過言じゃないと思うわ」


 こちらの視線に気が付いたのか、裾を払いながらゆっくりと立ち上がって振り向く女。さらりと揺れる黒髪に、雪のように白い肌。切れ長の涼し気な目元に、艶やかな桜色の唇がくすりと笑っている。

 大人びた美貌に、愛らしい笑みを飾る妙齢の女。白い浴衣という身なりも相俟って、まるで夢のようだと見惚れてしまう。


「こんにちは。あなたは、旅行者さん……かしら?」

「え? あ、ええ。まあ」

「うふふ。お若いのに、こんな辺鄙な場所に観光だなんて。変わっているわね」


 ころころと笑う女に、思わず頬が熱くなる。何とも言えない感情を持て余しながらも、好奇心がぴょこんと頭をもたげた。


「え、えっと……あなたは、地元の人ですよね」


 これはチャンスだ。インターネットで下調べはしてきたが、地元の人ならばもっと面白い話が聞けるかもしれない。

 浴衣に下駄という格好なのだから、間違いなく地元の人間だろう。


「実は、小説を書いていまして。あ、実際にそれで生活しているわけじゃなくて、無料の小説投稿サイトに作品を公開しているだけのアマチュアなんですけどね。今度のコンテストで、この乙和池の伝承を題材に小説を書いてみたくて。良ければ、詳しいお話を聞かせて欲しいんですけど」

「伝承? ……ああ、あれね。ええ、よく知っているわ」


 風に遊ばれる髪を耳にかけながら、女が緩慢に歩み寄ってくる。ふわりと香る白檀の香りが、悪戯に鼻を擽るよう。

 素敵な人だな。ぼんやりとそう思っていたのも、束の間だった。


「だって、わたしが『乙和』だもの」

「……え?」


 手が届く程の距離まで近づいた女が、目を細める。何だ、彼女は今何と言った?


 自分こそが『乙和』だと、そう言ったのか?


「あ、あの……えっと」

「……っていう展開は、流石に安っぽいかしら」


 小さく肩を竦めて、女が言う。何だ、冗談だったのか。和装という出で立ちのせいだろうか、妙にリアリティがあったが。


「乙和池の伝承……そうね、この池の名前は『乙和』という女が由来だっていうのは知っているかしら?」

「え、ええ」

「昔々、長福寺というお寺へ美しい娘が泊めてほしいとやってきました。和尚は気の毒に思って泊めてあげることにしました。どこから来たかは語りませんが、娘は名を乙和とだけ言いました。ある年の田植えの終わった頃、ふきを採りに来た乙和が、誤って女人禁制の山の近くまで来てしまいました。慌てて山を下る途中で水溜りに躓いてしまい、着物の裾を泥で汚してしまいました。そのまま帰ることも出来ず、小さな池で裾を洗っていると、乙和は池の主に見染められてしまいました」


 歌うように言葉を紡ぎながら、女が私の手を取る。白魚のような手に引かれるまま、私は池の傍まで歩を進めた。

 底の砂が見える程に透き通る水面に、吸い込まれるような感覚に陥る。


「すると、あっという間に乙和の立っていたところを浮島の様に残して、池は大きく広がっていき、池からは主の大蛇が現れ、乙和に自分の嫁になる為にここに留まれと言います。泣く泣く頼んで、一旦は帰してもらうことができましたが、三日後、大蛇が乙和の元にやってきました。大蛇は乙和を渡さねば大水を出して、村の田畑を流してしまうと言いました。和尚は困って三日間だけ待つように頼み、大蛇が帰った後、乙和を呼んで仏の道を説いて聞かせました。そうして約束の日、乙和は村中の人に見送られて池に嫁ぎました。数日後、村人たちは池の中央に浮島が出来ているのを見つけ、乙和が池に住みついた印だろうと噂し、その池を乙和池と呼ぶようになりました」


 めでたしめでたし。そう話を締めくくると、女は手を離すと再びしゃがみ込み指先で水面をパシャパシャと遊び始めた。今の話は、観光案内のホームページにも載っていたものだ。

 つまり、乙和という女が入水したが為に、この池は乙和池になったのだ。


「わたし、この話がとても嫌いだわ」

「嫌い、ですか」

「ええ。反吐が出そう。どうしてか、あなたにはわかる?」


 背を向けたまま問い掛けてくる女に、首を傾げる。この手の話は佐渡だけのものではない。日本中どこにでもありそうな話だ。


「そう。わからないの。それは、あなたがとても幸せだという証拠だわ。良かったわね」

「えっと、あなたはどうして乙和池の話が嫌いなんですか?」


 思わず、問い掛ける。個人的には、この話に関して興味深いとは思うが、それ以外に感じることは何もない。

 だからこそ、彼女がどうしてこの話を嫌うのかを知りたかった。


「だって、この話は正当化しているだけだもの」

「正当化?」

「そう。乙和は村人から見れば、素性のはっきりしない余所者だった。池の主に気に入られたことにより、彼女は池に入水するよう強制されてしまった。それなのに、村は乙和を助けようとすることもせずに、むしろ説得してあっさりと池の主に渡してしまった。村で生まれた娘だったら、家族や友人が反対してくれたかもしれない。余所者だったからこそ、彼女は『生贄』になってしまった」


