オチもないけど釣りをする
みぺこ
オチもないけど釣りをする
冒険というものは、いつだって思い立ったときにはじめられる。
心躍る旅は、いつだって日常からはみ出して存在する。
あの時だって、きっとそう。
剣や魔法がなくても、その男は冒険の旅に出かけた。
――剣の代わりに、一本の釣竿を持って。
早朝。日本では感じることもない独特のカラっとした暑さを感じて、目を覚ます。
もたれかかった車の窓から外を見ると、ホテルから続いていたエキゾチックな街並みは消え、鬱蒼と生い茂る樹木が延々と続いていた。
「『起きたんですか? もう着きますよ』」
「あぁ、はいはい。わかったよ」
異国の言葉で話す肌黒のガイドに、男は眠たげな眼を擦りながら手をあげて答えた。
運転手兼ツアーガイドのマイクは、カタコトの日本語しか喋れない。それでも男の仕草をバックミラーで確認すると、一つ頷き、舗装もされていない道に車を走らせた。
搭乗者は運転をしているマイクと、男だけ。
二人だけでは広く感じるワンボックスの後部には、竿やツールボックスなどの釣り具がぎっしりと詰まれていた。
――そう、釣りだ。
「(釣りをするためだけに、ここまで来た)」
観光の一つもせず、ただ魚を釣るためだけに。
旅行好きの友人が聞いたら、さぞかし呆れることだろう。
ワット・ポーどころか、男はバンコクすら観光していない。日本から空路で渡って、バンコクの空港に降り立ったっきりだ。
それでも男はこれから行う旅――冒険に胸が躍った。
揺れる車内で景色を眺めながら、その期待は着実に増していった。
「ここです」
マイクがカタコトの日本語で短く告げた。
ほどなくして、森林を抜け、車が停車する。
男は覚えたての現地語で『ありがとう』と返すと、車を降りて辺りを見渡す。
そこは、巨大なダムだ。
いや、もしかすると海かもしれない。そう思わせるほどに広い。見渡す限り、穏やかな水色。
遠い岸辺に生えた異国情緒あふれる木々を見て、男はようやく「ここはダムだった」と思い出した。
おおよそ日本では見ることもない巨大な川。その下流に形成されたのが、このダムだ。
「ユウ。準備、はじまる?」
同じく運転席から降り立ったマイクがカタコトの日本語で、煙草をふかしながら指さした。
その先には、ダムの岸辺。人が三人ほど乗れるカヌーのような木製の舟が停泊し、操縦するための案内人が先に乗り込んでいる。
ユウと呼ばれた男は、ズボンのポケットから煙草を一本取り出すと火を点けた。
「あぁ、そうだな。早速はじめようか」
男の言葉にマイクは頷き、車の後部から次々と荷物を取り出す。
男も煙草を咥えながらそれを手伝い、日もまだ昇っていない水辺に二つの紫煙が淡々と立ち上った。
言葉はなかった。
まるで決められたように黙々と荷物をおろし、準備をはじめる。
この日のために用意した強靭な釣竿。入念な手入れを施したリール。選び抜いた道具類と、一日中釣りをするための食料や水。
そして、はっきりと自覚出来るほどに高まった自らの鼓動。
事前準備は完璧だ。
咥えていた煙草の火が口元まで進んだ頃、着替えや竿継ぎなど全ての用意が出来た。
「――いこうか、釣りに」
誰に言うでもなく、男は呟いた。
釣り具を持ち、マイクとともに舟へと乗り込む。
男とマイク、そして操縦者を乗せて計三人の舟は、いささか手狭だ。
舟の先端――ミヨシに男は乗り込み、その後ろにマイク。操縦者はロクに挨拶もせず無言でエンジンの紐を引いた。
「ブロロロッ!」とエンジンが低いうなり声をあげたかと思うと、強引とさえ思える舵捌きで三人を乗せた舟は岸から離れていく。
三人も載せているというのに、小さな舟は唸り声を上げながら軽快にダムの中を走っていった。
水を切るように進み揺れる船体が、細やかな水しぶきを上げて、男の顔を濡らす。
暑い国だというのに早朝は過ごしやすく、速度を上げて頬を撫でる空気が気持ち良かった。
男は片手で舟べりを掴みながら煙草を取り出すと、風に煽られる中、器用に火を点けた。
どうせ釣りをしている最中は吸ってる暇なんかない。今のうちだ。
心中で呟く声は、諦めではなく期待だ。
もはやじっとしては居られなかった。待ちきれない思いを胸に、落ち着かせようと深く煙を吸い込み、深く吐き出す。
進む舟に身を任せ、煙が舟から真後ろに流れていった。
――それから煙草を二本ほど吸った頃だろうか。
ある場所でおもむろに舟が止まる。
そこはダムのど真ん中。青々とした木々が水中から立ち上り、まるでしだれかかるように水面へと影を落とす、そんな場所だった。
男が煙草の火を消し振り向くと、操縦者の男がエンジンを切り、オールを手にして身構えた。マイクも舟の上で座り込んだままで喋りもしない。
それを見た男は、釣竿を手に立ち上がった。
合図も何もない。それでも男は舟の先端に立つと、鋭く竿を振りかぶる。
――
竿から伸びた糸が立木の隙間を縫うように一直線に飛び出すと、その先端についたルアーが静かな着水音を響かせた。
その距離、約50メートル。男が普段投げる距離からすれば、決して長くはない。
男はそんなことには気にも留めず、すぐさま真剣な面持ちで手元のリールを握り、糸を巻き取り始めた。
一定の速度で、水面を睨みながら。
ワイヤーを『くの字』に曲げ、その片側に片翼2センチほどにもなるプロペラがついたルアー――バズベイトが、着水した地点から水面へと顔を出し、そのプロペラを激しく回転させながら『キャラキャラキャラ!』と特徴的な音を発して泳ぎ始める。
リールのハンドルを一回転すると、約80センチの糸を巻き取れる。男の片腕を広げた長さよりも少し長いか。
そのハンドルを淀みなく、一定の速度で回し続ける。
――穏やかだった。
日が昇りはじめ、眩しい日差しが水面をキラキラと輝かせる。
切るように泳ぐバズベイトの水しぶきとプロペラが、水面と同じくキラキラと輝いていた。
糸を巻き取りながら、じっと眺める。
50メートルの距離は、あっという間に20メートル、10メートルと減っていき、徐々に男へと水しぶきが近づく。
「……流石に
男がそう呟き、今まで一定の速度で巻いていたハンドルを手早く回し始めたときだった。
――ガボォッ!
波一つない水面を割るように、その音が響いた。
「ここで
突如手元に感じる尋常ではない重み。さきほどまで程よい弛緩を保っていた糸が、水中の何者かによってギリリと引き込まれていた。
驚きの声を上げた男は、音が聞こえた瞬間ほとんど反射的に竿を引く。
竿ごと水中へと引き込まれそうになるのを堪えながら、二度、三度と引かれる方向と逆方向へ竿を大きく振り、あおった。
その間にも、水中の何者かは縦横無尽に動き回り、もがくように右へ左に、そしてまるで男を水中に引きずり込むかのように力強く泳ぐ。
男が持つ竿はそれが掛かった瞬間から竿先はおろか、その長さの半分ほどまで曲がり、引き絞られていく。
それでも折れずに踏ん張り続け、水中の何者かと格闘していた。
「『○*△□』! 巻いて! 巻いて!」
男の背後から、マイクが興奮した声色で喚く。
必死に竿を握る男の耳には、異国語で喋るマイクの言葉ははっきりと聞き取れなかったが、後半は確かに聞こえた。
「巻いてるよ! でもどんどん糸が出てる! 巻けねぇよ!」
そう叫ぶ男の手元では、リールがジリジリと糸を吐き出していた。
そもそも、最初から設計上の限界までリールの自動糸送り出し機構は締め、ロックしているのだ。それを上回る力で何者かは糸を引いているだけ。
もし糸が巻かれた部分――スプールを手で押さえ、引き出される糸を固定すれば、今度は竿が限界だ。固定された糸は、竿と何者かを直で戦わせる。いずれ曲がりの限界が来て、竿は折れる。
ジレンマ。わずか10メートルの距離でハリに掛かったはずの何者かは、徐々に糸を引き出し、段々とその水面から遠くへ、深みへ。
好きにはさせないぞと、男は必死に竿を操り、糸を巻く。
これは戦いだ。
剣も魔法もない人間が、怪物と戦う。
そこには、ちょっと昔より頑丈で便利になった道具と、己自身。
いつだって、怪物と戦うのは道具を持てど、人間だ。
だから、男は諦めなかった。
「この野郎おおおぉぉ!」
一か八かで竿を大きく引き、あおる。
強く引かれた竿はググっと急激に曲がりこみ、糸と何者かは直線に結ばれた。
パワーファイト。道具の限界か、はたまた男の腕力の限界か。何者かが水中へと引きずり込むのが早いか、それとも道具が壊れるのが早いか。
そんな強引なやりとり。
――しかし、意外にもその強引さが功を奏した。
「浮いたっ!?」
糸から感じる凶暴なまでの張力が緩んだ。
男はその瞬間を見逃さなかった。
焦るように糸を巻き取りはじめ、何者かとの距離を縮めていく。
10メートル。8メートル。5メートル。
さきほどの胆力が嘘のように、スーッと水面へと浮いていく。
そして、わずか1メートル。
「見えた! チャド―だ!」
叫んだのは男か、それとも他の誰かだったろうか。
ぼんやり水中に浮かぶ影。
確かに映った何者か。その魚体。
見るからに筋肉質で寸胴な胴体と、まるで蛇を思わせる尖った頭。
レッドスネークヘッド、ジャイアントスネークヘッドとも呼ばれる――通称『チャド―』だ。
日本でもよく知られるライギョの仲間で、その体長は大きいもので1メートルをゆうに超えると言われている。