 その時だった。ざあっと冷たい風が吹き抜け、木々を大きく揺らす。思わず腕で目元を庇うも、私は見てしまった。

 こんなにも強い風が吹いたのに、池の水面は微動だにしていない。先程までは底が見えていたのに、今は漆黒色に染まっている。まるで鏡のような不気味な滑らかさに、背筋が怖気立った。


 何だ、これは。


「いつの時代も、人間は変わらないわ。ある時は神のせい、またある時は妖怪のせい。この池の主が神か妖怪かなんてどうでも良いの。重要なのは、人間は自分達以外のせいにするのが大好きってこと。池の主が望んだから、乙和は池に沈んでしまった。いえ、もしかしたら手足を縛られて無理矢理沈められたのかもしれないわね。まあ、真実なんてどうでも良いのだけれど……わたしはただ、その一点だけが気に入らないの」


 女が再び立ち上がり、私の前に立った。太陽に雲が陰ったせいで辺りが薄暗く、彼女の表情がよく見えない。虫や鳥はどこかへ消えたのか、静寂のあまり女の息遣いさえ聞こえてくるよう。

 クスクス。女が舌舐めずりしながら、にんまりと嗤う。


「ところで、さっきの話だけれど。気がついてる? わたしが乙和であることを、

「…………!?」


 声が出ない。否、その場から動くことすら出来なかった。足は地面に縫い付けられたかのように重く、指先は感覚がわからなくなる程に痺れてしまっている。

 息が、吸えない。吸おうとしても、吸い方がわからない。わからない、今まで出来ていたことが頭の中でごちゃごちゃになってしまって、何も判断出来なくなってしまったのだ。


「知ってる? 年に一回お祭りがあって、乙和が好きなお菓子を池に投げ入れるの。大人しくしていてくださいって、願いながらね。乙和が気に入ったものは池の底に沈むんだけど、要らないものはずっと浮いているの。そんなお遊戯で乙和の無念を抑えられていると考えているんだから、暢気よね。池の底は冷たくて寂しいわ。それなのに、胸が焦げ付く程に恨めしい。同じ思いを誰かにも味わって欲しい、自分の元まで引き摺り下してしまいたくて仕方がない」


 ねえ。するりと、女の手が首筋を撫でる。水を触っていたせいか、まるで氷のように冷たい。そのまま首を絡めとるようにして掴む指の感触は、まるで絹のようにしなやかで蛇の如く凶悪だった。

 逃げなければ、でもどうやって。身体はぴくりとも動かない。体格では彼女に勝っているが、池までの距離は三歩分も離れていない。

 引っ張られれば、池に飛び込むことは避けられないだろう。そしたらきっと、二度と陸に上がってなど来られまい。


 かつての乙和のように、仄暗く冷たい水の底へ。


 誰にも助けられることなく、必要な犠牲だったと正当化されてそれで終わり。


 生贄の言い分などには耳も貸さずに、彼等は祈るだろう。自分達の住処には害を成さないように、平穏に生きていけるようにと。自分勝手な願望を押し付けるだろう。



 ――乙和よ沈め、もっと深く。皆の為に、犠牲になれ。



「……なんて、ね。驚いた?」


 パッと女の手が離れる。金縛りから解かれたかのように反射的に後ずさるも、女はそれ以上私に触れてくることはなかった。

 風に乗って、鳥のさえずりが戻ってくる。雲の切れ間から細い日差しが水面に注ぎ、きらきらと輝く様をぼんやりと見つめる。


「わたしがお話出来るのはこれだけよ。お役に立てたかしら?」


 幼子のように首を傾げる女に、私は小さく頷くしかなかった。満足したのか、ころころと笑って女が髪を払う。


「そう、それなら良かった。ああ、あなたは小説を書いていると言っていたわね?」

「え……あ、はい」

「それなら、ぜひとも乙和池の伝承を世に広めて頂戴な。この愚かしくも美しい話を。いつの時代でも、ふとした瞬間に誰かが思い出してくれるように」


 さようなら。ひらひらと手を振る彼女に、私も力無く振り返す。もう話は終わりだ。言葉無く告げられた別れに抗う気は起きず、踵を返し一度も振り返ることなくその場を後にした。


 あれから、早くも二週間が経った。自宅のパソコン画面を睨むようにして、出来上がった作品を何度も読み返しながら、私はあの日のことを思い出す。

 彼女は何者だったのだろうか。もしかしたらまだ、池の前で水遊びをしているのだろうか。今となってはわからないし、知る術も無い。

 作品の出来は、正直に言えば自慢出来る代物になっているとは言えない。でも、今までにはなかった感情が自分の中に住み着いていた。


暗くて、冷たい。


息苦しい、嫌な感覚。


 これだけは、絶対に忘れてはならない。これから先、死ぬ直前まで。そう心に決めて、私は目の前の作品を世界に発信した。



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