それには及ばないが、水中でもがく魚影も80センチはあるだろうか。
浮かんできたそれに、心の中でガッツポーズを取るのも束の間、チャド―はその身をグルグルと回しながら翻り、男の目前から再び姿を消す。
そして再度襲う強烈な引き。
糸が引き出され、段々とまた距離が開いていく。
「タフすぎる……!」
男が毒づき、竿を握る手に力を込めた。
水面近くまで上がってきても全く衰えることを知らない強烈なトルク。最大体重30キロになるとまで言われる魚体から繰り出される瞬発力と、いっそ暴力的なまでに獰猛な捻りを加えた動き。
一筋縄ではいかない怪物――まさしくチャド―は、怪魚と呼ぶに相応しい魚だ。
しかし――、一筋縄ではいかない相手でも、男は一本の釣り糸で勝負を仕掛ける。
何度引き寄せても、何度糸を出されても。
根気強く。時に強引に、時に慎重に。その魚体を段々と手繰り寄せていく。
そして、ついに――。
「――
男が叫んだ。
水面ギリギリ、舟の淵まで手繰り寄せたチャドー。
男の背後で見守っていたマイクが、急いでランディングネットを取り出し、半ばすくいあげるようにその魚体を捉えた。
不安定な船の上では、とてもではないが片手であげられない。
両手でネットの柄を掴み、吐く息一つ、舟へとずり上げる。
「……やった! 上げた! やったぞ!」
それを確認して思わず漏れる感嘆の声。
男の顔は疲労感からか汗が滲んでいたが、それを拭いもせず満面の笑みを浮かべる。
男の目に映るのは、ネットから飛び出し船上で横たわるチャドーの姿。
薄い黄土色のようにクリームを思わせる肌に、茶の斑模様を浮かび上がらせた美しい魚体。
胴回りは両手では包みきれないほどに太く、聞いた話では尾ビレに跳ねられれば裂傷を起こすとまで言われているそうだ。
いかにも怪物じみた鋭い口元には、男の竿から繋がったバズベイトが深々と刺さっていた。
「ユウ、見て。ぐちゃぐちゃ」
マイクがバズベイトを指さし、「危なかったね」と笑った。
見ると、本来『くの字』であるはずのバズベイトのワイヤーが完全に開き、あらぬ方向にねじ曲がっていた。
チャド―が男から逃れようと、右に左に、果ては回転までしながら水中を泳ぎ続けた結果だ。
「これでも日本で売ってる中では一番ワイヤーが太いものを選んだんだけどな……」
そう苦笑して、チャド―の口元からペンチでバズベイトを外す。
まさしく規格外。海外を想定していると言われたルアーでも、容易く捻じ曲げる。ここまで壊れずに釣り上げることが出来たのは幸運と呼べるだろう。
「そもそも一投目で釣れたのも幸運、か……」
チャド―の口元に、魚を持ち上げるためのグリップを挟みこみながら呟く。
一投目で釣れるのは珍しい。
この釣りをしたことはそう多くないが、男にとってはじめての経験だった。
ましてや、あんな近い位置で『
「まだまだ奥が深いな」と感慨深げに男は笑い、グリップを挟み込んだ魚体を持ち上げると、ずっしりとした重みが男の腕に伝わってきた。
「8キロはあるよ。おおきい。」
「……8キロかぁ。重いなぁ……」
マイクに返すその言葉とは裏腹に、口調はまんざらでもなさそうだった。
証拠に、男は両手でその魚体を吊るしながらもさきほどから笑みが崩れない。
大きさも大事だが、釣り上げたことが男に達成感と喜びを味あわせた。
水面は穏やかに流れていく。さきほどの戦いが嘘のように、静かな風景。
いや、さきほどもそうだったのだ。今までと変わらず静かな水面。
ただ、この静かなダムの中、男は一人戦い。
そして今、勝ったのだ。
何に勝ったのか、それはその男以外分からない。
しかし、男はその魚体から感じる重みに、その重さ以上の重みを感じていた。
分からなくていい。俺だけが知っていればいい。
男は心中でそう思った。
この旅の――この冒険の意味は、俺だけが知っていればいい。
誰が分からなくても、この感動だけは今この瞬間、男だけのものだった。
「……よし、次行くか」
男はひとしきりチャド―を眺めると、水の中へ帰してやった。
マイクは男の言葉に頷くと、舟の操縦者に向かって異国語で二、三言、言葉を交わす。
次の場所へ移動するのだ。
――まだ、冒険は終わっちゃいない。
男はまだ見ぬ魚に新たな鼓動を震わせ、舟の上で煙草に火を点けた。
「――ウマいなぁ」
再び浴びる水しぶきと風を感じながら、紫煙が真後ろに流れていった。
オチもないけど釣りをする みぺこ @mipeco-12
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